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HPにお越しいただきありがとうございます。〜
peer reviewとの大切さに気がつきました。
医療を中心に 私の今感じていること。そして思いを公開していきます。
*Introduction(まとめ)

医療とは「人と人が助け合い、互いの心身の悩みや苦しみを取り去る行為」であり、医師−患者関係である前に人と人との関係であり、そこには上下関係も一方的な奉仕の関係でもない。まさに医療は地場産業である。そして、その原点は地域医療にある。また医療は、国民の共有財産であり、医療従事者・行政の改革だけでなく住民全体で考える命題である。そのためには国民の意識改革も重要である。

そして地域医療や病院でのhospitalist/coordinatorとしての総合医の社会的役割、医療従事者や国民の教育、理念を定めて落しどころを探る行政、理念に基づく社会厚生のための資源配分を目指す経済学、地域医療と地域医療学の大勢・普及の重要性を感じる。また、教育のツールとしての総合診療・EBMにも非常に興味がある。医者とは、『だれもが抱えている「健康に対する不安」に気付き、対応するプロである。その目的は、患者の人生、さらにその家族、地域の活力を高めることである。医療(西洋医学、東洋医学、中華医学、医療・保険制度、行政、政治、保険、介護etc)はツールであって目的ではない』と考え、教育・EBM・地域医療・行政・経済に強く興味を持ち、「地域(歴史と地理の経緯を踏まえた)、まずは日本(=共同体)の安定化、できれば活性化」という目的のために、学生の立場でできることを実践中の今日この頃・・・

つまり・・・「医療というツール(手段)」を使った共同体の活性化<安定化.


年次改革要望書の継続(「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)」の心境です。)
ゼロリスク思考(BSE問題にしかり)と死が見えない社会での医療訴訟の増加、

*医者の過労死 とその認定問題など、「医者は『清く、正しく、貧しく、救世主願望で!』」といった認識は、医療従事者側も住民側も行政側も改め、医療への理念は古今東西変化なくとも、少なくとも「労働者としての『医者』」という認識 を持ってほしい。


医学の進歩がなかった昔の方が、みんな満足して死ぬことができたのではないか?医学も反証可能なサイエンスより反証不可能な宗教への道を辿った方が?と疑問を抱いたことがあるのは私だけだろうか?サイエンスは客観的と聞くが、そもそもその客観性は主観から生じたものであって、主観の枠を出ることは決してない。サイエンスはコンピュータのような1と0の2進法の世界=デジタルではなく、白黒ハッキリつけられないアナログ の世界 なのである。現実もまた然り。

私が小学生の頃、祖母が死に私は始めて「死と骨」に出会った。そのときの感動とショックは忘れられない。周囲から親しまれていた祖母であった(と私は思っていた)死体を、人目がつかないように、人前から遠ざけるように扱い、綺麗だった祖母の「骨」を箸で「あたかも触っていけない、忌むもの」の如く扱い、終いには塩を撒いて「お清め」をする。そんなに汚いものなのか?なぜ?とショックだった。「ばあちゃんの骨でしょ!?」。その後、この社会は「死を隠蔽している」と実感した。死はその人が所属していた「世間、社会」からの抹殺、「村八分!?」もその意味では同じかもしれない。「死」は世間の定義で決められるのだろう。「死」はアナログである。「客観的なもの(西洋医学の死の3兆?脳死?)」で、デジタルで処理しようとするから問題がでる。「死」を客観付けようとしても、「誰も経験したことがないのだから分からない」のであり、客観の枠に当てはめようがない(と私は思う)。

語弊されるのを覚悟で言うと、私の本当の目標は「私が満足して死にたい」である。そして、その延長として「みんなに満足して死んでいってもらいたい」と祈る。だから医療をツールに選んだ。私の最大の苦しみであり、かつ楽しみなのは「死」である。カリエスでのた打ち回った与謝野晶子の言葉ではないが「悟りとは平気で死ぬことではない。平気で生きることだ。」と。カントの死に際の言葉「これで、よし!」と。継続していく中で得られる知恵・面白みがある。だから人生も医者も続けていけると思う。この現代社会で「医者をやめたい、医者になりたくない」と思ってしまうことはむしろ自然なことと感じる。『清く、正しく、貧しく、救世主願望で!』では自分が破滅する世の中なのだから。でも、医者をやめるという選択肢をもって(実際医者をやめても生きることを続けたほうが面白いと思うが)医者をやってみるのもよいかもしれない。背水の陣では苦しいが、逃げ道があれば案外やれるものである。優等生だった人の陥りやすい罠の一つに「私がやらないと組織が回らない」思考がある(詳細はリーダー論)。一方、「誰かが一歩を踏み出さないと先に進まない。では私が!(救世主願望)」思考もある。これらは共存する。しかし、優先順位はあくまで自分>家族>仲間内>世間なので、自分のことさえ何とかならないうちは世間への救世主願望などないだろう。一生でないかも(笑)

