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 分科会 > 8.先端医療(移植・遺伝子疾患・再生医療)
 
臓器移植・再生医療分野における現状と展望
杉谷  篤(国立病院機構米子医療センター外科)
T.臓器移植の歴史
臓器移植はドナーによって生体と死体,後者はさらに脳死体と心停止体にわけることができるが,その適応は移植臓器の種類によって異なる. 一般的に生体ドナーと脳死ドナーから可能な移植臓器は腎臓,肝臓,肺,膵臓,小腸で,心臓移植は脳死ドナーのみ,腎臓移植は心停止ドナーから も可能である.膵臓移植と膵島移植は心停止ドナーから施行された例が少数ある.1968 年の和田心臓移植によって,わが国の臓器移植は諸外国から大きく遅れることになり,大きな議論を経て 1997 年10 月16 日に臓器移植法が施行され,1999年2 月28 日に第1 例目の脳死ドナーからの多臓器提供があった.それ以前には「角膜及び腎臓の移植に関する法律」のもとで,心停止ドナーから の腎臓移植「献腎移植」がほそぼそと行われるにすぎず,臓器移植法施行後の脳死臓器提供も年間3例から最大13 例であった.2010 年7 月17 日に改正臓器移植法が施行されて脳死ドナーは増えた が,心停止ドナーの提供数は減少し,両者を合計した提供総数は年間110 例前後で増加していない.臓器移植という特殊な医療は,医学的問題のみならず,文化,宗教,死生観,倫理的な問題な どさまざまな要素から成り立っており,多面的な角度から検討することが必要であろう.
U.臓器移植の実数と問題点
わが国における臓器移植のなかで,歴史的に最も古くに開始され,待機患者数,移植実施例ともに多いのは腎移植である.図1 に2010 年末まで の症例数を示した.生体腎移植は健康な生体ドナーの2 腎のうちの1 腎を採取し1 人のレシピエントに移植する.脳死あるいは心停止からの献腎 移植は1 人のドナーから2 腎を摘出し,2 人のレシピエントに移植する方法であるが,欧米諸国に比較して圧倒的に生体移植にかたよっている.透析導入直前あるいは透析患者が適応となるが, 2011 年末でわが国の人工透析患者は30 万人を越え,ネットワークへの登録待機患者は12,000 人を超えている.腎移植についで待機患者,移植実施 例が多いのは肝移植である.図2 に生体肝移植と脳死肝移植の実数を示した.1990 年代に生体肝移植が増加し2005 年には566 例まで達したが,保険適応の改定によって激減し,以後は年間450 例前後で推移している.生体肝移植はドナーの肝臓の約半分を切除してレシピエントに移植し,脳死肝移植では1 人のドナーから1 人のレシピエント,あるいは2 つに分けて2 人のレシピエントに移植する場合がある.末期肝不全あるいは肝臓がんの人が適応となるが,腎移植における透析療法 のような代替療法がないため,肝移植までに余裕がない患者や移植肝の機能しない患者は死に直結することになる.生体肝移植は日本が最も多く,その技術や移植成績は世界をリードしている.肺 移植は2 人のドナーから肺の一部分を1 人のレシピエントに移植する生体肺移植と,脳死ドナーから片肺または両肺を移植する脳死肺移植があり,2010 年末までに生体肺移植は100 例,脳死肺移植は87 例実施されている.心臓移植は脳死ドナー からの提供でのみ行うことができないので,臓器移植法の成立と整備が不可欠な移植医療であった.2011 年末までに120 例の脳死心臓移植が実施され,海外と比較して良好な移植成績が報告され ているが,待機中の死亡が多い,小児例は少ない,海外渡航移植に依存するなど課題は多く残されている.膵臓移植は1 型糖尿病の患者を対象に行うが,膵単独移植よりも糖尿病性腎症から腎不全を併発して膵腎同時移植を受ける場合が多い.1 人の生体ドナーから1 腎と膵臓半分を移植する場合 と,1 人の脳死ドナーから膵臓と1 腎を移植する場合があって,現在は後者のほうが多い.ドナーの条件がよければ,心停止ドナーからの膵臓移植も可能で,2010 年末までに22 例の生体ドナー, 84 例の脳死ドナー,2 例の心停止ドナーからの膵臓移植が実施されている.小腸移植は,短腸症候 群によって経腸栄養でしか生命維持できない人が適応となるが,待機患者,実施数ともに臓器移植 のなかで最も少ない.脳死ドナーからは小腸全長を摘出しレシピエントに移植し,生体ドナーからは4〜5 m ある小腸の一部を移植するが,脳死ド ナーから12 例,生体ドナーから8 例実施されている.膵島移植は膵臓移植と同じく1 型糖尿病の患者を対象にするが,主に心停止ドナーから摘出 した膵臓を融解して膵島細胞を分離して行う細胞移植である.手技は簡便であるが,移植成績が劣るので現在は試験的医療として行われている段階 である.
