■ 嫌煙の時代で(後編) 狂信的干渉の不安

2008年6月11日


◆個人的経緯について

 前編から4年半が経過してしまったのには理由がある。

 喫煙者の立場で書こうとしていたのだが、僕がタバコを吸わなくなってしまっ たのである。この経過は慎重に見守りたいと思い、僕の思考は慎重に僕の身体 が結論をだすのを待っていた。身体がぶれているときに、思想は固まらない。

 事の次第はこうだ。

 6年前に医師になったとき、僕は就労中に(つまり白衣を着ているときに)、 仮に勧められたとしてもタバコは吸わないと決めた。禁煙を指導する立場にある 以上、当然のプロフェッショナリズムである。ただ、友人と飲みに行ったりする と、その友人が喫煙者である限りにおいて、相変わらずタバコを嗜んでいた。

 ところが、急速に喫煙エリアが限定されるようになり、あえて喫煙席を希望し たり、喫煙所に行かないかぎり、タバコを勧められることすらなくなってしまっ た。元来、あえて吸いたいと希求するタイプではなかったので、タバコを吸う機 会が失われてしまった。そして、僕はタバコを吸わなくなった。禁煙したのでは ない。終煙したという感じである。

 もっとも東南アジアなどに用向きあって出かけると、やっぱりゲストハウスの 片隅でバックパッカーたちとタバコを吸っている。ルールで吸ったり吸わなくなっ たりするのではなく、相変わらず僕にとってタバコは嗜好品のようである。これ が僕の身体の出した結論である。

 ともあれ、喫煙エリアを限定してゆく公共戦略はよいなと感じている。自らの 判断ではなく、流されるように喫煙してしまうリスク(とくに未成年)を低減し ているからだ。タバコは吸わないにこしたことはない。これは医師としての医学 的判断だ。問題は、この価値判断にどれだけの社会的普遍性があり、かつ、個人 の活動にどこまで介入することが認められるのか・・・ ということである。

◆喫煙制限の施策

 まず、喫煙制限にはどのような政策があるのか整理してみよう。


(1)喫煙を禁止(違法化)する
(2)公共空間での喫煙を禁止する
(3)公共空間での喫煙区域を設定する
(4)禁煙区域を設定する
(5)喫煙の制限を喫煙者のマナーに委ねる

 これは個人への介入である。この他、間接的な介入として、広告統制や課税、 生産統制を手段としたタバコ流通を制限するものが挙げられる。

 禁煙車が登場したころの日本社会のタバコへの対応は(4)が主流であったが、 現在はJRのホームの喫煙コーナーに代表されるように(3)にシフトしてきて いる。そして、それも撤廃され全館禁煙が広まりつつあるため、(2)の時代が やってきたという印象がある。欧米の多くの国々がすでに(2)を採用しはじめ ている。

 そして、ついに世界の禁煙キャンペーンを勇気づけるような法律が、前回紹介 したように、ブータンで成立しようとしているわけだ。喫煙の全面禁止。すなわ ち違法化である。

 めざすべきは(1)か、それとも(2)で留めるのか。議論が分かれるところ だろう。しかし、世界の禁煙キャンペーンの勢いからすれば、(1)への流れも 無視できないところまで来ている印象だ。「喫煙は悪だ! 喫煙者は不幸だ!  救い出そう!」と...

