沖縄の医介輔


▼「鉄の暴風」沖縄戦

 1945年4月1日、米国太平洋艦隊沖縄本島上陸。第二次世界大戦の終盤戦と位置づけられた沖縄戦は、米軍を主とする連合軍挙げての陸海空の戦力が投入され、戦闘は峻烈を極め「鉄の暴風」と形容された。沖縄戦による犠牲者は20万人と報告されている。連合軍は上陸後の5日目にニミッツ布告を宣言、奄美以南をアメリカ合衆国の軍政下に置いた。その日から祖国復帰を遂げる1972年5月15日までの27年間、沖縄は日本と異にする歴史を刻み始めるのである。

 当時の課題は食糧危機、そして医療、特に急性伝染病の慢性防止(特にマラリア、性病、結核)であった。戦時中沖縄の医師はほとんど召集させられ、終戦直後医師はわずか戦前の3/1、64名でにまで激減していたのである。医療器具や薬品は米軍から無料配給され、診察、診療は無料で行われた。また医療者は全て公務員として、全島的に統一配置された総合病院、地区病院、診療所や保健所に配置され、皆無償で働いたのであった。医薬品の不足、施設の不整備、そして何よりも慢性的な人不足。あまりの激務に医師も倒れていく。

 その中に照屋 寛善医師はいた。この状況を嘆いた照屋医師は、米軍政府や各関係者にかけあい、時に新聞に投稿することで、現状を知らしめ改善しようと奔走した。米軍政府の下、病院、研究所の整備、公衆衛生看護婦の養成、沖縄への本土医師の派遣、契約留学制度による新たな医療者の養成などが次々と始められた。この契約留学制度とは、米軍政府との契約の基づいて本土の大学に入学し、卒業後の帰郷を義務づけるものである。米政府によるGARIOA資金(占領地域救済政府基金)により進められ、後に日本政府が援助する「国費留学制度」に改められて継続された。琉球大学医学部の設置は1981年、それまで沖縄には医師の養成学校がなかったのである。長い時間のかかる教育の場が全くゼロであったことは、沖縄の慢性的な医師不足とは無関係ではないだろう。それでも、本土で学び沖縄へ帰ってくる学生達は、その後の沖縄を支える土台、そして指導者となったはずである。

 多くのものが破壊され、権力、駆け引き、混乱が渦巻く極限状態で、社会はどのようにして弾力的に変わっていったのか。多くの人がこの閉塞的状況に声を挙げ、各々の立場で最善を尽くしていた。時代はいつも人が同時進行で動かすものであるが、この時代も同様、多くの人の姿が幾重にも重なって浮かび上がってくる。

▼沖縄の医介輔

 「医介輔」の歴史もこのうねりの中で始まった。戦時中、両国の軍が集結した南部は激戦地となり、ほとんどの医師が召集させられた。一方、北部へ避難した多くの住民は山奥へと退避を余儀なくされた。医師との連絡を絶たれ、砲火が飛び交う中、住民への医療というものがあるとすれば、誰が行っていたのだろうか。実質上崩壊した医療は、代診や薬局生(医師の診療の助手、見習い)、看護関係者によってかろうじて行われていた。この事が後の医介輔制度の素地をなしたのである。

 続々と投降する住民は集められた。そこで米軍情報部は1人1人捕虜を調査し、戦前医療経験のあるものをピックアップしていく。こうして1945年、米国海軍軍政府布告第9号「公衆健康及び衛生」を発令、男は医師の助手、女は看護婦として勤務させたのである。助手には旧日本軍衛生兵も加わり、これが医介輔の直接の前身となった。当時診療所の半分が医師助手によって機能していた。このことから、Man Powerとしていかに医師助手の存在が大きかったかが想像される。1946年に発足した沖縄民政府の訓令には、「医官輔」と改称されている。医師の自由開業が始まる中、医師助手を法制化して存続させる動きがあり、1951年、琉球列島米国民政布令43号「医師助手廃止」により、「介輔(Medical service man)」が明文化され、初の法的な身分法が得られた。同年の3回の試験により126人が介輔として登録されている。

