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 分科会 > 3.在宅医療
 
在宅医療の実践者の立場から
太田 秀樹(医療法人アスムスおやま城北クリニック)
T. 病院医療から在宅医療へ;時代からの検証
地域医療において,開業医が担う往診医療は,歴史的にも重要な役割を担っていたが,1970 年ごろより,徐々にその意義が薄れていく.病院死が在宅死を上回ったのは1976 年で,その後約30 年間にわたり,毎年1%ずつ病院死が増え続けるの である.
わが国の高齢化率は1971 年に7%を超えて本格的な高齢化社会を迎えた.医療は高度化し,診断技術も治療技術も格段にその水準を高めていく.人工血液透析の普及やCT スキャナーの登場(1975 年)などで,科学技術としての医学の発展 には目を見張るものがあった.尿毒症で命を落とす患者が激減し,外科手術の発展により,脳出血や頭部外傷患者の救命率は高まった.経済の高度 成長とあいまって,科学技術万能の神話は,医療への過剰な期待を生み,死は医学の敗北と受け止められた.
確かに人は死ににくくなったが,同時に「植物人間」なる言葉も生みだされ,救命されたが社会的活動がそこなわれたままで命をつなぐ患者も増 えていく.しかし,国民は医学への幻想を捨てきれず,さらに,福祉施策の貧困さを病院医療が肩代わりする医療文化が醸成されていった.これ が,わが国特有の社会的入院とよばれる現象となっていく.
高齢者が増加することが明らかとなったこの時代に,政治判断で高齢者医療費の無料化が進められた.家で死なれては世間体が悪いと,「世間体」 という不可解な意識もあいまって,寿命で命を閉じる高齢者までもがみな,病院での延命的治療の 果て,死ぬ文化が受け継がれていくのである.
この時代に,各県一医科大学構想が具体化し,1970 年代から80 年代にかけて,医師数も倍増す る.医師たちは皆,臓器別,疾病別の専門医を目指し,その結果わが国の開業医たちの大部分が専門医となった.専門性の高い先進的医療が国民の希望であり,高額な高度診断機器を備えた医療機 関が,専門医を配属して,国民の医療ニーズにこたえ続けてきた.ちなみに日本の学会認定専門医は,日本の医師数を遥かに上回るという.
ところが,高齢化社会に突入して40 年が経過し,4 人に1 人が高齢者という世界に類をみない超高齢,多死社会が到来すると,医学がいかに発展したとしても,もはや摂理として人の死が避けられない.当たり前の現実を冷静に受け止める市民が多くなってきた.従来の病院を中心としたヘ ルスケアシステムが機能不全に陥っていることに,やっと気づき始めたといえる.
U.在宅医療の黎明期
病院信仰が生まれた背景を述べてきたが,実は1976 年にはすでに日本尊厳死協会が設立され, ホスピス運動が始められている.命を救う医療の発展期に,一方で,安らかに命を閉じる医療の必要性が問われ始めたといえる.「死の臨床研究会」が発足したのは1977 年である.
1990 年代になると,ジャーナリストの大熊由 紀子氏がデンマークの医療福祉の現状を著書「‘ねたきり老人’のいる国いない国」で紹介し,‘寝たきり老人’の存在は,日本特有の状況であることが伝えられた.当時老人病棟とよばれるところでは,おびただしい数の高齢者たちが,ベッドに抑 制され,点滴や人工栄養によって生かされ,うつろな目で天井を眺めながら,やがて褥創をつくり,肺炎で命を閉じていた.高齢者の日本型終末期医療への疑問は少しずつ膨らんでいったのである.
先進諸外国のように病院を疾病治療の場と位置づけると,老いや障害とともに豊かに暮らすためには,地域での生活の継続が重要で国もその事実 を認識するようになる.1992 年には地域医療システムの根本的な見直しが始まった.この年に居宅が医療提供の場として明確に位置づけられ,訪 問看護が診療報酬で評価されている.さらに,従来の往診に対して,訪問診療という概念が登場した.病院機能を地域に広げる考え方は,居宅を病室とみなし,病棟回診の役割を担うのが訪問診療 なのである.日本の在宅医療の夜明けといえる.