V. 脳死ドナー,心停止ドナーの実数と問題点
図3 に2011 年12 月末日までの脳死ドナー,心停止ドナーからの臓器提供数を示した.脳死下提供は,臓器移植法改正前は最高で年間13 例であったが,改正後の2010 年,2011 年がそれぞれ32 例,44 例と増加した.しかし,心停止下提供が減少したために,提供総数はそれぞれ,113 例,
112 例と減少している.2011 年3 月に東日本大震災が起こり,6 月に臓器売買による負の報道があって提供数を減少させた可能性が指摘されているが,この傾向は2012 年も続き,脳死下提供45例,心停止下提供65 例,合計110 例と漸減して いる.もともと脳死下提供が可能な4 類型,5 類型という病院が,法改正前にはドナーカードの所持がなかったため脳死判定できなかった事例が,家族同意で脳死判定・提供可能になったために脳 死下提供に回ったのであって,新たな,あるいは継続的な心停止下提供の病院開発ができていないことを意味している.
しかし,レシピエントの観点からすると,心停止ドナーでは2 人の献腎移植しかできないが,脳死ドナーからは複数のレシピエントが移植を受けられるので恩恵は大きい.脳死ドナー1 人あたりの移植臓器数は5 臓器を超えており,平均3.05 臓器の欧米諸国よりも多くのレシピエントが移植を 受けている.
W.臓器移植をめぐる臨床倫理と問題点
移植医療はドナーがあって初めて成り立つ特殊な医療であるがために,生体ドナー,死体ドナーのいずれにも倫理的問題が大きく考慮されなけれ ばならない.生体ドナーにおける臓器提供について考えてみると,近い親族が,「健康であることを前提として,利益と不利益を納得したうえで,自分の自発的な意思によりレシピエントに体の一部 を提供する,金品の授受のない,人類愛に基づく崇高な行為」と解釈されている.したがって,(1)提供意思の自発性が担保されていること,(2)ドナー手術の安全性が確保されていること,(3)ドナーの 長期にわたる健康管理と保護に配慮されていること,(4)臓器提供に対する利益供与が排除されていること,(5)ドナーとレシピエントの関係範囲が規定されていることが求められている.
しかし,現実的にはさまざまな問題が起こっている.2006 年,宇和島徳洲会病院において臓器売買事件が発覚した.その調査の過程で執刀医が, 健康な腎臓ではなく,小径腎癌などで摘出した腎臓を,病変部分を切除した後にレシピエントに移植するという「病腎移植」がマスコミを通じて紹介 された.これについては,当初摘出の必要のなかった患者の腎臓を摘出した,執刀医が独断で実験的な医療を行い,患者を危険にさらしたなど強い批判が起きたが,一方で病腎移植が臓器不足の 現状を変える可能性をもつなどといった擁護論もあった.海外においても類似した移植が行われた報告もあるが,ドナー腎摘出とレシピエント移植手術は異なる医師が行っていた.また,日本では, 「臓器も命ある体の一部」という考えが根強く,生体ドナーから取り出された腎臓はレシピエントの体内に移植されるまでドナーのものである.したがって,ドナーは事前に摘出された腎臓がだれの 体内に移植されるかを同意したうえで移植が行われ,さらに経緯がカルテという公的文書に書面で残されていなければならなかった点は非倫理的であったと言わざるを得ない.
2011年6月,東京都内で腎臓売買事件が摘発された.レシピエントである都内の開業医が,暴力団関係者を通じて,若年者の腎臓を金で買い移植を受けたというものである.これは経済格差に基 づく「移植ツーリズム」が海外や近隣諸国の問題ではなく,国内でも起こりうることを示した事件であった.いうまでもなく,非倫理的で違法な行為である.若年者に失業者,生活困窮者が増えてい る現状では,このような経済格差を背景にした臓器売買を防止する必要がある.