  介輔は単独で開業、勤務する事が認められるようになった。ただし、辺地や離島での医療に従事する「限地開業」が適用されてのことである。また「医療行為の範囲の制限」を始め、「保健所長の指揮監督下で」という条件が付けられた。これらの制限の中には「医師の指示によらなければ抗生物質を使用してはならない」、「麻薬及び特定薬品を介輔が使用することを禁止」といったものがあり、多くの医介輔達は当然診療業務に支障をきたす。そこで、当時医介輔で構成される沖縄医介輔会は琉球政府に請願を行い、一部改正されることとなった。この様に制限付き医療ではあったが、交通機関の整備も十分にされていない僻地、離島に多くが勤務した医介輔達は、地域医療の第一線で日夜奮闘してこられた。野戦病院のように毎日数十人、時に100人を超え深夜まで患者が押しかけてくる現実を目の前にして、医介輔との役割は医師と変わらない。

▼1972年 沖縄本土復帰

 1965年、佐藤首相が来沖したのを機に、沖縄の日本復帰への足音は急速に高まった。日本政府の技術援助による「沖縄無医地区診察団」や諸分野にわたる医療調査団の来島が相次ぎ、医療行政を巡る社会環境も本土との一体感を深めていくようになる。この流れの中で、当然ながら介輔の身分保障問題がクローズアップされてきた。日本には医師法第17条が存在する。「医師でなければ、医業をなしてはならない。」このまま本土復帰となれば、医介輔の存在そのものが違法となってしまう。介輔制度を廃止するか、このまま存続させるか。 この条文を前に、介輔制度の存続に対する論議が巻き起こった。1967年、佐藤・ニクソン会談による"沖縄の返還"の共同声明が出され、急速に時代は転回していく。1969年、琉球列島米国民政府布令第42号「『医師助手廃止』の廃止」が突然発令される。介輔の身分は通告もなく法的根拠を失ったのである。困惑した琉球政府は「廃止後も従前の例による」として業務を続けさせたが、介輔制度はこれで一代限りのものとなり、自然消滅の運命が決定づけられたのであった。

 当時、国や県の積極的な政策による医療事情の改善にも関わらず無医地区は40にも上った。そして離島、僻地の多くの医療は依然として医介輔に、更には外国医師(韓国、台湾)、本土からの派遣医師に委ねられている。こうした実状を踏まえ、沖縄医介輔会は厚生省や日本政府の関係省庁に陳情、請願を繰り返した。また一般の世論の、医介輔のこれまでの功績に酬いるには介輔制度を存続すべきだ、という意見が圧倒的でもあった。1971年「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第100条により、医介輔の身分は復帰後も保障が決定されたのである。そして1972年5月15日、沖縄は本土復帰を迎えた。

 終戦とともに米国の直接支配下に置かれた地域は沖縄だけではない。短い間ではあったが奄美諸島も国土から切り離され、沖縄と同じく医介輔30人、歯科介輔2人が存在していた。しかし、1953年12月15日の奄美群島の本土復帰に伴い、彼らを支える法は2年の介輔業務への従事を許すのみであった。その後彼らの多くは他の職業に転職をし、新たな人生を送っている。

▼地域医療を支えて

 日本復帰時点で介輔は49名にまで減少していた。資料によると、1979年国民健康保険加入者の介輔利用率は、沖縄県全体で4.7%となっている。しかし村によっては北部39%、中部37%、南部59%、八重山32%に上る所もあり、医介輔が一次医療をどれ程担っていたかがうかがえる。また、半数が校医を兼ね、学校保健においても一定の役割を果たしていたようだ。

 生活保護受給者が激増し、公共の整備は遅れ、本来経済的に割に合わない僻地の医療、保健を支えてきた医介輔。沖縄医介輔会を組織し、講習会で互いに医学を学ぶ機会はあっても、診療所に帰れば頼るものは自分一人であった。「医介輔」という名称の下医療に専念されてきた方々を支えてきたものは、やはり目の前の現実に対する使命感であったのだろうか。