私にとって医者として働くということは・・・
『「仕事」/物事に取り組む姿勢』を参照


*日本の社会に必要と思うことの「ひとつ」

「他の世界像を持つ共同体の承認と異なる世界像を持つ人間・社会同士の承認詳細は「変化」の項へ



*医療従事者、特に医者は 

1.自分の身は自分で守れる程度の「社会の常識(
法律):労働基本法。タイムカードを自分でつける」また、医者の労働組合設立。または個人加入性の訴訟・労働の対応機関(選任の社会保険労士、弁護士)。
2.医療改変の波を掻い潜るための「
経営感覚」・「医療経済学の知識(eg:医療費高沸の50〜75%を占める原因は『医学の進歩』であり、世間で言われているほとんどのものは小物であるという世界の常識etc)」
3.アメリカ≠世界(global standard の名の下の American standardの押付け)。米の年次改革要望書による内政干渉システムと日本陥落。


今の医療界の目標は2つある。

・1つ目:国際規模。市場原理にむやみに任せない。年次改革要望書を筆頭に、外国の「企業」と自国の特権階級だけが儲ける・得をし、自国の衰退が進むことへの危惧と認知。分かって動かしている政治家・一部の特権階級たちが多数。

・2つ目:国内規模。訴訟、過労死、制度。そして、他業種と同じように『coordinatorが機能すること』だと思う。そのためのSTEPとして、

  1、住民・専門医・(マスコミ)への総合科の認知・普及専門医との対立ではなく相補的な関係として
        ⇒general doctorというより「main doctor」 (医療費削減、診療報酬削減の理念の元での導入は反対だが・・・)
     経営面へのfeedback。理念だけでなく実際の診療を共にする。⇒現在はこの段階(2007.8)?
  2.coordinator(総合診療、経営etc)が働ける器作り
  3.coordinatorの機能・育成のシステム作り

そして、現在の医療で必要なものは2つに集約と思う。

 1.周囲(住民、医療従事者、国) への啓発
 2.
総合医/main docter(総合医「制度」ではないの育成(専門医と相補的な関係として)

 ⇒両方とも、health literacyを高めるということに集約される。
  2は、診療に限定せず、地域住民のhealth literacy教育者という役割も果たす。実際の教育は腕利きの保健師や住民にやってもらうことになるだろうが。

世間の動きで「総合診療医」を育てよう!という雰囲気はある。しかし、それは行政発信のそれより重要なことがある。『既存の専門医への「総合医のノウハウ」の伝達と認知』だ。いいかえれば、

『すべての医師に対して、地域医療のエッセンスを伝えること』

「地域医療は昔から崩壊していた。別に新しい問題でもなんでもない」のである。今の問題は地域医療の崩壊でなく、それを支える医療全体の崩壊である。田舎で起こっていたことが都会でも起きている。都会の地域医療こそ崩壊している。へき地で地域医療が崩壊しても、それはたいしたことにはならない。へき地とは、医療に限らず基本的にそういうところである。生物心理社会モデルなんてのが提唱されて30年以上がたつが、問題は何も解決していない。今こそ地域医療の現場から学んだ、新しい医療のモデルを示すべきときだろう。(詳細は「
地域医療の先進性」の項へ)

そして、医療に対する問題を、国に丸投げ(御国へのパーターナリズム化)するのではなく「自分たちの問題なのだ」という意識を住民に伝えること。国は勝手にやって、勝手に成功されることを嫌がる。

心をくすぐること。どんなに良い制度があっても、この部分を疎かにしたままでは、なにも変わりはしないと思う。だからこそ私は「医学教育」もさることながら、「医療教育」に大きな関心を持っている。(詳細は「
教育」項へ)


”合言葉”を4つ。

 *(地域)医療はみんなの医療、”私たちの”医療。
 *総合医はcoordinater。仕事は「なにもしないこと」。そして何でも相談できる医者。
 *自分たちの身は自分たちで守る(リスクマネジメント)。でもプロ意識は忘れない
 *情報の共有と啓発