末期臓器不全の患者が海外に出かけて臓器移植を受ける「海外渡航移植」は,日本のみならず欧米諸国でも問題となっていた.2008 年4 月,世界各 国の医学および科学団体,政府関係者,社会科学者,倫理学者など150 人以上の代表者がイスタンブールにおいて会議を開催し,臓器売買,ドナーの人身取引,移植ツーリズムなど緊急に解決すべき問題について検討した.採択された「イスタンブール宣言」は,臓器取引,移植商業主義,移植 ツーリズムを定義して禁止するとともに,臓器取引を伴わない「海外渡航移植」と「移植ツーリズム」を区別している.ドナーについては,各国が自給自足の体制を確立するように求められており,原則的に海外からの渡航移植希望は受け付けないことになった.日本でドナーが少ない心臓移植に関 しては,2009 年10 月の時点でヨーロッパ全土とオーストラリアは日本人の移植を引き受けないことを決めており,現在,日本人を受け入れてくれるのはアメリカとカナダだけである.移植施設ごとにその前年度に施行した心臓移植件数の5%だ けを他国の人に移植することを認めている.アメリカが他国からの心臓移植患者を受け入れるのは,アメリカ国籍をもたない人がアメリカで脳死 臓器提供を行う場合が全体の10〜15%を占めるという現実に対して,感謝して利益を還元しようとする考えで,日本のように医療レベルが高く,かつ裕福な国の患者を受け入れるためのものではない.
実は,逆の状況が生まれる可能性がある.日本政府は,経済活性化を目的に,「医療ツーリズム」 を国策として提唱し,アジアの富裕層を対象とした健診,治療などの医療と関連サービスを観光とも連携して促進していくことを決めた.これに付 随して,海外から日本に,生体移植目的での渡航を受け入れる事業が「医療ツーリズム」の枠内で行われようとしている.日本では生体移植に法規制がなく,腎臓移植の80%以上,肝臓移植の97% 以上を生体移植が占める,世界的にみて特異な状態にある.そこにさらに外国人富裕層が生体移植を受けに来るのを積極的に誘致するということになれば,日本は規制のゆるい「生体移植天国」だと国際社会のなかでみなされかねない.倫理的課題 は,自国の問題としてのみでなく,広く考える必要がある.
X.脳死論議と改正臓器移植法
現在の日本は主観的にいろいろな考えが容認されるとしても,客観的には民主主義国家であること,法治国家であること,資本主義社会であるこ と,戦後復興を遂げた先進国家であることに異論はないであろう.前述したように,日本の移植医療は,和田心臓移植がきっかけとなって,医療不信の最先鋒として倫理的,社会的な批判を受ける 対象となった.皮肉にも,最近の医療情勢,医療行政はアメリカのシステムを追随して変更,修正が加えられてきたので,医療過誤,医療不信が日常茶飯事のように報道され,医療訴訟の件数も急激に増加している.本来,医療というものは,こ の世に人として生まれたのだから,「生きていたい」,「病気を治したい」という患者の「情」と,「治してあげたい」「何か役に立ちたい」という医療従事者の「情」によって成り立つ行為である.生体移 植の場合はドナーの「情」が加わって自らの健康体に傷をつけることを受け入れ,医師は最善を尽くし,レシピエントは感謝の思いを一生,抱き続ける.死体移植の場合は「死んだ人」には「情」はなく,国家や社会が,その「情」をいかに推察して実 践するかが求められる.国家単位で歴史背景,文化・社会背景を民主的に議論し,法を定めて,支払い可能な医療費であるかを検討して人々と契約 をしなければならない.それがいまに生きる先進国家としての概念であろう.その前提に「人はいつ死ぬか」という現時点での結論と法制化がなければ,医師はメスを加えることはできない.医師 も患者も人間であるからこそ,悩んで当然である.移植でしか助からない人を前にして,移植そのものを全否定するという暴論には賛成できな い.自分や自分の子どもが移植でしか助からない状況になったとき,同じ理論で移植医療を否定する人が何人いるのであろうか.移植が必要な医療 行為であると理解して,いかに不正や不信を払拭するシステムを構築するかを議論することが重要なのである.
