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*司法と医療

裁判の目的:処分制度であり、真実の追究ではない。ここに多くの社会の誤解がある。ことは裁判と法律:裁判は真理を明らかにする場所ではない!で述べた。

ここでは、司法と医療の法律と科学に対する考え方の違いを考察することで、両者の狭間を少しでも埋めようとするためのものである。
近年の医療にまつわるトンデモ裁判に関しては、以下の4つのタイプ(詳細はコチラ参照)に分けると考えやすい。

最高水準要求型」「説明義務過剰型」「因果関係こじつけ型」「医学的根拠希薄型

これらをみても、現在の社会構造と風潮がよく分かる。教育の場でも同じだ。

  
 今の日本社会は大きな欠陥を持っている。何か不都合が生じたとき、「悪い奴を探し出して罰しろ」と主張する「被害者感情」が、制御なしに独り歩きをしている

司法、政治、メディアは物事がうまくいかないとき、規範や制裁を振りかざして、相手を変えようとする。これに対し、医療、工学、航空運輸など専門家の世界では、うまくいかないことがあると、研究や試行錯誤を繰り返して、自らの知識・技術を進歩させようとする。あるいは、規範そのものを変更しようとする。

そのような、現状で司法は「医師は悪いやつだから、取り締まってやろう」という立場で裁き続けている。  
その裏には、昔の医師会の「金崇拝主義」のような概念から、未だに抜けきっていないこと、そして、経済発展のために医療費費を削減しようととんでもないことを遂行中の政治家らが、医療費を減らすために医者を減らす手段をとっていること、さらに、マスコミー政治家の既得利益保持のための槍玉として医者を叩くという手段があると考えている。

このことを科学と司法の差異として、演繹と帰納という観点からも理解できる。と議論をした。
また、小松秀樹氏も日経メディカルhttp://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/series/kikou/200710/504479.htmlで述べていた。

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*法律家は規範を絶対視し、規範から演繹的に物事を判断することを当然とする
*科学者は、仮説を証明するために、一定条件の対象を適切な方法で検討し、帰納的に仮説が真かどうかを検証する。

科学的真理とは、対象と方法に依存した仮説的真理である。真理の表現方法、精度、限界は方法に依存している。司法は、この仮説的真理という醒めた見方を共有できないため、白か黒かを無理やり決めようとする性癖がある。さらに規範が適切かどうかを、現実からの帰納で検証する方法と習慣を持たない。このため規範が落ち着いたものにならない。

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医療いや、すべての物事は一見デジタルに見えてもデジタルではない。アナログであることは、他のところでも散々述べた。要するに、ここでも同じなのだろう。法律家は医療が不確実であることを理解していない。ようするにデジタル思考なのだ。結論ありきの論しかない。そもそもそれこそが、裁判であり真理の追求ではいない性格を十分に説明している。


また、この裁判形態は日本が本来はアメリカのような判例主義の司法でなく、明治維新以来の制定法(ヨーロッパの大陸法をもとに憲法はドイツ、民法はフランスを参考)であるため、判例の蓄積で判決をするような国ではなかった。しかし、近年のグローバリゼーションならぬアメリカナイゼーションにより、制定法なのにもかかわらず判例主義で判決がされていることが多いのは要注意である。司法大学院:ロースクールも出来、日本の法律がこのまま判例主義法になり、三権分立の構造バランスも司法が圧倒的ね権力を持つアメリカのようになり、司法至上主義になればもはやよきころの日本(医療だけでなく、教育も町並み、近所付き合い)は思い出だけの空想になってしまうだろう。
(詳細は法律と文化と歴史を参照)



 2007.11.6 記載