■ 新潟中越地震における医療支援活動(後編) 佐久総合病院による支援活動

2006年4月30日


◆佐久総合病院の活動:魚沼病院の後方支援

 佐久総合病院(以下、佐久病院)は、魚沼病院内の外来業務や救急外来業務 を担当して、被災地の方々の診療にあたる活動をした。とくに第1次医療支援 チームは、3台の発電機と多数の小型投光機を持参したため、日暮れた後の救 急外来を維持しながら活動を継続することができた。

 また、魚沼病院の病棟機能を麻痺させないため、第1次医療支援チームには 栄養科スタッフが参加していた。そして、入院患者180人の2食分の食事と缶詰、 飲料水、そしてプロパンガスとコンロも持参したため、調理も可能となり、こ うした初期対応が奏功し、入院患者の転送を回避させることにつながった。

 魚沼病院のスタッフらは、応急救護に追われながらも、一方では自身が被災 者であり、相当に疲れきっておられた。こうした点からも、佐久病院が魚沼病 院への後方支援を続けたことは、確かな貢献となっていた。

 ただし、地震発生から約2週間が経過した11月5日には、すべての地元医療 機関は復旧しており、魚沼病院の機能もほぼ復旧したと言える状態になってい た。医療機能の空白を埋めるという目的は、不足なく達成することができたと 評価される。しかし、魚沼病院への支援が4週間と長期化したことにより、現 地の医療バランスを崩してしまった可能性は否めないと考えられた。

 たとえば、魚沼病院の夜間救急外来の受診者数が、震災前に2,3件であっ たものが、11月中旬以降でも10件前後に増えている。また、これまでほとんど 他院にまわっていたような重症例も散見されるようになってきている。これは 震災の後遺症というよりはむしろ、佐久病院から派遣された医師が、電話での 問い合わせに対して熱心に受け入れる姿勢を示し続けたためと考えられた。

 11月25日、内科の救急外来の件数が増えてしまった状態のまま、佐久病院は 支援を終了させたわけだが、このことが今後の魚沼病院にどのような影響を及 ぼすのか、注意深く見守ってゆく責任が、佐久病院には新たに発生してしまっ たと考えられる。

 このような事態を招来した原因として、次の2点が検討される。

 まず、佐久病院が支援を開始する段階で、支援終了の目安を設定していなかっ たこと。たとえば、今回、日赤は24日に現地入りして被害状況を視察した結果、 「支援は2週間」と当初から設定していたという(結果としてさらに2週間延 期されたが)。あるいは、大手医療NGOのAMDAが神戸の震災に対して支 援を決定したときは、「5割の医療機関が復旧するまで」と設定していたとい う。このような引き際の検討が、今回の佐久病院では十分にされていなかった 印象がある。

 次いで、佐久病院の医療支援チームが地域の復興状況について、掌握する余 裕がなかったこと。活動がほとんど魚沼病院内に埋もれてしまっていたため、 全体像が捉えられておらず、引き際を検討するだけの情報をそもそも医療支援 チームは持っていなかった可能性がある。もちろん、自身での情報収集までは 体力的に困難であった以上、自治体や医師会などとより連携をとりながら、地 域医療の復旧状況を逐次確認し、また他の支援団体の動向にも目を配っておき たかった。

 どのような援助も、長期化すると現地のシステムに組み込まれ、依存関係を 生み出す恐れがある。引き際の問題が、今回の佐久病院の支援活動の功績を否 定するほどではないと信じたいが、よりよい支援活動を実践してゆくため、今 後の課題として佐久病院の緊急支援体制に残されたものと考えられる。

◆佐久総合病院の活動:避難所の巡回診療

 佐久病院が地元保健師たちと連携して実施した巡回診療は、避難所の人々の 健康を守るということのみならず、医師が1日1回、定期的に訪れることの安 心を人々に提供することができていた。避難所が閉鎖されるまで続けられたこ の活動には、被災者の方々、自治体、地元医師会から多くの感謝の言葉を寄せ ていただいた。

 被災者の方々は、明らかな症状を認めていなくとも、「血圧が高いのではな いか」、「血糖が不安定なのではないか」、「不整脈が出ているのではないか」 といった、漠然とした健康不安を抱えながら家の片付けなどに追われているこ とが多い。こうした方々の「体調を見守ってさしあげる」ことは、震災後の様々 な不安にさらされている方々に「ひとつの安心」を提供する活動となっていた。

 ただし、巡回診療で血圧を測定され、「ちょっと高いですね」とだけ言われ て、そのまま何もしてもらえなかった高齢者が少なくなかったようである。こ れは、結局、患者の不安を増させるだけになっており、巡回診療ではかかりつ け医への誘導まで責任を果たすべきだろう。

 そのため、佐久病院の巡回診療では、血圧測定は希望者のみとし、基本的に は健康不安への傾聴とアドバイスを行なってきた。また、かかりつけの診療所 や病院の再開を告げることも巡回診療の重要な役割と考え、地元保健師との連 携しながら医療の復興状況について広報を行なった。地域の保健医療資源を把 握し、今後の地域医療の担い手となるのは、やはり地元の医療機関である。巡 回診療の最終的なゴールは、患者さん一人一人を安心した気持ちのまま、かか りつけ医へと誘導することと考えられた。

◆避難所の閉鎖と災害弱者

 復興の足取りは弱者の歩幅というよりは、むしろ強者の論理でことが進めら れがちである。また、問題にフタをすることで、災害の現実から逃避しようと するメンタリティが働くことも多い。実際、平時の介護現場ですら、家族が 「うちは大丈夫」と言っていながら、奥の部屋で高齢者が厳しい状態に置かれ ていることが珍しくはない。小千谷市において、避難所の閉鎖は思いのほか早 く進められた印象があり、直後の厳冬を災害弱者が乗り越えられるだけに復興 してきているのか、被災地域を歩きながら不安を感じることは確かにあった。