あえて明記しよう.死体移植は「死体」あるいは 「現状では蘇生不可能と判断される状態」になってから,臓器摘出・提供を行うのである.われわれ移植医は,「生きている人」あるいは「回復可能な 手段がある人」,さらには「家族が死を受容できておらず,臓器提供に反対している人」から臓器提 供を行うことはない.国益にかなう医療行為を行うために法制化は必要であった.1997 年10 月に 施行された臓器移植法は「臓器移植をする場合に限って脳死は人の死」,それ以外は「心停止を含めた三徴候死が人の死」という「死」の二重基準とい う矛盾を包含していた.2010 年7 月に施行された改正臓器移植法のポイントは,@臓器移植法のもとで脳死は人の死とする,A家族同意で脳死判定・臓器提供が可能,B親族優先提供が可能,C小児の脳死判定・提供も可能,の4 点であった. 改正@によって,一律に脳死を人の死と定めたものではないが,「脳死」とは「法的脳死判定」をされたもののみを指すこと,蘇生不能と考える状態を 「法的脳死判定をすれば,脳死と診断されうる状態」と定義したことに意義がある.現在の基準で脳死判定を行い「脳死」と判定されたものは,自分の家族も含めて蘇生しうることはないとあきらめ がつくほどの精度とシステムだと思っている.改正Aによって,現実的に脳死下提供は急増した. 改正BとCによって,実際に親族優先提供,小児ドナーの多臓器提供も行われた.しかし,その多くは5 類型病院からの提供であったため,心停止下献腎提供は減少し提供総数も減少した.アンケートをとると,「脳死移植に賛成,すすめるべき だ」という意見が多くでても,それほど脳死を人の死と抵抗なく納得できる日本人は医療関係者も含めて少ない.医学部,若手医師,看護師の教育のなかでも,われわれは「死の教育」をしてこなかった.一般の人が脳死を受け入れることに抵抗 があるのも当然で,改正臓器移植法のもとで少しずつ数が増える移植医療が,やがて終末期医療や尊厳死を直視し,議論するきっかけになればよいと思う.
Y.iPS 細胞と再生医療の現状と倫理的問題
さまざまな種類の細胞に分化しうる人工多能性 幹細胞(iPS 細胞)の創生によって,山中伸弥教授がノーベル賞を受賞したことに日本中が沸いている.iPS 細胞とは,末梢血中に存在する幹細胞の 核を体細胞の核と入れ替え,山中4 因子と呼ばれる遺伝子を導入することによって,受精卵や胚の ように,複雑で機能をもった細胞,組織,臓器,体へと分化・発育しうる細胞である.類似した細 胞に胎生胚細胞(ES 細胞)があるが,これは卵細胞を用いるという点で倫理的問題が大きいといわれていた.心筋細胞,神経細胞の再生医療や新薬の創生に実用化が試みられており,先日もiPS 細 胞から腎臓の一部である尿細管構造まで分化させることができたという報道があった.やがて,臓器を再生することができるようになり,移植医療 は不要となり,現在議論となっているような脳死問題,倫理的問題は過去の遺物となりうるような 考えがある.
ところが,臓器移植の分野における倫理的問題 はすでに再生医療の分野でも起きている.まだ,実験段階のiPS 細胞の臨床応用を行ったという虚偽の発表をする人物が現れた.また,韓国のバイオ企業が患者の脂肪や骨髄からとりだした幹細胞 を,日本の医療機関が本人に投与した問題である.日本では,自由診療として実施可能であるが,韓国やアメリカでは規制が厳しい.日本では再生 医療に対する倫理規定,法整備がなされていないこと,規制のゆるい国だとみなされて外国人の医 療ツーリズムの対象になるなど,現在,臓器移植の分野で問題となっていることが,そのままあて はまる.脳死問題に蓋をすれば,それで移植の倫理問題や社会不備が解決されるわけではないので ある.倫理的観点からすれば,再生医療の分野にも移植医療と同様な配慮が必要であろう.
 
遺伝子医療分野における現状と将来展望
福嶋 義光(信州大学医学部遺伝医学・予防医学講座)
T.はじめに
従来,遺伝学的知識が医療の場で利用されるのは,染色体異常症や先天代謝異常などの小児科領域,あるいは極めてまれで重篤な遺伝疾患に限られる傾向があった.しかし,ヒトゲノム解析研究 の爆発的進展により,数多くの疾患の発症に関連する遺伝子が単離され,種々の遺伝学的検査が可能になってきたことから,遺伝医学はすべての医 学・医療領域の「共通言語」として理解しておく必要が生じている.
遺伝学的検査により明らかにされる遺伝情報(genetic data)は,@生涯変化しない情報(不変性),A将来を予測し得る情報(予測性),B血縁者も関与し得る情報(共有性),であるため,その扱い方は通常の臨床情報とは異なり,特別な配慮が求められる.本稿では,1.出生前診断,2.発症前診断,3.易罹患性検査,における臨床倫理について述べてみたい.
