医介輔とは

 1945年、第二次世界大戦の最終決戦の地として選ばれた沖縄。峻烈を極め「鉄の暴風」と形容された沖縄戦。1951年の講和条約締結後、日本が独立国家として再出発したのに対して、沖縄は依然として米国の統治下に置かれたままだったことはご存じの通りだと思います。このような歴史的事情、そして風土事情によって生まれたのが「医介輔」という資格を持った人々です。法的には「介輔」が正式名称でありますが医介輔の名が通っていますので、こちらで説明させていただきます。また、「歯科介輔」も同様に存在し医介輔とほぼ同様の運命をたどっておりますが、今回は割愛させていただきます。

 「医師でなければ医業をなしてはならない。」これは日本国が定めた医師法第17条です。いわゆる医師の「業務独占」と呼ばれる規定です。しかし戦後沖縄では壊滅状態に陥った医療体制を建て直すために、「医介輔」制度が創設されました。つまり,戦時中の衛生兵,医師の手伝いをしていた者,医学校中退者など医療の経験を有する者に、1945年「医師助手」という資格を与え,医療に従事させたのです。この「医師助手(Assistant Doctor)が後の医介輔の前身となります。1951年、資格試験により奄美を含め126人が「医介輔」として登録され、彼らはマンパワーとして地域第一線(特に離島、僻地)で医療機関の要として活動しました。戦後沖縄の医師はったの64人であった、この戦後直後の状況の中、医療者を求める声がどれほど大きかったか、私はただ感じとる努力をするのみです。

 その介輔制度も、本土復帰を目の前にしてにわかに存続が危ぶまれてきました。ネックは日本国医師法第17条です。1969年、「医師助手廃止」の廃止の法令が出され、介輔制度は法的根拠を失うことになります。しかし慢性的な医者不足はこの頃になってもなかなか解消されておらず、介輔が抜けてしまった後、その地区が無医村になってしまうことは明白でした。そして何よりも地元住民から厚い信頼を受け地域医療の要となっていた介輔を廃止してしまうことはできなかったため、沖縄医介輔会等の働きにより琉球政府は‘限定した地域における一代限りの診療’を条件に介輔の存在を認めたのでした。1971年、日本国での介輔の医療業務が認められてからも、医介輔の数は年を追うごとに減り続け、H8の資料では沖縄本島に8人、久米島、竹富島、黒島に各1人になっており、その平均年齢も80を超えています。

 話を国際保健に転じると,医介輔制度は,現在全世界で推進されている「プライマリヘルスケア(PHC)」や「コミュニティヘルスワーカー(CHW)の配置」と驚くほど似通っていることに気付きます。過去の歴史を洗い直すことによって,現在の国際保健に関する重要な知見を提供し得るのではないかと考えております。

 興味のある方は少ないながら資料を整理しましたのでご覧下さい。

 

沖縄を訪れて(感想)

沖縄戦、そして

医介輔の過去と現在
夏の研修

2000年8月医介輔を訪ねました。
夏の記録

写真と一緒にまとめました。
資料1

戦後沖縄の医療史
資料2

関連法律
参考文献


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