■ 戦時下の医学部長

2004年12月30日


 戦火と混乱にさらされたイラクの首都バグダッド。そこにあるバグダッド大 学医学部は、恐怖政治と経済封鎖、そして占領と内戦のなか、決して立ち止ま ることなく医学教育を推進させてきた。

 イラクに経済制裁が課せられる前、つまり1991年までは、イラク医療の水準 は先進国並であったと言われている。とりわけバグダッド大学の医師たちの知 識、技術レベルは中東最高レベルであり、多くの留学生が集う、医学教育のセ ンターとして輝いていた。

 しかし、1992年の湾岸戦争とそれに続く経済封鎖により、イラクの医療イン フラは崩壊の一途をたどり続けることになる。今回は、そんな時代にバグダッ ド大学の医学部長として医学教育を支え続けた医師、ムハンマド・アラウィ先 生の思い出を書き記してみたい。

◆何よりも患者のそばに

 僕がアラウィ先生に初めて会ったのは、1997年の夏のことだった。チグリス 河は驚くほど豊かに水を湛(たた)えていたが、日差しは焼けつくようで、気 温は40℃を超えていた。

 汗を拭いながら学部長室に入ってきた僕に、アラウィ先生はまず一杯の冷た い水を勧め、それを飲み干すのを見守ってから握手をしてくれた。そして、椅 子に座るように合図したのだった。その一連のもてなしは、イラクの気候に慣 れない者への心遣いに満ちていて、本当に暖かな気持ちにさせられた。

 当時、医学生だった僕は『日本イラク医学生会議』の団長として、バグダッ ド大学を表敬訪問していた。イラクは経済封鎖により孤立し、医師も医学生も 外との交流を断たれていた。そこに小さな風穴だけでも開けられれば、そして、 制裁ではなく、交流によって、イラクの平和に貢献できれば、そんな思いを僕 は持っていた。

 アラウィ先生は、がっしりした体躯で、首は僕の太腿ぐらいあった。視線は 鋭く、豊かな厳(いか)つい髭。しかし、その下には柔和な口元があり、ゆっ くりと丁寧な英語で僕に歓迎の言葉をかけてくれた。

「我々が忘れられた存在ではない、ということが何より大切なんだ。君の訪問 を心から歓迎する。何があろうとバグダッド大学医学部はここにあるんだ。会 社は倒産できたとしても、我々には、ここに患者がいる限り、人々の生活があ る限り、優秀な医師たちを育成する義務があるんだ」

 その言葉には、強い決意のようなものが込められていたと思う。しかし、バ グダッド大学医学部の実情がボロボロであることは、その前に病棟を案内され ていたので、僕には判っていた。

 施設は老朽化し、CTはもちろん,保育器,冷蔵庫に至るまでほとんどの医 療機器は壊れていた。さらに、空調もすべて停止していて、室温は50℃近かっ た。消毒液は化学兵器への転用があるとのことで輸入禁止となっており、腐っ てゆく患者の体と糞便の臭いが熱気となって病室に漂っていた。それは、大学 病院の姿ではない。いわば「患者の収容所」と呼ぶべき状況であった。さらに、 医師は不定期に入ってくる医薬品を散発的に処方するしかなく、系統だった医 療は不可能な状態となっていた。

 アラウィ先生に、そのことを遠慮がちに問いかけると、彼は毅然とした顔で こう答えた。

「確かに、設備はボロボロだよ。まさに弱者への無差別攻撃に我々はさらされ ている。しかし、患者にとって本当に必要なのは、最新の設備ではない。もし、 設備を信奉するなら、良い医療は先進国でしか、都会でしか実現しないことに なるだろう。必要なことは、医療者が、どんな場所や時間であっても患者のそ ばにいるということなんだ」

 この言葉は、世界の医療者にとって救いの言葉であると思えた。そう、「患 者のそばにいる」、これが医療の原点なのだ。アラウィ先生は、淡々と、しか し熱い言葉を発しつづけた。

「我々は、何があろうと逃げ出しはしないさ。バグダッド大学医学部は、72 人の教授、75人の助教授、60人の講師陣を常に維持している。彼らは医学 研究と教育への熱い気持ちを見失ってはいない。今後も、中東随一の医師を養 成してゆくつもりだ」
「医学教育も挫折してはいないのですね」と僕は聞いた。
「厳しいものはあるよ。これが正直な気持ちだ。白衣を買うことすらできない 学生もいる有様だ。エコーも、レントゲンも壊れている。ところが皮肉なこと に、患者の数は増加の一途で、学生の臨床機会は逆に充実してきている。さら に医療機器が使えないために、基礎的な手技が磨かれ、勘のいい優秀な医師が 育ってきている。悪いことばかりじゃないってことさ」

 こう言って先生は大笑いした。逞しい方だ。透き通った目は、楽観的に未来 を見据えていた。こういう人物こそが、混乱期のリーダーとして求められてい るのだろう。

 最後に、アラウィ先生は、真面目な顔で僕にこう話してくれた。

「この厳しい時代に、日本の医学生が我が校を訪れてくれた意義は大きい。我々 イラク人は日本人を本当に尊敬しているのだよ。日本人は戦後の荒廃から立ち 上がり、今の繁栄を築きあげた。武力で奪ったのではない。平和の力で成し遂 げたのだ。その日本精神に、我々は学ばなければならないときが来るだろう。 今のイラクは混乱に満ちている。しかし、イラクに平和が訪れるとき、それは 日本人との交流のなかにこそ、その機会があると信じている」

 訪問団長として、涙が出るほど嬉しかったのを覚えている。バグダッドまで の厳しい道程がすべて癒される思いだった。それと同時に日本人としての責務 を強く思い知らされもした。以来、僕は3年にわたり、バグダッド大学医学部 を訪問し、そして小さな交流の足がかりを築いてきた。これは、アラウィ先生 の信念と激励に支えられた活動だった。

◆アラウィ先生の暗殺

 2003年7月27日のことだった。その朝もアラウィ先生は、いつものように多 忙な一日を迎えていた。すでに外来患者たちは、彼の診察室の前に列をなし、 アラウィ先生は診療に追われていたという。

 そんななか激しい腹痛を訴える患者がやってきた。その男は、脇腹が痛いと 騒ぎたて、他の患者を押しのけて診察室に乱入した。アラウィ先生は落ち着か せようとその肩を抱き寄せた。間髪を入れず男の懐から銃が抜かれ、その次の 瞬間には、アラウィ先生の右眼から後頭部へと一発の銃弾が走り抜けていた。

 居合わせた妻のブシュラさんが抱き寄せたときには、頭部からサラサラと血 液が床に流れ落ち、そして息絶えていたという。享年52。イラク新時代に欠 かせぬ逸材の、志なかばの最期であった。

 しかし、アラウィ先生の「患者のそばに」という精神は、いまもイラクの医 師たちに受け継がれている。イラク戦争時に、アメリカはイラクを骨抜きにす るため有識者の国外脱出を奨励したが、ほとんどの医療者は病院を守り続けた。 そして、いまもテロと内戦にさらされ、危険に満ちた状態だが、バグダッド大 学医学部は逞しくその役割を果たし続けている。

【高山義浩】


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