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 分科会 > 4.終末期医療・緩和ケア
 
緩和ケア・終末期ケアにおける倫理的課題・将来展望
―主として,在宅ホスピスの立場から―
二ノ坂 保喜(医療法人にのさかクリニック)
T.はじめに
緩和ケア,終末期ケア,在宅ホスピスにおいては,さまざまな倫理的な課題が内在する.根本的には,いのちに対する各人のあり方が問われる. 医療・医学の発展,社会の変化に伴って,家族のあり方や人間関係のあり様も変化し,一方で,いのちに対して変化しない視点というものも大切にする必要がある.緩和ケア,終末期ケア,在宅ホ スピスという分野は,その両者のせめぎあいの最先端でもある.
緩和ケアは,生命を脅かす疾患(による問題)に直面する患者・家族のQOL を改善するアプローチであり,がんなどで生存の可能性が少なくなった,あるいは,亡くなったときでも最期まで苦痛を和らげるためのケアであり,終末期ケアとは,老いや病気のために人生の終末を迎えようとする人たちへのケアである.在宅ホスピスはこれらを自宅という<場>で行い,相手(患者)の歴史・人 生・物語を視野におく.
筆者は開業医,在宅医として在宅における看とりを視野においたケアを20 年近く行ってきた.「在宅」という場は,住み慣れた場所,家族とともに暮らす場所というだけでなく,患者=この場合は患者というのはその人の一面で,父親であった り,夫であったり,町内での役割や会社の役職を担っていたりという,その人のさまざまな側面を総合的にみる視点が育つ場でもある.医療が「人間として人間の世話をする」という原点に戻る, 関係性を発見する場,といえるのではないであろうか.
そのような背景を考えながら,緩和ケア,終末期ケア,在宅ホスピスに関わる倫理的課題とその将来展望を考えてみたい.今回は,特に以下の4点にまとめてみた.
 1 ) 患者とともに歩む医療の出発点としての「告知」について
 2 ) チームケアとコミュニケーション
 3 ) 意思決定を支えるということ
 4 ) カルテからなにがみえるか? 〜生活臨床の実践として
1 . 患者とともに歩む医療の出発点としての「告知」について;告知の問題をどのように考え,解いていくべきか
告知は,医療者と患者(および家族)との真実の共有がテーマである.しかしそれは,本人や家族にとって不都合な真実でもある.医師や医療者にとっては,「不都合な真実をどう伝えるか?」という問題である.一方受け止める側の患者や家族にとっては,「不都合な真実をどのように受け止め ていけばいいのか?」という課題である.
1 )受け止める勇気と伝える勇気
もちろん患者の側は,受け止める勇気が必要である.自分にとっての不都合な真実に対して目をそらさず,私は私のいのちの主人公,人生という航海における船長である,という自覚をもちたいものである.
一方で医療者は,不都合な真実をどのように伝えるべきか,そしてどう支えるべきかを考えるべきであろう.真実であれば時と所を構わず告げればいい,という発想では,患者とともに真実を共有することはできない.患者とともに真実を共有 することができて初めて,「患者とともに歩む医療」の出発点に立つことができる.
2 )日常の実践のなかで
日々の診療のなかでの意思決定の支援も重要である.これは告知への第一歩であるともいえる.日頃から,「もしがんになったらどうしますか?」や,検査の前には「検査でがんがわかったらどうしますか? (悪い結果も)言った方がいいですか? 言わない方がいいですか?」と尋ねること を実践している.
また付随する問題として,絶対に告げなければならないか,という問題もある.病院医師からの紹介状では,きちんと告知している,というが,患者に聞いてみると,「聞いてない」「覚えてない」という人が多い.不思議なことだが,無意識に忘れたいという,心の傷を守る防御機能なのであろうか.
