| ■第二次世界大戦中〜戦後直後の罹患率(人口1000人当り) | |
| 1922〜43 | 19.0〜67.7
致命率は最高3.13%であり、マラリアは風土病として常在していたが異常な大流行や死亡率、致命率の著しい変化はなかった。 |
| 1945 | 538.2
(患者数16884、人口の53.3% 致命率21.78%) |
| 1946 | 255.9
八重山民政府によってマラリア患者に対する治療が始まる |
| 1947 | 170.9
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| 1948年 | 19.0
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| 1949年 | 0.4
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戦時中、連合軍の石垣島上陸に備える国防上を理由に、日本軍による住民の強制避難が行われた。石垣島、波照間島、黒島、新城島、鳩間島から、西表島や石垣島における山麓地帯のマラリア有病地へ避難が行われたため、異常な罹患率を呈した。 沖縄本島では、米軍が上陸したと同時に米軍飛行機によるDDT散布、屋内残留散布が行われマラリアによる死亡者は860人(0.54%)にとどまった。これは三日熱マラリアが優性種であったことにもよる。1952年には米軍により重要視された感染症対策でほとんど撲滅された。 山岳地帯が多い沖縄本島北部ではDDT散布の効果は少なく、168000の患者を出すことになった。これは、北部に多く生息するシナハマダラカは、屋内では休息しないという習性のため屋内残留噴霧は効果なかったという状況に加え、米軍進撃により、蚊の通常の吸血源である家畜がいなくなり(食料源として利用、あるいは飼育できなくなった),やむなく人を吸血するようになったためである。 八重山民政府によるマラリア対策により罹患率0.4まで低下したが、1953年には戦前の罹患率水準に後退。これは朝鮮戦争の勃発、米軍基地建設のための土地接収、それに伴う住民立ち退き命令、ベビーブームによる人口増加等を社会背景に、かつてのマラリア有病地域に沖縄群島、及び宮古郡島から開拓を目的に、多数の住民が自由意志あるいは群島政府の移住計画により入植したことが再流行の引き金になった。
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| 1957年 | 琉球列島米国民政府によるWheeler Plan の実施
米軍総合医学研究所の昆虫学者 Charles M.Wheeler 博士を招き、1955年WHOによる地球的な規模でのマラリア撲滅計画を取り入れ、3年でマラリアを撲滅する計画を作成した。 1.血原虫調査、脾臓調査 2.DDT屋内残留散布 3.蚊成虫の調査 4.原虫保有者に対する治療薬投与 5.環境整備 6.健康教育 |
| 1961 | 西表島で5名の最後のマラリア患者
十分な証拠がそろっていないという理由でWHOによるマラリア終息宣言は得られなかったものの、八重山におけるマラリアは終息をみた。1963年にUSCARのマラリア対策費は打ち切られ、その後八重山保健所による検血調査による追跡調査が行われた。 |
| 1989 | 八重山における1945年のマラリア流行は、マラリア有病地への日本軍による強制的な避難命令に起因する特異的な原因があったとして、遺族達は政府に対して補償を要求する住民運動を起こす。未だに援護法による個人補償の要求は認められていないが、平成8年度予算では遺族に対する慰藉事業を実施するという形で3億円が認められた。この事業により、記念碑と資料館(八重山平和記念館)が建てられた。
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