U.出生前診断
出生前診断は「胎児の健康状態の診断」であるとも考えられるが,通常は「胎児の先天異常の有無 の診断」を意味する.その主な目的は,a.胎児期からの治療,b.分娩方法の決定や出生に向けての準 備,.妊娠継続をするかどうかの選択のための情 報提供,である.a.およびb.を目的とする場合は, 適切な治療を行うための「診断」であり,特に倫理 的問題は生じないが,c.の目的があるため,出生 前診断は深刻な倫理的問題を内包している.
出生前診断は一般集団を対象として,主に染色 体異常症を検出するためのスクリーニング検査として行われる場合とまれな遺伝性疾患のハイリスクカップルを対象として行われる場合とがある. 前者と後者とでは倫理的課題が異なる.後者の場合,生命維持が困難であったり,重度の知的障害があるなど,重篤な疾患の場合には,十分な遺伝 カウンセリングを行ったうえで,両親の希望があれば,出生前診断の要望に応じているのが現状である.
一方,2012 年8 月末に,「妊婦血液でダウン症診断,精度99%」という報道がなされ,社会的に大きな関心が寄せられている.従来の羊水検査や 絨毛検査と異なり,産科医の関与が必須ではなく侵襲性がないことから,スクリーニングとして安易に広まることが懸念されている.選択的中絶が 許容されるかどうかについては,「産むか産まないかは親の選択に任せる(自律的決定)」ことを基盤に,「どちらを選択しても親の不利益にならないように支援する」という国の保証(法的,育児支 援,福祉,ノーマライゼーション,その他)が必要である.また,現在,わが国においては,出生前 診断で胎児に重篤な異常があることがわかっても,人工妊娠中絶の要件に胎児条項がないことも極めて深刻な解決すべき課題である.
V.発症前診断
発症する前に将来の発症をほぼ確実に予測することを可能とする発症前診断が,家族性腫瘍や遺伝性神経変性疾患などにおいて,実施可能となっている.発症前診断においては,被検者は病気に 罹患しているわけではないので,検査実施前に被検者が疾患の予防法や発症後の治療法に関する情報を十分に理解したあとに実施する必要がある. 特に,遺伝性神経変性疾患など発症前の予防法 や発症後の治療法が確立されていない疾患において,発症前診断を行うことが被検者にとって,本当によいことなのかどうか,倫理的にも慎重に考える必要がある.倫理原則として,個人の自律尊 重と善行を中心に考えることになるが,当事者の判断はさまざまである.当事者の悩みに寄り添う遺伝カウンセリングが必須である.
日本神経学会では,神経疾患の発症前診断を行う場合には以下の要件を満たすことが必要であるとしている.
(1) 被検者は正常の判断力,理解力を有する成 人であること.
(2) 周囲等からいかなる強制もなく,被検者が 自発的に発症前診断を希望していること.
(3) 原則として,同一家系内の罹患者におい て,病因となる遺伝子変異が確定している こと.
(4) 被検者は当該疾患の遺伝形式,臨床症状, 予後,遺伝子診断の意味などの特徴をよく 理解していること.
(5) 検査結果が陽性あるいは陰性であった場 合の自分自身・家族の将来に対して十分な 見通しをもっていること,すなわち十分な anticipatory guidanceがなされていること.
(6) 診断結果告知後に臨床心理的,社会的支援 を行う医療機関が利用できること.
W.易罹患性検査
現在,糖尿病,高血圧症,アルツハイマー病などのいわゆるcommon disease の易罹患性に関係する遺伝子の探索が急速に進められているが,そ の研究成果を臨床検査のひとつとして診療の場で用いるためには,慎重な対応が求められる.すなわち,研究で得られたものを診療として行う場合には,なにが必要かを十分理解しておく必要がある.
ゲノム科学研究により生み出されるゲノム情報を診療に用いる場合,すなわち遺伝学的検査を臨床に導入する際には,次に示すACCE の4 点を考 慮すべきであることが国際的に提唱されている.
( Analytical Validity;分析的妥当性):検査法 が確立しており,再現性の高い結果が得られるなど精度管理が適切に行われていることを意味しており,変異があるときの陽性率,変異がないときの陰性率,品質管理プログラム の有無,確認検査の方法などの情報に基づいて評価される.
