■ テレビ報道はリアルか?

2004年5月31日


「世界は――真実を見えなくするために、おまえの目の前に広げられている」

映画『マトリックス』におけるモーフィアスの言葉


◆仮想現実としての世界

 2001年9月11日から、世界は確かに歪み始めたのかもしれない。

 20世紀最後の10年は、多くの衝突をみながらも、世界平和への兆しは確か に感じられていた。しかし、その日(911)を境にして平和が遠のいたという より、むしろ、平和だったと感じていたことが、実は偽りであったことが断片的 に示されはじめた。そして、今では多くの人々が理解しはじめている。すなわち、 90年代に体験したかのような世界平和への実感は、単にリアリティに満ちた ショーに過ぎなかった、と。

 このリアリティ・ショーへの警鐘は、ウォシャウスキー兄弟のヒット作『マト リックス』(1999年)において、すでに鳴らされていたのかもしれない。人類が観 ているものは、すべて巨大なシステムによって調整されている仮想現実であって、 主人公アンダーソン/ネオ(キアヌ・リーブス)が「世界の真実」に目覚めると、 それは荒廃した文明と搾取される身体という現実だった。実は、人間はマトリッ クスの設計者たちによって構築された仮想現実プログラムによって、この空間を 知覚しているに過ぎなかったのだ。

 人間たちは幻想としての実存的経験を演出されているに過ぎない。『マトリッ クス』の目論見が、その観客に不気味な余韻を残したのは、実は観客自身が、す でに感じはじめていた「世界の真実」そのものへの予感を一歩先へと促したから だろう。

 僕たちは、世界中の出来事を即座に知ることができる。イラクの路上に一発の 迫撃弾が着弾すれば、僕たちは数時間以内にテレビを通じて現場の映像を目撃す ることができる。被害者の顔、家族の声、評論家による解釈。これらが一気に僕 たちの「脳」へと流入してくる。しかし、本当は僕たちは現場にいるわけでも、 痛みを共有すべき立場にいるわけでもない(本音ではそうなんだ)。ただ、仮想 現実が無意識に流れ込んできているだけ。つまり、僕たちはアパートの一室を子 宮(マトリックスの語源)として、誕生する見込みもないまま、搾取されつつ育 まれているのではないかと...

◆怪物メディアが制覇する時代

 9月11日を境にして、テレビは異様なまでに巨大化し、いやむしろ怪物的に まで成長していった。宇宙空間からその電波は世界同時に配信されている。同じ 映像を繰り返し繰り返し見せつけられることで、人類は同じ情報と情動の枠のな かに吸い込まれていった。

 テレビは最新の情報こそが真実であると僕たちに信じ込ませ、そして、テロや 戦争報道において、リアルタイムでレポートを視聴者に提供し続けた。これによっ て、新聞や週刊誌などの活字メディアは圧倒され、テレビを観るための補助的な メディアとなってしまった。僕たちは前線に住んでいるわけではないのだから、 本当はイラク情勢について、今夜でなく明日の朝刊で知ったとしても、何の不都 合もないはずだ。でも、僕たちはニュース専門チャンネルに釘付けになっていっ たのだ(あのジャック・デリダですら、9月11日はテレビを消すことができな かったと告白している)。

 急速に社会に浸透していたインターネットが、代替的なメディアとして機能す るかに思われた。しかし、事変直後のニュースサイトは殺到した人々によってす ぐにパンクしてしまうことが明らかとなった。たとえば、9月11日の攻撃後2 4時間、各検索サイトですら膨大なアクセスによって機能を失い、情報を求める 人々に対してテレビに誘導するメッセージが掲載されるまでになっていた。観た いと欲する人々を何人でも、かつ即座に受け入れることができるテレビが、結局、 メディアとして完全に勝利を収めている。

 それでも活字のもつ教養に気をとられる人がいるため、9月11日以降、CN NやBBCの画面には映像とともに活字も盛り込まれるようになってきている。 たとえば、「攻撃されたアメリカ」であるとか、「文明に対する戦争」「イラク の解放」といったバナーが常に映像に添えられるようになり、その映像とは関係 のない文字ニュースが画面の下で流れたりしている。こうして、もう多くの人々 が、テレビをつけ放しにしていれば、それで十分だと感じるようになっている。 テレビをつけておりさえすれば、自分は社会的で、国際的で、教養のある人格と して存在できるのだと...