一方で,患者は病気のことを分かっていても言わないことも多い.家族や周囲への思いやりとしてである.実際の場面では,患者が病状についてなにも聞かないこと,(在宅の場合)入院すると言わないこと,「私の病気はどうなる?」と聞かないこと……は,患者はすべてを知っていると考える べきであろう.
3 ) 告知は是か非か?という“ 問題の建て方”の問題点
問題設定の仕方で,答えは変わる.たとえば,だれが,いつ,どのように告知すべきか? と問題を建てると,具体的にだれが告知をするのにふ さわしいのか,つまり医師,看護師,家族,そのほかのだれか,という具体的な答えが出てくる.またいつか,という問題では,手術の前とか,手術後となり,またどのように告知すべきか,とい う問題を考えると,具体的な方法が考え出される.たとえば,診断がついた時点で,医師と看護師またはソーシャルワーカーが,患者本人と家族いっしょの場で,診断名と現在の病状を告げる, その後の反応を看護師や家族からフィードバックしながら,予後についても話す必要があるかどうか,などさらに告知の内容を深めることを考える.告知は,一度だけのものではなく,時間をか けたり,行きつ戻りつしながら行っていくべきものでもある.
筆者は元外科医として,以下のような「告知」と「手術」の比較表をつくってみた(表1).手術が周到な準備や考え,チームでの役割分担と協力に よって成り立ち,術後のフォローや合併症対策が必要なように,告知にも,しっかりと準備と考え方,進め方の手順や役割,告知後の落ち込みなどに対する心理的フォローなどが必要であろう.当然ながら,告知は丁寧に真実を伝えるだけではな く,患者を支えながら患者にとってより真実に近づくように,繰り返しアプローチを続けていく必要があるであろう.真実を伝え,支え続ける勇気が必要といえる.
2 . チームケアとコミュニケーション
地域で行われる在宅ケア,在宅ホスピスは本来地域(の人々)に開かれたものであるはずだが,実は密室でのケアという側面がある.多くの場合,患者と家族は病状がたいへん悪いこと,ときには病気や障害があることすらまわりに知られたくないと考える.また,ケアに当たるのは特定の医師,看護師に限定されていることが多い.医療関係者 は患者のプライバシーに対する守秘義務があるので,たとえとなりの家で別の患者のケアを行っていても,それを告げることはできない.患者・家族が話さず,ケアに当たる者が話さなければ,そこで行われていることは誰にも伝わらない.
在宅ホスピスケアの質は,担当する医師の経験や知識,技術に左右される.病院のように他の医師や看護師などの医療従事者に,ケアの場が開かれていない.そこでの医療行為が,患者にとって 本当に必要かつ妥当なものかどうか,判断しにくいことも多い.
加えて,開業医は(自戒を込めて)「井の中の蛙」であることが多く,看護師やヘルパー,ケアマネジャーなど他の職種との対等なコミュニケーションがスムースにいかないこともよくある.他職種 も「医者の壁」を実態以上に強く感じていることも 多い.
患者,家族にとっては,初めての在宅ケア,初めての在宅ホスピスである.退院時カンファレンスで「なにか聞きたいことはありませんか?」と言われても,なにを聞いていいのか分からない,急に悪くなったらどうしよう,私たちに介護ができ るのかしら,と不安いっぱいで家に戻ってくる.在宅医や在宅ケアチームの質を評価したり,注文 をつけることなど想像もつかない状態であろう. 在宅ケアを行っていくうちにお互いに気心がしれて,人間としての付き合いも深まるとはいえ,た とえ何らかの問題を感じたとしても,患者・家族の側から在宅医を断ったり,変えたりすることは 極めて困難である.たとえ,在宅医を変更したいと思っても,新たな在宅医がみつかるかどうか,その医師がこれまでの医師以上にケアの質が高い かどうかは分からない.それに残された時間は少ない.
そのような状況のなかで,在宅ケアの質を確保し,透明性を保つためには,どのような具体的方策を考えるべきであろうか.
