HOME  English

 分科会 > 5.精神医療・認知症
 
精神障害や認知症疾患に罹患した人への支援
繁田 雅弘(首都大学東京大学院人間健康科学研究科)
T.精神障害者の自立尊重と最大の利益
精神障害者に対しては,人権保護のための精神保健福祉法や障害者基本法が整備されているが,そのことでかえって法の遵守のみを意識してしまい,改めて個別の利益や幸福,そして保護と自立とのバランスなどについて十分な検討が臨床でなされていないように思える.たとえば,統合失調 症患者の薬物療法やリハビリテーションにおいて,選択した薬剤やプログラムが患者の利益を最も大きくするものか否かについて,必ずしも個別の状況や生活史をふまえた検討がなされていない のではないか.医師を中心とする医療職チームの経験則かEBM(Evidence−based medicine;根拠に基づいた医療)に基づく判断がなされ,それらはいずれも平均的な価値観によるもので個別性を考 慮したものではない.たとえば「治療に時間がかかってもよいから,もっと副作用の少ない別の治療薬を試したい」といった患者が存在する可能性もふまえて検討することは少ないのではないか.
入院に関しても,「不自由を強いられるが,より早く回復するために必要だ」といった判断は医療職の経験に基づくもので,「時間がかかってもよいから自宅で生活しながら治療したい」と望む患 者の存在にまで考えが及ぶことは少ないと思われる.場合によっては,他者を傷つける恐れがあると判断されただけで,その恐れが精神障害による ものとの根拠がないまま入院に至る場合もある.社会的な要請もあると思われるが倫理的な観点からすると検討が必要な課題である.
U. 認知症疾患をもつ人の自立尊重と最大の利益
高齢者虐待は依然として認知症医療と福祉の最大の倫理的課題であり,今後さらに取り組みを強化する必要があるが,それは尊厳の最低限の保護であって,それだけでは個別性をふまえた高い生 活の質や幸福を目指すサービスとはいえない.
認知症に伴う精神症状や行動症候を抑えるために向精神薬を用いた薬物療法が行われることがある.興奮や幻覚に対しては抗精神病薬が,抑うつ気分に対しては抗うつ薬がそれぞれ用いられるこ とが多い.こうした薬物使用の是非は,デメリット(副作用や死亡率の上昇)を考えると,できる限り使わない方がよいとされる.しかし周囲への影響が甚大で,かつほかの治療で十分な改善が望め ない場合にはやむを得ないとするのが現場の一般的な考え方である.ここにも倫理的課題がある. それは本人の苦痛が議論の俎上に上がっていない点である.すなわち,興奮や幻覚といった症状が本人にもたらしている苦痛とその軽減の必要性が 言及されていないのである.本人にたずねたとしたら「副作用や死亡率は上がっても,とにかくいまの苦痛を取り除いてほしい」と答える可能性も ある.その可能性をふまえた判断が現場では必要ではないか.治療方針決定の際に,周囲への影響と身体への影響だけで,本人の意思や希望が無視 されていることを問題にする必要があると考えられる(もちろん筆者は認知症疾患をもつ高齢者に向精神薬の使用を推進する立場ではまったくな い.わが国における向精神薬の使用を今後さらに減らすべきであると考えている一人である).
一方,通所介護や通所リハビリテーションに通った結果,活動的になり自宅でも家事を手伝おうとするようになった認知症の人がいた.しかし「料理をしようとして包丁を持ち歩いたり,火の 不始末で危ない」といった家族の心配が生じた.病前のようには家事をこなせないが,表情や態度が部分的とはいえ本来の本人に戻ったので,それを大切にしたいと考えた家族もいた.しかし介護負担が大きく家族の生活に支障が生じれば,それ は家族メンバーが従来の生活を継続できなくなることを意味する.結果としてこの認知症の人は, リハビリのプログラムを変更し,参加するグループを替えることになった.すると本人は興味を失ったのか,リハビリがなげやりになり以前の活気もなくなった.元来の本人とは大きく異なる状 態になったが,家族は介護しやすくなったと言う.本人の利益と家族の介護負担の軽減を両立させることはしばしば難しく,こうした葛藤は現場ではごくありふれたものである.
V. 自らの意思を表明できない人への支援について