◆テレビの嗜好性を決定するもの

 そして、アメリカ政府はベトナム戦争の教訓を生かして、この怪物と蜜月にな ることを選んでいる。戦況は刻一刻と人類全体に配給されたが、しかし、全体と して生まれた視覚の不均衡は明らかだった。配信される映像はアメリカ軍の提供 ばかりで、イラク側で何が起こっているのか、劣化ウラン弾をはじめとした、ア メリカの攻撃が人々の生活に何をもたらしたかについては、僕たちはほどんど知 ることができないままに経過してしまっている。

 こうしたアメリカ政府の、あるいはネオコンと呼ばれる新保守主義者たちの統 制を過大評価して、「テレビメディアは世界世論を支配する手先である」との陰 謀論が活字メディアから指摘されるようになっている。たしかに、注意深くテレ ビを観ていると、そうした製作者の「配慮」のようなものが見え隠れしている (気がする)。しかし、それでもテレビの支配者などはいないだろう。僕たちが いるだけである。日本のNHKやイギリスのBBC、フランスのORTFのよう な国家とつながりを持つ放送局は別として、視聴者を獲得し、広告主や出資者に 提供するという経済構造から商業放送が免れられるものではない。

 実際、アメリカ政府のメディア統制もこの構造の枠組みで行われている。ディー バー方式(レーガン大統領次席補佐官の名前に由来)と呼ばれる「パッケージさ れた情報」と「洪水のような情報」という政府からメディアへの情報提供方式は、 視聴者を釘付けにする魅力的で潤沢な映像を、そのまま使えるような構成で常に 配給するというものだ。これによって、各放送局は自前の取材をしなくなり、結 果としてアメリカ政府に都合のよい映像だけが視聴者に届けられることになる。 しかし、逆を言えば、視聴者がそれに満足していることを意味している。もし、 視聴者が不満を言えば、放送局は独自の映像を探して砂漠へ出て行っただろう。 やはり、報道姿勢を決定する最大のファクターは視聴者たちの欲求だったのだ。

 なぜ、テレビは多様性の方角へ向かわないのだろうか。多チャンネル時代を迎 ながら、どのチャンネルも同じ映像、同じコメントを繰り返し流しているのだろ うか。それについて、僕は2つの理由があると感じている。

 まず、視聴者が単純に刺激を求めているということだ。『マトリックス』が、 あの哲学的問答というよりは、むしろ、薬莢を撒き散らしながらの壮絶な戦闘シー ンを売りにして人気を集めたように、(現場にいないものにとって)戦争とは最 大の娯楽である。戦争報道は僕たちのスペクタクル映画であり、下手なバラエティ より視聴率が確実に取れる娯楽番組である。そして、当然、スペクタクルには、 異なる解釈や立場の違いなどは求められてはいないのだ。多くの視聴者が求めた のは、それが連続したドラマであることだけだった。『イラク戦争』は、モニカ・ ルインスキーよりも刺激的で、O・J・シンプソンよりも暴力的な情報娯楽番組 にすぎなかったのかもしれない。

 しかし逆に、こうした暴力的な映像に魅入られながらも、僕たちは傷ついてい るという面もある。大災害や戦争による死体をみることにより、僕たちは衝撃を 受け、それと同時に嫌悪感、罪悪感が襲ってくる。もちろん、そこから反戦運動 やボランティア活動へと立ち上がる人など稀であり、ほとんどの人が呆然とテレ ビを見つめ続けるだけである。そんな僕たちを癒す方法はただひとつ。そうした 災難を「遠くの日常」として心のなかに位置づけてやることだ。だから、僕たち は日々、遠くのテロや戦争を繰り返し観ているのかもしれない。あれは彼方の日 常なのだと、変えられはしないのだと、こう理解しておくことが僕たちの癒しの 過程となっている。