 実は、(1)と(2)との間には大きな壁がある。(2)〜(5)は、他人の 健康や気分を害することを許さないという考えがメインであり、ひとりでタバコ を吸って不健康になることを制限はしないものだからだ。しかし、(1)は喫煙 者自身が健康を害することを許さないという考えによっている。

 僕自身は(2)までは、性悪説を前提として秩序づけられつつある現代社会で は必要なことだと思っている。ただ、本音を言わせていただくと、「法律でしか 他者への思いやりが実現できないなんて寂しいなぁ」とも思っている。たとえば、 僕は「電車の優先席」という制度が嫌いである。そこに弱者がいるのなら、どこ であっても優先席なはずではないか。ルールを作るということは、少しずつ「人 間性」を鈍感にし、削り落としてゆくことに繋がることではないのかと、少し不 安になってしまうのだ。

 それでも、(2)は仕方のないことだ。しかし、不健康になることを許さぬと いう(1)には強い疑問を感じている。本当に、人は健康でなければならないの だろうか・・・

◆健康であることは義務である

 1939年、ヒトラー・ユーゲントに出された『十戒』という規範は、「健康 であることは君の義務である! この言葉が君の全ての行為を支配しなければな らない」という言葉で締めくくられている。

 国民の経済的資力を効率的に運用するため、障害者への福祉財源に限界を感じ はじめた国家が、優生学的傾向をもつことは避けられないことなのだろう。そし て、健康政策に従わない者に対する弾圧がはじまるわけだ。たとえば、1936 年にドイツで製作された有名なポスターがある。ナチズムの優性政策の象徴とも いえるもので、金髪碧眼のアーリア青年が2人の「遺伝病患者」を天秤棒で担い でおり、その上に「君もともに担っているのだ! 1人の遺伝病患者が60歳ま で生きると平均で5万マルクの費用がかかる」と書かれている。ナチスに限らず、 こうした負担感を煽る宣伝は福祉財源の枯渇におびえた政府なら、どこでも好ん で使い始めるものだ。そして、近年の日本もそうした方向へと突き進みはじめて いる印象がある。

 「健康日本21」は、高齢化社会における医療費膨張の対応策として打ち出さ れた。国民が病気になると医療費がかさむので、国民の生活習慣をコントロール して病気を防ぎ、医療コストを減らそうという戦略である。

 しかし、「健康」とは、本来、市場の外にあったはずである。そもそも国民皆 保険という素晴らしいシステムも、「健康」を市場原理から引き剥がすために考 案されたものであった。ところが、この国民皆保険そのものが経済的に行き詰ま るにつれて、逆にこのシステムが「健康」をマーケットに引き込み、経済的指標 に基づいて統制するようになっている。たとえば、「国民医療費を国民所得の何 パーセントとする」といったことが、当然のように国家により発表されるように なってきている。

◆生活は健康のためにある

 そもそも「健康」とは、国民の権利であって義務ではなかった。


日本国憲法 第25条
すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 この憲法が制定された当時、日本人は貧しく不健康だった。そして、健康な国 民生活を実現すべく、国も国民も奮闘努力したと聞いている。その結果として、 日本はついに世界一の平均寿命を有する人類史上例をみないほどの健康な社会を 実現したわけだ。

 ところが、最近になって少々怪しい動きが出てきたようだ。今度は健康である ことが国民に求められるようになってきたのである。「せっかく健康にしてやっ たのだから、不健康な生活など許さん」というわけなのだろうか。

 たとえば「生活習慣病」という言葉。これは1996年に突然誕生した言葉である。 元来、保健医療と国民生活の関わりというのは、早期発見、早期治療だったが、 それよりも早く、つまり健康なときから生活習慣に目を向けて、不健康になりか ねないリスクを取り除いてゆこうという啓蒙が、この言葉には込められている。 つまり、どんなに健康だと信じていても、そこに甘んじることなく「将来の健康 のために今を生きなければならない」という脅迫の時代を僕たちは生きているか のようである。常に僕たちは、血液サラサラで、丈夫な内臓をもち、免疫力を向 上させる努力が要求されていると...