そして,1994 年には24 時間の往診体制が手厚く評価された.往診医療は診療所経営の足を引く ものではなくなり,2000 年には介護保険制度が施行される.公的な保険制度とするか,税金で行うべきか,かまびすしい議論は記憶に新しい.高齢 者の在宅療養を社会全体で支えようという基本理念は,往診によって高齢者が在宅で看とられた 1970 年代とは,家族の姿も大きく変わったからである.非婚化,晩婚化,DINKS(double income no kids)など,家族の形態が多様化し介護はもはや女性の役割でなくなった.介護サービスには市場原理が導入され,民間企業の参入が認められ た.さまざまな在宅介護支援サービスが誕生することとなる.
その後,障害者自立支援法(2006 年),がん対策基本法(2007 年)と,高齢者だけでなく,病院での治療の対象とならない疾病や障害がある人々が地域で健やかに療養できるように在宅医療が法制度 から牽引されてきた.生活を上位概念として,そこに医療を過不足なく提供する地域ケアモデルとして在宅医療が市民権を得たのである.
V.在宅医療の現状
在宅医療は,入院,外来につぐ第三の医療といわれるが,前述したように歴史は浅く,医学部など教育の場で学ぶ機会が乏しい医療ともいえる. さらに,医師だけでなく,看護師,歯科医師,薬剤師,リハビリ職,管理栄養士など医学系基礎資格をもった多職種が協働して推進するチーム医療 であるが,医療職の多くは在宅医療に対して偏見や誤解を抱いている.特にはなはだしいのは,社会保障費の高騰による財政論から推進され,安上がりで質の悪い医療との認識である.一時メディ アまでがそういった論調で在宅医療推進に対する批判をぶつけてきた.社会的入院の是正と在宅医療の推進が表裏一体の関係で,在宅医療の否定は,すなわち社会的入院の肯定と同義で,医療費の無駄削減不要論につながる.
在宅医療を定義づけると,「生活の場で,通院困難者に対して,患者,家族の意向をくみ医療職が訪問して提供される全人的,かつ包括的医療であり,望まれれば看とりまで支える医療」といえる.生活の場とは,なにも自宅だけではない.居心地がよく療養者が望む場所である.また,全人的か つ包括的医療とは,疾病,障害,性別,年齢に関わらず,また,疾病治療だけでなく,保健,福祉も視野に入れ,家族背景や地域も包括した医療と いえる.そして,最も重要な役割が,望まれる場所での終末期医療の提供である.国民の大部分は,状況が許せばの条件付きも勘案すれば,けっして病院での終末期を望んではいない.さまざま な調査研究で明らかとなっているが,そもそも,福祉国家といわれているわが国で,状況が許さないのでやむなく病院で死ぬという現実は悲しい限 りである.在宅医療は,日本人の生き様を支えるという役割を担っている.
しかし,国が期待しているほど在宅医療は推進されたとはいいがたい.そこで,昨年2012 年には,都道府県に対して,在宅医療提供体制整備に関し数値目標を設定して保健医療計画に盛り込む ように通知がなされた.1992 年の在宅医療元年に対して,新制在宅医療元年ともよばれているゆえである.
W.在宅医療と倫理
在宅医療とは,医療が提供される場を示すことばであるが,提供される医療の質やその水準を示すものではない.いわんや必要な医療を差し控える医療ではない.かりに病院医療でも終末期と診 断されれば,終末期として適切な医療提供がなされるべきで,緩和ケアを実践する場合においても,施設医療に対してまったく引けをとるものではない.むしろ認知症の人に対して提供される医 療に象徴されるように,住み慣れた生活の場で療養環境を変えることなく提供される医療のほうがはるかに質は高いといえる.
高齢者の終末期医療のあり方に関しては,臨床的にも医学的整理を深めることが大切であり,少なくとも,1 分,1 秒命をながらえさせるために積極的に医療を介入させることが医師としての正しい態度であるとの考え方は,もはや一般的では なくなりつつある.職能団体や学術団体が率先して,あるべき終末期医療の姿を科学的に示すことが必要な時期といえる.
