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*「ペックナンバー理論」の検証

いじめは悲惨と思う人が多い。私もそう思う。ここではそうした感情論でとかく訴えられ続けられる「いじめ」という現象に関して興味深い理論を発見した。元家裁調査官の浅川道雄氏のペックナンバー理論である。近年、よく持ち合いに出されきつつあるが、注意が必要だ。それは、市場原理主義とネオリベラルを後押しし、現在の格差社会をより一層推し進める手段として使われかねないからだ。

この勧告として非常によく説明されているHPを見つけたので引用する。
以下、
http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/essay/essay09.htmより抜粋します。

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元家裁調査官の浅川道雄氏がイジメ現象を動物行動学のペックナンバーから説明しようとしている。
ペックナンバーとは動物が嘴で他を突っつく順番を言う。
狭い鶏小屋へたくさんの鶏を追い込むと、最初は大騒ぎになるが、次第に静まって鶏の中にある秩序が生まれる。すべての群れの上に君臨し、すべてを突っつく ことができる王様鶏から、自分以外のすべての鶏から突っつき回されて、決して突き返すことができない最末端の鶏までの垂直的な順位が生じて集団は安定す る。最末端の鶏は他の鶏のすべてのストレスのはけ口として突っつき回され、1日も持たず全身血みどろになって死に、次にはその上にいた鶏が犠牲になるとい う循環が起こる。しかし鶏を狭い小屋から出して野飼いにするとペックナンバー現象は姿を消してしまう。

 浅川氏はこの現象を普遍化し、たくさんの個体が不自然で高圧的な環境に閉じこめられた場合に自然に発生する動物界の現象であるとし、最近の子どものイジ メ現象を説明しようとする。子どもたちが置かれている家庭や学校の環境は、物理的にも心理的にも窮屈で不自由を強いる競争主義的な状況であり、知・情・意 のコントロールが未熟であり快・不快の動物的反射行動にとどまっている子どもが多い集団では容易にペックナンバーが起こると説明する。
 集団の上位にいる成績または体力に優れた子どもの意向で集団の雰囲気が左右されやすくなり、イジメの手口と程度が決定され、逆らう者やうまく協調できな い者は懲罰の対象としていじめられる。直接のイジメの加害者は上位者ではなく、意向を受けた下士官クラスの下位者(パシリ)であり、命令者は君臨している に過ぎない。文科省は下手人の摘発と排除(出席停止)という対症療法的な手法でイジメを強圧的に抑えるがそれは事態をさらに困難にする。なぜなら、すでに 歪みを持っている集団は外部からの圧力によって、さらにストレスが高まり集団の凝集力が増大する。パックナンバーはより隠蔽された形態で深く進行し、問題 はさらに深化する。問題はイジメを通して発現している当該学級集団の病理であり、根っこで壊れている集団をどう再建するかである。「みんなちがってみんな いい」という個の尊厳を基礎とする葛藤、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という水平的な集団の質の再構築である。以上が浅川氏の主張であ る。
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 ペックナンバー理論は素晴らしく明快にイジメ現象を説明しているので一瞬ナルホドと思わされるが、どうもどこかで待てよと言う声が聞こえるのだ。短絡的 にみれば、動物行動の法則性を適用するれば、ただちに少人数学級を実現すればイジメはかなり解消されるという結論になるが(浅川氏自身はそういう主張はし ていない)、鶏の世界と人間の世界は本質的に異なる。本能的部分がじょじょに文化に移行し(食べるおいしく楽しく食べる 着る美しく装う 性行動 する者との単独性愛)、集団行動も本能ではなく理性的におこなう人間のふるまいはペックナンバー理論では説明できない。浅川氏は歪んで壊れている集団病理 に求めるが、これは逆にペックナンバー理論での説明を否定していることになる。病理にある集団は、50人であれ2,3人であれ支配と被支配による抑圧の移譲を生む。
 
  ペックナンバー理論を悪意を持って利用すれば、弱肉強食による適者生存を人間の一般理論とする社会ダーウイにズムによる説明に道を開き、それは
いま全世界を席巻しているシカゴ学派のネオリベラル・リバタリアニズムを全面的に肯定するものとなるじつは人間世界でのペックナンバー理論の実験はあの アウシュヴィッツ強制収容所ですでに悲惨な模擬実験としておこなわれたのだ。あの想像を絶する修羅の空間であったアウシュヴィッツでペックナンバーは起こったか。表現できないような無残で痛ましい行為もあったし、信じられない崇高な行為もあった。人間は極限状況において果たしてどこまで人間でありえる かーペックナンバーに加担した人も被害者も同じくナチスSSの被害者であった。