精神障害や認知症を有する人への医療・福祉における倫理的葛藤の例を挙げた.いずれも自分の意思を表明することをしなくなった(できなく なった)人への支援という課題である.こうした場合の適切な支援とは,どのようなものであろうか.倫理的な観点からすれば,可能な限り本人の意思をくみ取り,それに添うことが不可欠である.本人の意思が家族の意思よりも,また医療専門職の判断よりも重視される(もともと医療専門 職の判断は医学・医療における判断であって,本人の人生や生活における判断とは次元の異なるものである).意思を表明する能力が不十分だからといっても,まったく表明できないわけではない と考えることが出発点であろう.わずかでも意思を表明している可能性があるなら,それをくみ取るよう最大限の努力をしなければならない.そし て多少なりとくみ取れた意思をもとに支援を組み立てていくのが原則である.しかし本人の意思がまったくくみ取れない場合もある.その場合は本人の意思を周囲が推し測ることになる.いままでの言動や生活から本人の人生観や価値観を読みと り,かりに本人が意思表明をするとしたらどのように表明したかを推測し,それに添って支援を行う.結果的に身近にいる人や長く時間を共にした人,血縁関係にある人や,親しい人の意見を重視 することが多くなるものと思われる.さらに本人の意思の推測がまったくできない場合,必要な支援について関係者が決めなければならない.その場合は,家族や親族など身近にいる人や医師などの医療職ないし福祉職などがその候補となるであろう.これらが自らの意思を表明しない(できな い)人への支援の考え方である.
W. 精神障害や認知症をもつ人への支援における葛藤
しかし上記はあくまで原則であって,実際の支援では単純に判断できることは少ない.まず,本人が表明した意思が医療・福祉の観点から本人の 不利益としか思えない場合がある.精神障害や認知症で理解力や判断力が低下したり,症状に圧倒された結果,誤った判断をしているとわれわれが考える場合である.本人の人生観や価値観のためではなく,もし本人が健康だとしたら異なった判 断をしていたとしか考えられない場合である.その一方で,認知機能の障害のない人が,宗教や特殊な信条から明らかに不利益と思われる判断をした場合,説明や説得を繰り返しても本人の意思が変わらなければ,本人の意思にしたがうことにな る.ある宗教団体の輸血拒否がその例である.精神障害や認知症でなければ,平均的な価値観から かけ離れた判断でも,医療はそれを容認することがあり得るわけである.
では,精神障害や認知症の人が通常の価値観からみて不利益と思われる判断をし,それに対してできる限りの説明や説得をすれば,最終的に上記 のように本人の意思表明を容認することがあり得るであろうか.それとも理解力・判断力の低下を理由に“本人の不利益となる判断”はあくまで容認しないのであろうか.もしかりに容認があり得るとしても,“すでに十二分に説明した”という判断 に至ることははたして可能なのであろうか.
また,本人が意思表明できず周囲の者が本人の意思を推測する場合,通常は家族や近親者の意見を聞くが,こうした人々が本人の意思の推測にあ たっての適任者とは思えない場合もある.配偶者や親等が近い人が決めることが多いと思われるが,そういった人が本人の立場をより理解しているとは限らない.また“本人を知る”者が複数いて 意見が分かれた場合,だれの意見を重視すべきであろうか.そこに一定の考え方はあるのであろうか.
さらに,本人の意思の推測がまったくできない場合もある.その場合,本人に代わって判断する人の候補は近親者とすべきか,それとも医療職や福祉職とすべきか,それらの考え方にコンセンサスを得ることは可能なのであろうか.家族による代理判断の場合,家族のなかで意見が分かれてし まう場合もある.とすると,家族のなかの発言力の大きさで決まってしまうのではないか.本来はそこに何らかの考え方を求めるべきではないか.“本人のことをよく知り,最も本人の立場に立って判断できる人”がだれであるかを選ぶことは決 して容易なことではない.
あるいは,本人の利益が家族の利益と衝突する場合もある.現実に一方の利益を無視できないのであれば“間をとればよい”のであろうか.あるい は本人の利益になるが家族への影響が大きい場合,現実問題として本人の利益のみを優先するわけにはいかない.本人の利益を最優先することが倫理的に正しいとしても,周囲への影響が重大で家族の生活の継続に支障をきたせば,その支援は 進めることができないであろう.
以上述べたように,自分の意思をもちにくくなっている人,表明しにくくなっている人への医療・福祉支援は様々の倫理的課題を抱えている. しかし,少なくとも経験則やEBM といった平均的な価値観を押しつけている危険をわれわれがまず意識することで,障碍者や患者の生活の質をより高めるサービスにつながるものと考える.

topic