◆共犯関係にあるテレビ報道と視聴者

 単にテレビによって僕たちの認知は支配されているのではない。僕たちの認知 したいようにテレビが誘導し、強化してもいるわけだ。そして、その嗜好性は癒 されたいという感情も含めた「快/不快」を基準としている。たとえば、最近の イラク邦人人質事件でも、テレビ報道は明らかに視聴者に低姿勢だった。

 当初の報道はこうだった。まず、スタジオに招かれた家族らが口々に「三人の 救出を第一に考えてほしい」と語り、これに共感的な『街の声』を数件流したあ と、多くのキャスターが「自衛隊を撤退させるべきといういう声が多かったです ね」とコメントして締めくくった。ところが、後日、各社の世論調査で「撤退す べきではない」という意見が多いことが判明すると、報道姿勢は(とくにワイド ショーではあからさまに)大転回を示してしまう。「自衛隊は撤退すべきだ」 「小泉首相に会わせろ」と喰ってかかる理性的とはいえない家族の映像とともに、 今度は「カクゴの入国だったんじゃないですか」との『街の声』を紹介。キャス ターたちは「危険といわれているところにあえて行くのは、自分自身の責任の部 分も少なからずあることは事実ですよ」と自己責任論をたきつけ始めたのだった。

 この間、起きた事件そのものについて、新しい情報が入手されたわけではなかっ たはずだ。にも関わらず、なぜ報道姿勢が変わってしまったのか。それは、結局、 テレビ報道の基準が、視聴者の耳障りのよさに忠実だったからだろう。これは、 批判精神を持たずにテレビ報道に接している僕たちの責任でもある。つまり、快 楽に走り、本来のメディアを失われてしまった現状について、テレビ報道と視聴 者とは共犯関係にあると言えるかもしれない。

 あるいは、こんなふうに表現することもできるだろう。すなわち、僕たちの欲 求はテレビによってダブルバインドされ、快楽のハウリングを経験している、と。

◆「真実」とは創造するものである

 繰り返すが、メディアが低俗化し、快楽に走るようになったのは、僕たち視聴 者がそれを望んでいるからだ。現状で「国民の知る権利」などを唱えるのは実に 空しい。いったい、僕たちは、僕たちが育ててしまった怪物メディアをどう調教 しなおしたらよいのだろう。

 ひとつの意見として、「テレビから自立してしまおう」というものがある。テ レビを押入れに突っ込んで、街に出ようというわけだ。この考えの延長には、真 実を知りたければ現場に行くしかない、当事者に会うしかない、というものがあ る。そして、イラクに潜入して帰国報告会を開催する活動家を、目的や成果はと もあれ、とにかく賛美するような一部の風潮へと連なっているかもしれない。

 メディアとの決別。これは潔い意見ではあるが、しかし、僕は退化でもあると 思う。こうして偏ってしまった認知媒体を消去することで中立性を保とうとする ならば、僕たちは、自分たちの知覚をどんどん切り落としてゆかざるをえないス パイラルに陥ることになるだろう。つねに僕たちは前進しなければならない。忘 れてならないことは、僕たちは文明の中でしか存続できないという現実だ。

 少し寄り道になるが、こういう考え方はどうだろう。再び『マトリックス』を 題材にして深読みしてみたい。

 『マトリックス』が描いた人類の状況は、解剖学的には至極まっとうなもので もあった。なぜなら、僕たちの「脳」は頭蓋骨という水槽に浮かんでおり、脳幹 が大脳にプラグすることによって情報を流入させているからだ。しかも、脳幹か ら大脳へと送られる感覚情報はデジタルデータ(神経シナプスはデジタルである) なのである。僕たちは、生き生きと世界を知覚しているつもりだが、はたしてそ うだろうか。僕たちの世界に対する接触は常に間接的で、かつ断片的である。し かし、実はこれが僕たち生命の強みでもある。直接的かつ総合的に認識すること ができたとすれば、僕たちは創造性を培うことはできなかっただろうから。