 さて私はアレコレの新規な理論によってうまく説明しようとする方法は潔く捨てて、現象の隅々に渡ってそれを掴み、その中にある因果関係の連鎖を発見し、 より深いところにあって因果の連鎖を生み出している構造とちからを解明し、その構造とちからに替わる別の構造による新たな現象を生み出していくというーごく普通の科学的手法を用いるしかないと思う。そして結論を先取りすれば、現代は巨大なアウシュヴィッツであり、頂点に君臨する権力がほくそ笑みながら抑圧 を下方へと移譲している醜悪な構造にあるのではないかという仮説を立てたい。それは自己と隣人と世界に対し自らの魂をどう位置づけるかというテーマで学位 論文を書き、逆に世界からしっぺ返しを受けたハンナ・アーレントの思考につながる(『アウグステイヌスにおける愛の概念』)。幾つかの現象をみてみたい。

 現象1:イジメ自殺について多くの遺族がなぜ私に言ってくれなかったのかと悔やむ。文科省は「恥ずかしがらず相談せよ」(大臣の手紙)だという。ほんと うだろうか。親に言ったら悲しむだろうと思いからか、相談は二重の尊厳の侵犯だと思うからか、ほとんど相談がないのはなぜか?まずイジメについて語る場 合ここを明確にしなければならない。

 現象2:他者が苦しんだり悲しんでいる姿を見て、どこか自分に心地よさが生まれる感覚がある。イジメをみても止めないで、一緒になってストレスを解消し ている雰囲気があるという。なぜ人を人として大切に思えないほどに、いらだちやむかつき、不安と抑圧感が蔓延しているのか。

 現象3:子どもの登下校を支援する見守り隊運動や学校門での声かけ運動は、子ども自身からみるとソフトな監視システムと映ってはいないか。

 現象4:すべてを優しく包み込む母性と母子密着を切断し子どもを自立に向かわせる父性のどちらもが衰えているという。逆に放任的子育てや過保護・過干渉という過剰介入と虐待が増大している。親はなぜこれほど子どもをいじくり廻すようになったのか。

 現象5:校長は進学者や不登校者、イジメ件数などの年間目標を教育委員会から5段階相対評価で評定され、最低のEランクの校長のボーナスは下げられてA 評価の校長のボーナスに上積みされるシステムとなっている。教師は学級での進学、生活動向を校長から評価され、教師は個々の子どもの関心や意欲を評価して 5段階相対評価を行う。学力テストの前日に、教師は一部の生徒に「明日は休むように」と説諭する。以上のような諸現象にどのような因果連関が見いだされる だろうか。

 文科省教育委員会校長教師子どもという単方向の垂直的な支配と被支配の権力構造が成立しています。この権力構造の最末端に位置する子どもたち は、頂点から下方へ垂直的に累積された抑圧を一身に担う最末端鶏になっています。こうして学校システムでは体制的なイジメの構造が成立しています。最末端 の子どもたちのストレッサーはどこへ向かうのでしょうか。それは自分たち自身の内部に弱い鶏をつくってペックナンバーを集中するか、家庭に帰って家族内で 発散するか、或いは地域でホームレスを襲撃するかです。しかし多くの親は学校信仰の呪縛にからめとられ、競争を価値基準とする子どもの評価によってわが子 を煽り立てます。子どもにとっては唯一の安らぎの場である家庭が学校化しています。親は家族独自の子育て文化を構築できず、ひたすら世間と学校の価値に追随し自律性を失って、子どもは家庭ですら自分のアイデンテイテイを恢復できません。