 現在現役で診療をなさっている医介輔は10人に満たず、平均年齢は80歳を超えている。戦後の沖縄と共に歩んできた介輔制度。その役割を近々全うしようとしている。

▼世界のAssistant Doctor

 国外に目を転じると、幾つかの国で介輔の名に類似した職が存在する。1972年WHO の月刊誌によると、世界に少なくとも10のフランス語の名称、9つの英語の名称があると述べている。主に医師の少ない発展途上国で見られるが、旧ソ連におけるフェルシャー(Feldsher、副医師)、アメリカにおけるPhysician assistant, Assistant medical officer(医師助手) フランスにおけるMedex等、先進国と呼ばれる国で地域医療を支えるMan Powerとして存在していた。国により細かい定義、役割は違ってくるが、多くは僻地での一次医療、公衆衛生、母子保健、産業保健、臨床検査等、各分野で役割を担っていた。またアメリカ、旧ソ連、フランスでは大学での教育や開業医の下での訓練が法的に定められ、その養成に積極的であったことがうかがえる。

 1999年春、先輩方がネパールを訪れ興味深い報告をしておられた。当時の活動報告書を参考にさせてもらうと、医療供給の絶対的不足した状況を抱えるこの国では、地方に村単位でHealth Postと呼ばれる医療機関を置いている。そこには簡単なトレーニングを受けたHealth Assistantや補助的な医療スタッフが配置され、患者への問診、簡単な検査、投薬を行っているという。必要であれば病院に患者を送る措置をとるというパイプ役も担っている。また患者が初めに訪れるのは、多くが伝統的な呪術医(祈祷師)である。彼らのトレーニングも行われており、呪術医→Health Post→病院 といった流れが形作られている。このように、医療資源の不足した状況で既存の人やものが活きる例を世界各地で見ることができる。

 国際保健の分野では、PHC(Primary Health Care)やCHW(Community Health Worker)という言葉が存在する。1978年、プライマリーヘルスケアに関する国際会議がAlma-Ataで開かれた。全ての人が健康になるためには「適切な保健および社会政策の保証がなければ実現不能である」とし、その開発の一環としてPHCを掲げている。PHCの役割を担うのに、医介輔のような「準医師」の存在は大きい。現在の沖縄のように、正規の教育を受けた医師が医療圏を満たしていくのに越したことはない。しかしその余裕のない状況では、時間とお金のかかる教育を必要とした医師にこだわるのではなく、準医師にあたる方々に勇気をもって医療権(医療を行う権利、義務)を法的に認めることが、より柔軟な対応であるかと思う。住民と医療の距離が状況的に遠い場合、間にワンクッション置くことで、沖縄の医介輔に見られるように、橋渡し的存在以上になり得る可能性は大きいように感じられる。

▼医学生として

 研修を通して様々な人に「医介輔」の事を尋ねてみたが、周りの医介輔への印象、評価は必ずしも一定していなかった。戦後の状況下における医介輔の医療活動を高く評価する一方、医療者として技術的に劣ると首を傾げる人、医介輔という名を耳にした程度の方もいる。現在離島を多く抱える沖縄では、自治医大出身の医師、派遣医師の離島への配置、保健婦による一次医療供給体制の強化、FAX,コンピュータによる遠隔医療による質の向上、交通の整備による広域医療圏の充実がはかられようとしている。私たちは実際医介輔の方々に会い、時代、状況の違いはあるが、医師として自己研鑚していく心構えを教えていただいたように感じている。またそのような心と、制度・システムが相補的な関係を築くことの大切さを感じた。戦後沖縄の場合、ある程度の強制力を持って全体の医療状態、衛生状態の改善が試みられていったことが、成功の一因と思われた。だがこれからの時代、民主的手続きの中で事柄を決定していくことを考えなければならない。その地域、社会でどの様な人材が存在し、どの様に配置していくのか。また自分はその社会でどの様な位置にあるのか。まずこれらの視点から到達すべき全体像を描き、実際我が国で、もしくは他の国でどのように活かすことができるかという姿勢を大事にしていきたいと思う。

関連法

1945年 米国海軍軍政府布告第9号「公衆健康及び衛生」
 :医師助手制度創設

1951年 琉球列島米国民政府令第42号「医師助手廃止」
 :介輔制度創設

1969年 高等弁務官布令第56号:「医師助手廃止」の廃止

1971年 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律
 :日本復帰後の介輔制度の存続

日本国医師法第17条
 :医師の業務独占



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