( Clinical Validity;臨床的妥当性):検査結果 の意味づけが十分になされていることを意味しており,感度(疾患があるときの陽性率), 特異度(疾患がないときの陰性率),疾患の罹患率,陽性的中率,陰性的中率,遺伝型と表 現型の関係などの情報に基づいて評価される.
( Clinical Utility;臨床的有用性):検査の対 象となっている疾患の診断がつけられることにより,今後の見通しについての情報が得られたり,適切な予防法や治療法に結びつける ことができるなど臨床上のメリットがあることを意味しており,検査結果が被検者に与え る影響や効果的な対応方法の有無などの情報に基づいて評価される.
( Ethical Legal and Social Issues;倫理的法的 社会的問題):遺伝情報が明らかにされたことにより,被験者が就職,結婚,保険加入な ど,その病気以外のことで差別を受けることがないかどうかなど倫理的法的社会的問題の有無により評価される.
現在,ゲノム情報の利用について,研究から診療への大きな転換点に差しかかっているが,多因 子疾患の易罹患性検査について臨床的有用性が明確に示されているのは,薬物に対する反応性の個 体差を判定することを目的とする遺伝学的検査を除けば極めて少ない.
糖尿病研究についていえば,2008 年8 月に,多くのマスメディアが,KCNQ1 が2 型糖尿病の発症リスクを1.4 倍高めるというわが国で行われた 画期的研究成果について,「リスク診断が可能となる」と報道した.しかし,この研究が画期的であ るのはリスク診断ができるようになったからではなく,「新しい治療法の開発につながる可能性が ある」から画期的な成果なのだということが一般には理解されていない.遺伝子型別の介入方法が 開発されているわけではなく,しかも1.4 倍程度の差が臨床的に有用であるという根拠はまったく ない.
易罹病性に関係する遺伝学的検査では,上記ACCE(分析的妥当性,臨床的妥当性,臨床的有用性,倫理的法的社会的問題)の確認が必要であり, 特に陽性者と陰性者を分けることによる利点,すなわち臨床的有用性を明らかにされなければなら ない.わが国においても早急に各種遺伝学的検査の臨床的有用性を客観的に評価するシステムを早急に立ち上げる必要がある.
X.おわりに
以上,遺伝子医療分野における臨床倫理的課題 について,出生前診断,発症前診断,易罹患性検 査を中心に述べてきた.これらの課題を解決する ための共通項は,遺伝医学教育の充実と遺伝カウ ンセリング体制の構築である.
2011 年2 月に日本医学会が公表した「医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン <http://jams.med.or.jp/guideline/index.html>」には,すべての医師は,遺伝医学に関する基本的な知識をもつべきであること,遺伝学的検査・診 断を実施する際には,最新の情報を得て,臨床的有用性を明らかにしたうえで実施すること,必要 に応じて遺伝医療の専門家と連携して対応すること,などが強調されている.
遺伝学的検査を実施する医療施設,特に大学病院をはじめとする高度医療機関においては,適切な遺伝カウンセリングの実施体制を整えるなど,遺伝子医療の充実が求められており,遺伝子医療 部門が整備されつつある.全国遺伝子医療部門連絡会議(事務局:信州大学)は,遺伝子医療部門の存在する高度医療機関(大学病院,臨床遺伝専門 医研修施設,等)の代表者により構成され,わが国の遺伝子医療(遺伝学的検査および遺伝カウンセ リング等)の充実・発展のための活動を行っている.2012 年9 月現在,80 すべての大学病院(本院 を含む),97 の医療機関が加盟し,遺伝子医療が抱える種々の問題解決のための活動を行い,その 成果を報告書,およびホームページ上で公表している<http://www.idenshiiryoubumon.org/ >.
わが国では,遺伝医学を系統的に教授している大学は極めて少ない.今年行われた第106 回医師国家試験で,発症頻度が1/40,000 の常染色体劣性 遺伝病の保因者頻度を問う問題が出された.遺伝学の最も基本的な知識を問う問題であるが,1/100 と正しく答えた者は,57%に過ぎなかった. わが国の遺伝医学教育の貧困さを表している.遺伝子医療革命の時代を迎えて,すべての医師は,遺伝医学を系統的に学ぶ必要がある.全国遺伝子医療部門連絡会議のホームページ<http://www.idenshiiryoubumon.org/ >では,遺伝医学系統講義e−learning(日本人類遺伝学会の理事等が講師 となり,18 のテーマについて,各45 分の授業を行っている)を公開しているので,ぜひご利用いただきたい.

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