 つまり、こういうことが言える。僕たちが「真実」と信じているものは、断片 的なデータから自身によって創造されたイメージなのだ。外界に起きている「本 当のこと」にアクセスしうる構造を僕たちは持ってはいない。そういう意味では、 現場に行くこと、関係者に直接会うことによる情報と、テレビや新聞によって得 られる情報との間には、とくに「脳」の観点からは質的な差異はない。大事なこ とは、そうして得られた断片的な情報から、各々がいかに「真実」を創造してゆ くのか、ということだ。

◆テレビとの縁の高め方

 最後に、テレビと人間の縁の高め方について、僕なりに考えていることを、こ れまた断片的ではあるが、6つ箇条書きにしてこの小論を終えようと思う。その 1つでも、読者の皆さんの琴線に触れるものがあれば幸甚である。

その1

 テレビ番組の製作過程について、ある程度の知識を持つこと。たとえば、自動 車を上手に乗りこなす人がその構造をよく知っているように、あるいはグルメな 人が素材や調理法に精通しているように、テレビを上手に活用するため、その演 出や編集のされ方について知っておくことは、おそらく大きな足がかりになると 思う。具体的には、製作現場にいた人の本を読むことがいいかもしれない。テレ ビの試験放送時代から仕事をしており、いまはテレビ嫌いで有名な永六輔のエッ セイなどは、オススメである。

 もちろん、可能ならスタジオ見学など、一度はしてみる価値があるだろう。A Dの合図で拍手を一斉にするという観客体験だけで、もう拍手に騙されることは なくなるはずだ。さらに、もし学生で都市圏に住んでいるなら、ぜひテレビ局で のアルバイトに応募してはどうだろうか。手前味噌だが、僕は学生時代の2年間、 NHKでアルバイトをしていた経験がある。毎週渋谷に通いながら企画書を書き 続けた。そして、自分の企画が通ると出演交渉から当日の設営まで、とにかく番 組が完成するまで関わることができた。こうした経験は学生ならではだったし、 今の僕にとっても大きな財産として残っている。

その2

 決まって観るニュース番組を作らないこと。テレビのニュース番組は時間帯が 重なりがちで、どうしても慣れ親しんだ番組にチャンネルを合わせてしまうかも しれない。しかし、その段階で比較検討するチャンスを失ってしまっている。日 替わりでいろいろなニュース番組を見比べて、それぞれの報道姿勢の癖を見抜い ておけば振り回される可能性は少なくなるだろう。

 一応、僕の解釈を紹介しておくと、日本テレビの『今日の出来事』はキャスター が控え目で、淡々と事実を伝えるので面白味はないが、騙されにくい良い番組だ と思っている。それと好対照がテレビ朝日の『報道ステーション』だろう。まだ、 久米宏の余韻のなかで古舘一郎が悪戦苦闘している段階で、彼自身の姿勢はみえ てこないが、ショーとして好き放題言い放っているのは観ていて楽しい。あれだ けバラエティ化していれば、騙される人も少ないだろう。最初の情報ソースとし ては不適だが、知っていることについて古舘一郎のコメントで楽しむのは悪くな いと思う。フジテレビの『ニュースJAPAN』はクセモノ番組だ。あまり茶化した 編集をしないので、民放ニュースではリアリティが一番あると思う。しかし、よ く観ているとキャスターの松本方哉の独壇場で対立意見が紹介されることが少な い。専門家も街の声も、一方的に編集されていることが多く、これは注意して観 るべき番組だ。TBSの『News 23』は、筑紫哲也の色がはっきり出ているので、 それを知っていれば安心して観ていられる。対立意見も必ず紹介して中立性を演 出しているが、しかし、いつも筑紫哲也が最後に勝つようにできているので、あ まり意味がない。いつもシャドウ・ボクシングをしているような論陣だが、報道 によって世の中を変えようという気持ちが伝わってくる。これもやはり、ある程 度、自分の意見をもってから観ないと振り回される番組かもしれない。