 しかし、市内で開業(片貝医院)されている根本先生らが、「あえて外来の 医療支援チームで問題を探るよりは、保健師たちによる戸別訪問の結果を待つ べき」と言われていたのが印象的であった。いまだ後遺症に苦しむ災害弱者の 声がないとは言い切れないが、しかし、それは地域医療のなかで拾われてゆく よう期待したい。少なくとも、地域医療の担い手となりえない医療支援チーム の手に委ねられるものではないだろう。

 また、地元の方々が口々に「小千谷は農村がほとんどで、昔から地域の結び つきが強いところなのです。ですから、神戸にみたような孤独死などがあるは ずはない」と言われていることも、復興における団結の強さを重ねてみると説 得力のあるものとも感じられた。

 佐久病院としては、あえて医療支援チームを長期に派遣しつづけて「監視」 するのではなく、地元との連絡を保ちながら、必要とされたときに速やかに支 援できる体制で春を待つ姿勢が求められていると考えられた。

◆佐久地域への還元

 医療支援チームの主たる目的は、魚沼病院の後方支援を通じて、被災地の医 療の空白を埋めることであった。しかし、それに附随して、こうした活動経験 を通じて、さらに効果的な医療支援が展開できるよう、佐久病院が医療支援の ノウハウを蓄積することも期待された。今回の活動では、研修医(ただし2年 目以上)が数多く参加しており、総合医療研修の一環として災害時緊急支援を 学ばせていただくことができた。

 また、とくに今回の被災地域は、山間部農村地域という佐久とよく似た地政 学的特徴があることは要点である。すなわち、小千谷市において被害状況と復 興過程を確認しながら佐久病院が医療支援を継続した経験は、今後、もし佐久 地域が何らかの災害に見舞われた場合に活かされることになるだろう。

 ただし、こうした体験は医療支援チームに参加した者のみならず、広く佐久 病院内でシェアされてゆく必要がある。そのためにも、活動の記録を残し、そ れを検討することで病院全体の知識・技術向上を目指さなければならない。ま た、災害マニュアルの再検討も不可欠であるはずだ。しかし、今回の医療支援 チームの活動記録はその規模からすると尠少の感はぬぐえない。このままでは、 情熱的な活動の残り香のみが、佐久病院に記憶されるに留まるかもしれない不 安がある。

 佐久病院が、今後とも効果的な医療支援を追及してゆくこと。あるいは、佐 久病院が被災しながらも速やかに医療体制を復旧させ、地域の行政や周辺医療 機関、医療援助団体と連携しながら地域の医療復興ネットワークを形成してゆ くこと。こうした災害拠点病院としての基礎体力をつけるという側面も、今回 の活動を契機に重視してゆきたい。

◆所感:医療支援チームに参加して

「災害時は最初の3日間をしのぐことが大切なのだと、本当に思い知らされま した。まず食うこと、そして排泄の問題です。寒さは個々の工夫で何とかでき ますが、食事と排泄には団結が不可欠でした」

「町内の連絡体制を日頃から整えておくこと。そして、個人の都合をある程度 犠牲にする雰囲気があること。こういう町内会組織があるかどうかが、災害時 の混乱を避けるうえで大切なことだと、本当に感じました」

 これはどちらも小千谷市内の町内会長さんとの面談で発せられた言葉である。 被災地で多くの方々の話をうかがってみて、根底で共通しているのが「団結」 という言葉であると実感した。そして、リーダーとして「公平」を大切にする 姿勢が「団結」を支えていると・・・。

 福岡市街地で生まれ育った私は、これまで地域で暮らしているという実感な しに生活してきたような気がする。地域の連帯というのは、非常時にいきなり 形成されるはずもない。改めて「日々をどう地域で暮らすのか」ということを 問い直す必要があるのだと感じた。

 医療支援チームに参加させていただいて、「緊急時を生き抜くうえで最も大 切なのは、資金力でもなく、技術力でもなく、まず人々の団結なのだ」と教え られた。そして、佐久病院の活動もまた、この団結の一部であったと捉えてお きたい。災害医療の専門性や特殊な被災地救護技術も魅力的だが、しかし、地 域を越えた団結の精神こそが、まず何よりも求められていたのだろう。そして、 ここから災害時の訓練や研修が積まれてゆけばよいのだと思う。

 佐久病院が、新潟中越地震の医療支援活動で一定の役割を果たし得たことに 誇りを覚えるとともに、新しい時代にふさわしい役割とそれを果たす方法を、 私自身、これからも模索してゆきたいと考えている。

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 最後に、被災地で忙しいなか時間を割いてお話を聞かせてくださった方々。 快適な寝食を提供して、私たちの活動を支えてくださいました魚沼病院のスタッ フの皆様。医療支援チームに参加することをこころよく認め、そして不在の間 に院内で支えてくださいました総合診療科医師と病棟スタッフの皆様。また、 現地入りする前に貴重な示唆を与えてくださいました塩山診療所(山梨県)の 古屋聡先生。その他、私の知らないところで支えてくださった方も数多くおら れることと思います。こうしたすべての方々に深く御礼申し上げ、この活動報 告を終えさせていただきます。ありがとうございました。

【高山義浩】

※ この小論は『医療活動の記録』(小千谷市魚沼市川口町医師会編)に掲載されたものを一部改変したものです。


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