まず第1 に,看護師の質の向上と視野を広げる ことが必須であろう.「あなたにはもう,治療することはありません.」と医師が言ったとき,看護師 はそっと患者のそばに寄り添う.医師がたとえ治療することがないと言っても,看護は患者を支え ることができる.患者がどのような状態であっても,最期まで必要なものは癒しとしての看護である.看護は本質的に,緩和ケアに重なり合う部分 をもっている.実際,在宅ホスピスの患者にとって訪問看護は最も重要な支えである.
また,在宅ホスピスの経験を積み,学びあいを重ねることで,訪問看護師は大きく成長してい く.成長していく訪問看護師の視野は,患者の生活の場としての在宅だけでなく,広く地域へ向け られていく.医師を育て,地域を育てるといってもいい.小笠原文雄医師の提唱・実践している THP(Total Health Planner)などはその先端を行くものといえるであろう.
第2に,在宅ホスピスに関わる医師の姿勢のあ り様を考えたい.筆者はある患者から言われた言葉が心に残っている.「先生が,最後の友人です.」 病気が進行し重篤になり,末期になると新しい友人はできない.担当してくれた医師が最後に知り合う“友人”であってほしい,という願いを込めた 言葉でもあったのであろう.それ以後,患者の最後の友人としてふさわしいケア提供者であることをモットーとしている.医師として,と同時に「人間として人間のケアをする」ということを実践し たい.
第3に,チームケアとコミュニケーションのあり方をあげたい.医療・看護・介護職それぞれが専門職としてそれぞれの知識,技術を用い,ケア 提供者として思いやりのあるケアを提供し,人間として対等に接する……ということは言葉としては妥当であるが,実際の場面では難しいことも多 い.特に在宅ホスピスでは,診療所の医師,看護師と訪問看護師や訪問薬剤師またヘルパーやケアマネジャーが同時に訪問することはない.それぞれが違った時間に訪問し,しかもチームとして統 一されてケアを提供するにはどうしたらよいのであろうか.
顔の見える関係は,いうまでもない.お互いの人となりを知ったうえでチームとして関わることが必要である.さらにお互い意見の言える関係から,信頼できる関係へと深まっていくことで, チームはより有効な力をもつことができるであろう.その場合に,チームとして在宅ホスピスの理念を共有すること,それぞれが得た情報を共有すること,チーム内でのディスカッションでは,批 判をしない,対等に話をする,といったルールをもつことも大切である.
チームとして取り組んだ症例の振り返りを共有することも大切である.事例検討会,またはカンファレンスである.どのような思いで取り組んだ のか,技術的な問題はなかったか,なにを学んだのか,今後に生かすこと,といったことをいっしょにディスカッションし,共有していくことが,在宅ホスピスの質を高め,より開かれたもの にしていく契機となるだろう.
3 . 意思決定を支えるということ;考え方のプロセスと,具体的な方法
1 )自由な自己決定は可能か
「本人の意思に任せます.」とは,医療の現場でよく聞かれる言葉である.自己決定の尊重も医療の基本である,とよく言われることである.
曰く,手術をするかどうか,本人の意思を尊重します……在宅ですごすかどうか,本人の希望どおりにしたい……一歩踏み込んで考えてみよう.
治療における自己決定または本人による意思決定とは,当事者である本人(この場合は患者)が,ほかの人の意見や考えに左右されることなく,自由な意思で治療方法を選択し,決定することを意 味している.そもそも「自由な」自己決定は可能なのであろうか.