在宅医療21 年間の実践者としての印象であるが,高齢者が寿命で命を閉じる場として病院という場が不適切で,在宅医療の役割やその質が社会全体で正しく共有されていないと思っている.
X.現場から感じた倫理的課題
疾病の治癒や救命を目的として,医療環境下で療養生活を行う病院医療と暮らしの場で提供され る在宅医療は,根本的にその役割も目的も異とするが,両者ともに生命をその対象とする終末期医療場面が存在する.あらゆる手段を用い延命治療を続けるか,苦痛を除きながら自然の臨床経過を 支えるか,その手法は違っても,高齢者医療の終末期において最も重要な倫理的配慮は,患者が望む医療の提供である.
本稿では胃ろうにまつわる倫理的課題についてはふれないが,家族の希望や病院の都合で胃ろう が造設されたと思われる症例を数多く経験している.そして,高齢者施設には食事介助が容易な胃ろうを入所の条件としているところもあると聞 く.かりに,医療的虐待という概念が存在するとすれば,回復の期待がないにもかかわらず,本人が望まない医療によって,生かされ,苦痛が長引 く状況がつくり出される.こういった医療の介入を虐待とみなしてもよいと感じている.
介護系施設においては身体抑制に対する厳しい規制があるが,救命という目的がある限り病院での抑制は問題視されることなく日常的に行われている.この現実は当事者が望まない医療をだれか の意図によって提供しているという証でもある.
一方で在宅医療推進に対して,病院医師自らの反対意見も聞かれる.たとえば「在宅医療は家族が気の毒だ」と,施設や病院医療を容認する意見 である.一見介護家族への温かい配慮にも聞こえるが,患者自身に対する人権意識の希薄さを感じないわけにはいかない.虚弱高齢者に対する病院医療への期待は,徐々に変化している印象をもっ ているが,「看護師や医師がいる病院で命を閉じることが安心なのはまちがいない」という意見もある.これは医師のパターナリズムそのもののような気がする.
Y.在宅医療のこれから
在宅医療の発展は,日本の医療改革そのものだと信じているが,その普及には,さまざまなハードルが存在する.医療者自身が在宅医療の本来の姿を知らないだけでなく,国民も在宅医療という選択肢をもっていない.また,行政の認識も怪しい.
印南一路氏は,入院したがる患者,在宅介護を忌避する家族,入院させても構わない病院という3 者の利害の一致が社会的入院の原因であると著書「社会的入院の理論」で分析している.確かにそのとおりであるが,しかし,精神科病床に認知症の人が数万人も入院して暮らしている現実に対し て,この分析は当たらない.けっして患者が精神病院への入院を希望しているわけではないからである.家族が在宅介護を忌避しているというより,むしろグループホームや介護保険施設でケアが厄介となった認知症の利用者が入院している.入院させると,家族の費用負担は,介護保険費よりも少ないのである.さらに,独居の認知症の人 の入院は,地域包括支援センターの判断によってということもある.
一時寝たきりアパートが社会問題となった.金儲けの対象として虚弱高齢者が利用されているが,これは貧困ビジネスとしてだけではない.高級有料老人ホームのなかには,供託金が償還しきる前に,入院という手段で退所を促しているところがあると聞く.虚弱高齢者はいったん入院すると再びホームに戻ることがないことを知ってのうえであるからなおさら狡猾である.さらに,要介護高齢者の情報がどこからか漏れて,それが在宅医療対象患者紹介ビジネスとして成立しているら しい.
在宅医療は従来の往診とは異なり,また,新しい医療形態であるからこそ,政策や制度が悪用され,その普及推進がスポイルされるような出来事も少なくない.まるで悪貨が良貨を駆逐するような現状ともいえる.だからこそ,開業医の矜持として,また,医師の倫理観や高齢者介護施設経営者の良心で支え続けなければならない.正しい在宅医療はすばらしい医療である.国家の主導で推進されているではないか.財界も,ジャーナリズムも,永田町も多くの識者が在宅医療の普及を歓 迎している.われわれ医師のミッションは,良質の在宅医療を提供して,市民から在宅医療に信頼を寄せてもらうことである.市民が変われば,医療者も行政も介護保険事業者も行動変容せざるを得ない.こうして,日本の医療文化が変わるので ある.

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