亜熱帯独特の薫りが立ちこめる竹富島。石垣島から船で10分、港からミニバスに揺られ集落へと向かう。色濃い緑の中に、赤レンガ屋根の家々が軒を連ねている。


 集落内の竹富診療所。医介輔の親盛長明先生はこの診療所で、300人たらずの島民の健康を引き受けている。


 簡単な造りの受付、机とベッド、棚が並ぶ診療室。84歳になる親盛先生は、今でも診療、往診を続けていらっしゃる。先生から診療所についての説明を受けていると、島の"おばあ"が入れ替わりやって来た。血圧を測ってもらいに、また薬をもらうためであった。「先生は何でも分かるよ。安心だねえ。」というおばあの言葉に、先生に対する厚い信頼感が伝わってきた。


 終戦直後、「戦争マラリア」が流行した。身を守るため多くの人が疎開した場が不幸にも、マラリアを媒介する蚊の生息地だったのである。マラリアで村そのものが消えてしまうこともあったという。集落と集落をつなぐ道もなく、川を渡る橋もない中、親盛先生を始め現地の医療者は徒歩で、馬で、診療を続けた。


 1957年、琉球列島米国民政府によりマラリア撲滅運動、"Wheeler Plan"が始められた。マラリアの専門家、Weeler博士の指導のもと、住民全員を巻き込んだ運動である。親盛先生も住民の中に入り、指導、検査、治療を続けた。精力的な活動の結果、明治時代の文献にも登場する「八重山熱」として恐れられてきたマラリアは、1961年、わずか3年で撲滅したのである。またほとんどの住民が感染していた寄生虫の駆除にも成功した。成功の原因の1つに、これ以上悲惨な状況を続けたくないという住民の切実な思いが全住民の運動参加につながった、と八重山保健所所長はこう口にされた。


 医介輔の許可証。1951年126人が登録され、へき地、離島へ積極的に配置された彼らはそこで医療を続けた。


 沖縄の本土復帰後、医介輔制度は存続できるのか。無医村を多く抱える沖縄で、介輔制度を廃止することはできなかった。


 西表島の西部、港から30分もバスで揺られるだろうか、祖納という小さな集落に山城ヒロ子さんはいらっしゃった。「ヤマネコ保健婦」として有名な方である。公衆衛生看護婦、後の保健婦である。

 山城さんがとして働いていた頃、らい病患者は小島に、結核、精神病患者は裏座敷畑の掘立て小屋に隔離されるという時代であった。公看はこのような患者を繰り返し訪問しては、療養を辛抱強く行う。患者の知らせを聞けば、サバニ(小舟)で、自転車で、徒歩で、山また山の獣道を、川を、縦断して患者の元へ急いだ山城さん。西部から東部へ、密林の中徒歩で10時間歩いたこともあったそうだ。

 現在山城さんは民宿をしていらっしゃる。民宿の裏に小さな海岸と、幾つかの島があった。陽が傾くとカニが砂上をさわさわ動き出す静かな海岸である。


 衛生環境研究所で飼われていたハブ。85%の県土にハブが生息しているといわれ、畑での農作業中や 屋敷内でハブに咬まれた咬症患者が、毎年150人前後発生している。研究所では抗毒素を始め、ハプ対策の研究を続けている。



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