 こうした時代の流れを決定的にしたのが、一昨年(2002年)に成立した『健康 増進法』と言えるだろう。この健康増進法は、健康であることは国民の義務であ ると明言している法律だ。


健康増進法 第2条
国民は健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯に渡って、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。

 そして、もはや「健康」という言葉の意味すら、大きく変わりはじめている。 国策的に要求されている「健康」とは、国民皆保険制度を守るために要求されて いるものかのようだ。しかも、自己管理といいながら、むしろ個人の生活の細部 までもを保健医療の観点から統制しようとしており、何が健康であり、どう健康 を維持するか、そうしたことの自己決定が認められなくなりつつあるような気が する。

 そして、こうした生活への介入のなかで、もっとも熾烈なのが禁煙キャンペー ンではないだろうか。これが、国の強い支援を受けながら広まりつつある背景に ついては、こうした国家の財政事情が大きいのかもしれない。

◆自由主義における愚行権

 自由主義の原則には、「判断能力のある大人であれば、自身の行動について、 他人に危害を及ぼさない限り、たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、 自己決定の権限をもつ(愚行権)」というものがある。

 後ほど明確にするつもりだが、僕は決して自由主義を絶対とはしないし、上記 の言説を盾として、他者への介入を批判しようとは思わない。ただ、いかにして 公共的強制の限界を明らかにすることができるのか、その出発点として、この自 由主義の原則を取り上げてみたい。

 まず、なぜ自由主義には愚行権があるのだろうか。

 プラトンは「対象をもっともよく理解する者が、もっともよく判断する」と述 べている。この思想は、民族自治から生命倫理に至るまで、いまなお世界の現実 的な基本倫理として息づいているものだ。いかにイラクの人々が愚かであったと しても、アメリカがイラクを統治することは許されないし、いかに患者が自分の 疾患に無知であったとしても、治療方針の決定権は医師ではなく患者自身にあり 続けるわけである。

 こうした自己決定権を認める根拠として、もちろん「個性の尊重」があるが、 タバコの議論ではとくに注意すべき点として「狂信的干渉の害」が挙げられる。 これについては、J.S.ミルが極めて明瞭に述べている。

「公衆は純粋に個人的な行為に干渉してはならないという一切の論拠の中で、最 も有力なものは、公衆が干渉を行なう場合に、その干渉が誤って行なわれたり、 誤った場所で行なわれる惧れがある、ということである。・・・公衆は彼らの非 難するような行為を行なう人々の喜びや便宜に対して、完全な無関心をもってこ れを看過し、彼ら自身の好むところだけを考慮するからである。世の中には、自 分の嫌悪する行為を自分に対する権利の侵害であるかのように考え、また、自己 の感情を傷つける暴行であるかのようにそれを憤る人が多い。・・・道徳警察と でも呼ぶべきものの権限を拡張していって、ついには個人の疑う余地のない合法 的自由をも侵害するに至るということが、人間のあらゆる性癖の中で最も普遍的 なものの一つであるということを、豊富な実例によって明らかにすることは難し いことではない」(J.S.ミル『自由論』)

 ミルは、この言葉に続けて、キリスト教徒がイスラム教徒の飢えを満たすため に豚肉を食べさせようとする例や、共和政時代のイギリスで清教徒が音楽、舞踏、 スポーツといった娯楽を禁圧した例、自称博愛家たちが躍起となって禁酒法を成 立させた結果として、アメリカがいかに混乱したかの例を紹介している。

 なお、タバコを吸っている人間は「(中毒者であるから)判断能力のある大人 でないため、自己決定権が与えられない」という論点は、大きなあくびと小さな 戦慄とともに棄却される。

 このような方法で対象を弾圧する術は、障害者、異教徒、ハンセン病者などな ど、古来より惨たらしく繰り返されているものだ。最近ではナチスが露呈したよ うに、そういう博愛主義者の仮面からは、獰猛な自己愛がやがて垣間見えること だろう。

 仮に、本当にそう信じているにしても、そう容易に人権を否定する戦術はとっ てはならない。その戦いに勝利したあと、「次は誰を否定するか」という議論が 常に正当化されながら、広がってゆく可能性が高いからだ。