 袋小路に追いつめられた子どもたちは、仲間への陰惨なイジメを繰り返すか、ホームレスを襲撃するか、自分のペットをいじめるか、或いは最果てのイジメと して自分自身への自傷行為を繰り返すか、ついにはすべての外界との接触を切断する引きこもりの道を選ばざるを得ません。ではどうすればいいのでしょうか?  
 この垂直的な権力関係のどこかに切断が起きることが期待されます。どこに切断の可能性が最も大きいでしょうか?それは子どもの親が学校信仰の呪縛から
自らを解き放つところにありますが、それはある勇気が要るでしょう。しかし多くの親が子どもの側に立って離脱しはじめたら、それは巨大な転換を生み出すで しょう。それは競争の煽動よりも、協同の学びのほうがむしろ子どもの学力を伸ばすという実証をして示すことです。すでにデンマークは競争を否定した協同に よって学力世界1を実現していますが、そのようなモデルを日本自身につくりだすことが求められます。

 デンマーク・モデルは日本の競争モデルとの緊張と衝突を誘発し、垂直的な権力関係との対抗を生み、水平的な関係への転換をもたらすでしょう。基本的には このような水平的構造への転換にしか、イジメの消失はありません。昨夜は爆弾低気圧が東海から関東を経て東北へ向かい、嵐の夜でした。エルニーニョによる温度上昇が原因だそうですが、もはや市場競争原理による地球環境の破壊は限界に接近しようとしています。一夜明けた朝はまぶしいほどの陽光がそそぎ、もは や冬の気配はありません。地球気候の変動が日常に顕現されています。子どもたちを救うのも、地球を救うのもじつは同じ方法による抵抗の法則を多数派のもの にしなければならないことを告げているのではないでしょうか。

 しかし、イジメに関する私を含めた垂直的権力関係による抑圧の移譲モデルはじつは少数意見なのです。主流は、日本的集団主義における協調性欠如モデルなのです。

・日本人のDNAにしみ込んでいるみんな一緒主義からはみ出したものが厳しく指弾されるので、排除された本人も協調性幻想が強くもう生きていけないと
思いこむのだという(中島義道氏など)。

・或いは他者から否定的な評価を受けることを極度に恐れ、対立のない優しい関係を維持したい人は、いじめられっ子の
存在を完全に排除はせずに、半ば包摂して内部の対立関係を隠蔽するほうが効果的なのだという(土井隆義氏)。

・いじめられた子の自殺への誘因は、死への衝動
と言うよりも、自分の自殺を悲しむ周囲の人の姿や自分を苦しめた者への復讐などによって最後の自己承認をおこなうのだという(香山リカ氏)。

 こうした日本
文化論や集団心理学を駆使した分析は、部分的な効果しかもたらさないばかりか犯罪的ですらある。それは結局の所、イジメ現象が日本的現象となった原因である「過度に競争的な教育システム」(ユネスコの対日本政府勧告)という制度要因の解明と制度改革への追究を遮断し、真の加害者の責任を巧妙に免罪するもの でしかない。主観主義的な決意や決断によるガンバリズム、加害者への刑事的可罰主義に帰着させる、『こころのノート』に象徴される心がけ主義の裏返しでし かない。そういえば、『こころのノート』の教育現場への導入と意欲や態度の5段階評価の導入とパラレルにイジメが増大してきたのではないか。子どもの鋭い 感受性は大人たちの偽善をとっくに見抜いているが、子どもたちは同じ偽善の行為を仲間内で実践しはじめたのだ。

 最も愚劣な議論を展開しているのが川勝平太氏だ。イジメ自殺の背景には日本人の死生観の揺れがあり、日本社会が目標を失っていることの反映で、それは 1968年の東大全学ストに始まるという荒唐無稽な主張をくりかえす。江戸期の朱子学や明治期の洋学のような新たな実学として地域学を提案しているが、ここには文化人類学の多元性が特殊日本的なナショナリズムと醜悪な混血がみられる。



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というものである。賛否両論はあるだろうが、私は賛成である。一方、いじめは昔からあったのも事実、近年の情報化社会であら捜しが可能になった面も十分にある。これは、少年犯罪が近年増加しているというトリックにも使われている。マスメディアの言う少年犯罪の急増、凶悪化、質の変化などという現象は全く存在しません(詳細はコチラへ)。そもそも、ニュースとは「その社会におけるまれな出来事」、または「情報操作」の目的でなされる。例えば、アメリカで、ヒスパニックの女性が道端で流産し、母子共に死んでもニュースにはならない(もちろん州によって非常に異なるが)(ニュースの注意点)。産科たらい回しと避難轟々の日本では、ありえないことだろう。それくらいのものなのである。

どうように、イジメも社会構造の変化と情報手段の発達による一連の現象と考えている。


2007.11.6 記載