その3

 テレビ以外のメディアとの接点をできるだけ多く持っておくこと。テレビは極 めて有用な情報源だが、現在のところ垂れ流しで検証不能な性質であるため、こ れだけに依存していると本当に支配されてしまう。テレビで観て疑念を感じたな ら、そのままにしておかず、新聞やインターネットで再確認する癖のようなもの をつけておきたい。

その4

 遊び上手になって、テレビに遊んでもらう関係から自立すること。医師という 仕事柄、僕は多くの人々の生活歴(患者さんの日常生活の嗜好性)について知る 機会が多い。そうした経験から言って、テレビのバラエティ番組が好きだという 人、あるいはタレントの名前がどんどん出てくる人をみていると、大体において 「遊び下手だなぁ」という印象の方が多い。高齢者であれば、身体的な限界もあっ たりと仕方のない側面もあるのだが、「バラエティ番組が好きで夜はテレビを観 ています」という若者は、まず間違いなく趣味のない人である。僕は決して遊び 上手というわけではないけれど、幸い多くの友人に恵まれていて、よく酒を飲ん だり、ゲームを楽しんだりする機会がある。つまりは、自分でバラエティに富ん だ遊びをすればよい。なぜ、人が遊んでいるのを観て楽しんでいるのだろう。い くら、仮想現実に満ちた世界だからと言っても、遊びにまで仮想現実に没頭して しまうことはないはずだ。そういう人は、まず自身が遊び上手になってほしい。 そして、テレビとの関係にもっと緊張感をもたせるべきだと思う。

その5

 これは視聴者側の姿勢というより製作者側への要求であるが、何らかの問題に ついて専門家にコメントさせるとき、キャスターはその専門家がどのような立場 であるのかを明確にしてから語らせるべきだ。CNNやBBCなどの大手ニュー ス専門チャンネルは、確かに偏向報道のきらいはあるものの、たとえば「○○さ んは今回の戦争について当初から批判的でしたが、今回の事件を受けていかがで すか?」というように、専門家の立場を明らかにすることは忘れていない。テレ ビ報道には時間の制約があり、1人か2人の意見しか引き出せないことは仕方の ないことだ。しかし、だからこそ、専門家のコメントにある背景について、視聴 者に明示する責任があるだろう。また、立場を明確にさせることで、タレントの 無責任でその場しのぎのコメントを排除することが期待できる。政治や社会問題 についての一貫性のないタレントの発言が、日本の世論を扇情する重要なファク ターとなっていると僕は感じている。彼らの口をふさげとまでは言わないが、せ めて「元テニス選手の○○さんは、イラク問題について門外漢でらっしゃいます が、さすがに今回の事件には感想がおありでしょう」と紹介すれば、視聴者もす こし冷めた目になれるのではないだろうか。

その6

 テレビと他のメディアの最大の違いは、「テレビは再検証できない」というこ とだと思う。テレビは常に垂れ流しで、情報を記憶の箱に入れて代謝/異化して ゆく手がかりがないのである。テレビについて「問い返し」ということが可能と なることを僕は強く望んでいる。そのためのひとつの方法として、テレビ報道が インターネット上でデータベース化されることを僕は期待する。報道映像を公共 財産とし、開かれた大規模なアーカイブとネットワークを構築すれば、誰しもが アクセスし、再度検証することが可能となるのではないだろうか。これは新聞記 事ではすでに始まっていることである。この小論で延々と述べてきたように、い まの戦争に対するテレビ報道は、僕たちの戦争への態度の合わせ鏡である。だか らこそ、未来の僕たちが自らを振り返ることができるように、誰もが簡単にアク セスできる場において可視化させておくべきだと思うのだが、皆さんはどうお考 えだろうか?

【高山義浩】


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