◆共同体主義の時代へ

 では、他者の生活について、結局のところ誰も干渉することが許されていない のだろうか。19世紀に自由主義の旗手として登場したミルは、あまりそうした 議論を展開していない。おそらく、ミルの生きた時代は、産業革命によって肥大 した国家が過剰に個人に干渉し、他国に干渉(植民地)した時代であったわけで、 現代のお手軽な自由の時代とは様相が異なるからだと僕は理解している。ミルは 幸せなことに、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という時代が実現 された結果、いかに自由が空しくなり、文化を退廃と混迷へと導いたことを知る ことはなかった。

 その意味で、20世紀に育まれた「社会的価値の普及」という共同体主義の試 みは、確かに評価されるべきだと僕も理解している。「他人に迷惑をかけなけれ ば何をしてもいい」という態度では、人々に積極的な行動は期待できないし、忘 れ去られた人々は、いつまでも忘れ去られたままとなるだろう。いわゆる共同体 主義の基本理念とされる「公平な社会をめざす」ことと、「社会参加をうながす」 ことは、ときに自由主義と対峙しながらも、逞しく推進されるべきだと僕も考え ている。

 ただし、これこそが「禁煙キャンペーン」に対して述べておきたい点なのだが、 「共同体主義は、常に自由主義の思想と真正面でぶつかり合いながら推進されな ければならない」ということだ。これを避けて通れば、必ず、ミルが例示したよ うな混乱と反駁が待ち構えているに違いない。

 つまり、「禁煙キャンペーン」を推進する人々は、自分たちの行動が狂信的干 渉ではないということを、もっと明らかにする努力をすべきではないだろうか。 「タバコは健康に悪い。よって排斥する」は、たしかに医学的正義あるいは科学 的真実である。ただ、それを社会的価値へと転化して国家権力を巻き込むだけの 根拠足りえるのか、国家の目的と市民運動の方向性のズレに違和感を覚えていな いのか。そういうことを検証せずに、ただ、「動員できるものは何でも動員して タバコ排斥」としてしまった場合、30年、50年の単位でみれば取り返せない 過ちとなりかねないような気が僕はしている。

◆科学は社会変革の根拠となるのか

 最後に、科学的真理を「禁煙キャンペーン」が立脚点としている点について、 異論を述べて、この小論を終えようと思う。

 「タバコの健康への害は科学的に証明されている」ということがキャンペーン の主軸となっているが、共同体主義とは、人々の生活や文化に根ざしたものであ る以上、科学を武器としたとしても、決して立脚点としてはならない。むしろ、 そこにこそ、個人の喫煙行動を制限しようとする「科学的に」狂信的な心理を僕 は嗅ぎとってしまう。

 科学が教えるのは謙虚さであるはずなのに、禁煙キャンペーンは「科学的」と いう言葉を尊び、権威と見なすようになっていないだろうか。そして、それをもっ て人間の行動を統御しようとしている。共同体が「社会的価値=科学的真理」と して権威を与えた結果、いかに悲惨な将来がやってくるか、多くの文学者がすで に警告していることでもあるが、僕もまたそうしたキャンペーンの姿勢に強い不 安を覚えてしまうのだ。

 繰り返しになるが、禁煙キャンペーンが個人の愚行にまで介入しようとするな らば、その論陣を科学ではなく人権を基礎とし、自由主義と対決してほしいと僕 は考えている。科学というのは、振りかざす人が信じているほど不動のものでも、 説得力があるものでもないものだ。僕たちの社会正義とは、科学ではなく、現代 社会の基礎である自由民権思想であり、人類社会と共に歩んできた智恵の結晶と しての哲学であるべきだ。そうした論争の決着として、どのレベルにまで喫煙を 個人の喫煙行動を制限してゆけるのか・・・ そう考えると21世紀の共同体主 義の能力をうらなうような論戦が期待できるのではないかと、僕は非常に楽しみ な気分になってしまう。さあ、論争をはじめよう。

【高山義浩】


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