人はだれでも,いま生きている環境,状況に規定されている.具体的には,現代の,日本という国に生きている以上,その文化,経済状態,政治状況および時代状況などに規定されている.同じ日本でも,江戸時代の日本人と現代の日本人では,意思決定の仕方も,選択の仕方も違うのは当 然であろう.日本とバングラデシュでは,文化も国の姿も異なり,意思決定の仕方も違ってくるであろう.たとえばバングラデシュでは,医療機関が少なく,医療者の数も圧倒的に少ない.医療保 険もなく,国民のほとんどは医療費を払えない貧しい農民が多い.そこではホスピスはなく,ターミナルケアやホスピスケアといった考え方すら一般の国民には,ない.そこで,ホスピス=緩和ケ ア病棟を選択する余地はない.がんなどの病気の末期になると,(貴重な医療資源を無駄に使わないために)自宅に帰る.そこではわれわれが希望 するような在宅ケア,在宅ホスピスケアがあるわけではなく,痛みや苦しみに耐えながら,死を待つ生活があるだけである.
同じ現代日本に限っても,その人の住んでいる地域の文化や生活の貧しさなどによって選択の幅が限定されることもよくあり,社会的に弱い立場にある人たち(経済的に貧しい人たち,高齢者,精神的・知的・身体的障害者,ホームレス,難病患 者,薬物・アルコール乱用者など)は,いわゆる「世間」からの圧力もあり,選択の幅は極めて狭 く,自由な自己決定など極めて困難な状況であろう.自己決定は生命倫理,医療倫理における最重要な原理であるが,しかし実際の臨床現場では, せいぜいその程度のものであることをわれわれは知るべきであろう.そのうえで,本人にとって最も適切,最良と思われる意思決定を求めていくべきだと考える.
より具体的には,がんの緩和ケアのみでなく,認知症,神経難病,加齢,小児のホスピスなどにおける意思決定支援を学会としての課題として考える必要があろう.
4 .カルテからなにがみえるか
在宅ホスピスを開始して数年目のあるとき,亡くなった患者のことを思い出しながらカルテをみて,驚いた.患者のそのときの様子や生活がみえてこないのである.患者のそばにだれがいて,枕 元にどんな花があり,本棚にどのような本が並べられていたのか……みえない.もちろんカルテには,患者の主観的訴え,客観的所見,評価,計画といった大学で習ったカルテの書き方に沿った記録はある.しかし,カルテをみて,そのときの患者の目つき,肌の乾き具合,患者の希望や絶望,家族への思い,が伝わってこないのである.
いったいわれわれは,患者のなにをみて,なにを記録しようとしているのであろうか.カルテによる記録は,何のためだったのか.
筆者が現在心がけているのは,患者の言葉を記録することを第一として,そばにだれがいたか,患者は寝ていたのか起きていたのか,どれくらい動けるのか,どんな思いをもっているのか,あるいは部屋にはどんな写真が飾ってあり,どんな本が置かれているのか……患者と家族の人生の物語の最終章に関わり,記録するつもりで臨んでいる.
またカルテと同時に,そのときの写真を撮影し残しておくことも有意義だと考える.最初のころは,病気でやつれ,やせ衰えており,ときには痛みやそのほかの症状で苦しんでいる患者に「写真 を撮らせて」とは言えなかったが,こちらが思っている以上に喜んでくれる方が多いことに気がついた.これらの写真は,その後の家族にとっても 大切な思い出となり,紹介元の病院に報告書とともに送ると,在宅での患者の姿を伝える貴重な情報ともなる.
患者は,いのちをかけてわれわれに学びを与えてくれているということを常に肝に銘じておきたい.
U.おわりに
ここでは,緩和ケア,終末期ケア,および在宅ホスピスに関わる倫理的課題とその将来展望のいくつかを述べてみた.ほかにも臨床の現場では答えの出ない多くの課題が日常的に提示され続けている.国際保健医療の現場では,生まれた国が違うだけで,いのちに大きな格差が生まれることを実感する.一方で限りない延命の作業が果てしなく続く先進国? 医療の姿がある.いずれも<いのち>が大切にされない状況にあることに変わりはない.目の前にあるいのち,同時代を生きるい のち,そして未来のいのちへの視座をしっかりと見据えていきたいものである.

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