■ 検証・湾岸戦争(3) 希望の世紀のために

2003年3月21日


◆第一次湾岸戦争

 1991年1月17日、早朝。最初の攻撃は、アメリカ軍艦船から発射され たトマホーク53発である。つづいて、F-117ステルス攻撃機がスマート爆弾 1個をバグダッドに投下した。この第1派攻撃で防空網を混乱させ、待機して いた多国籍軍爆撃機がバグダッド、バスラ、クウェートへの空爆を開始した。 攻撃開始当初の1日当たりの出撃回数は2000回、その後、42日間に及ぶ攻撃 の総出撃回数は10万9千回で、投下された爆弾は8万8500トン(第二次世界大戦 を通してアメリカが日本に投下した総量の約半分)に上った。

 軍事施設、発電所、浄水場、ダム、橋など重要目標への爆撃は、いわゆるピ ンポイント爆撃がなされた。ただし、いくらピンポイント爆撃とは言え、多く の場合、周囲の人家は吹き飛ばされたことを忘れてはならない。また、バスラ など重要目標を特定できない地域では、自由落下型の絨毯爆撃が行われた。こ うした攻撃は、アメリカの「軍事目標のみの攻撃だった」という主張に矛盾す るものである。これについて、リチャード・ニール将軍は、91年2月11日、 記者団に「バスラは軍事都市であり、バスラで避難しない非戦闘員はすべて軍 事目標となる」(NEWYORK TIMES 1991・イ・アイ)と説明した。人口80万のイラク第2の都市が、仮に軍事を目的とした都市であることを認めたとしても、す べてが破壊された状況で市民はどのように避難すれば良いというのだろう。

 この42日間の攻撃で、イラクの11ヶ所の大規模発電所すべてと119ヶ 所の変電所が破壊され、予定通りイラク全土は「1つの電子も流れていない」 (アメリカ軍作戦立案者)状態になった。また、イラクの8つの多目的ダムす べてが被害を受け、7つの主要な送水ステーションのうち4つが破壊され、 31ヶ所の浄水場、下水処理場が攻撃された。

 また、アメリカ軍はクウェートとイラクの37ヶ所の製油所と石油貯蔵所を 破壊した。ゲッティ油田もそのひとつで、結果、水鳥が油にまみれるというこ とに象徴される環境破壊が発生した。アメリカ軍は当初、これを「イラク軍に よる破壊」と発表した。そして、世界中の人々がイラクに対する怒りに燃えた が、ほとぼりが冷めた1991年の年末、同盟諸国からの追求もあってペンタ ゴンはアメリカ軍が破壊していたことを認めている。

 バスラでは下水処理システムが完全に崩壊し、不衛生な環境が死者をさらに 増加させた。そして追い討ちをかけるように、主だった建物が、その機能がな んであれ攻撃を加えられた。

 バスラ市内にあるサダム教育病院のジョワン・ピーター医師は、多国籍軍の 攻撃を受けた夜のことを僕に次のように語った。

「悪夢というのは本当にあるのだと思い知らされたよ。私が当直していた夜、 いきなり続けざまに2発のミサイルが病院に打ち込まれた。すべての窓がはじ け飛び、患者の上に降りかかった。あちこちの天井が落ち、病院の外壁の一部 が崩れ落ちて17台の車がぺしゃんこになった。そのうちの1台は私のだった んだがね(苦笑)。そんなことはどうでもいい。問題は、ぺしゃんこになった 大勢の私の患者たちだ。病を癒すのには、医者と患者の気力と時間が必要だろ。 昔からそうさ。だけど、いまどき殺すのは簡単らしいね。目をつぶって、ボタ ンを押しさえすればいいのさ」(ジョワン・ピーター)

 さらに、クルド地区にも十分すぎる爆撃がおこなわれた。とくに化学兵器プ ラントや核施設はクルド地区に多かったといわれるが、多国籍軍は、これらを 完全に破壊したと報告している。これはつまり、クルド地区が他のイラク国土 と同様に破壊されたのみならず、汚染された可能性も多いにあるということだ。

 第一次湾岸戦争後、クルド難民が大量発生した背景には、もちろんサダムの 攻撃を恐れてということもあるが、その背景には、彼らのライフラインが多国 籍軍によって破壊されていたこともあったことを忘れてはならない。

◆敗戦国としてのプライド

 戦争がもたらすものは悲劇のみだが、なかでも最大の悲劇といわれているの はバグダッド市内にある防空壕アメリアシェルターへの爆撃である。91年2 月13日早朝、この防空壕に撃ち込まれた2発のミサイルは、おそらく千人以 上の市民の命を奪った(この数字には様々の説がある。当初のCNN報道100 人、イラク政府400人、湾岸戦争調査委員会1500人、パレスチナ人権情 報センター1500人、湾岸平和チーム1500人、また、欧州議会戦争犯罪 公聴会においてアルジェリア赤十字会長ベラデューン・ムルード博士は「自分 で確認しただけでも子供の死者は415人」と語っている)。

 1997年に僕が現地を訪れたとき、アメリアシェルターは一種のモニュメント として開放されていた。そして、そこにはたくさんの子供の犠牲者たちの写真 が飾られていた。僕たちは、このモニュメントが新たな憎悪を燃え立たせるた めの場所ではなく、広島の原爆ドームのように戦争を憎み、平和を祈念する場 所へと変わって行くことを祈らずにはいられなかった。

 日本はなぜあの戦争に荷担したのだろう。あれだけの空襲にさらされ、原爆 を落とされ、多くの人が殺された経験がある。自分たちにも過ちがあった。そ れは認める。だが僕たちは殺されていった人たちのことまでは認めていないは ずだ。だからこそ僕たちは戦争を忌み、平和を祈っている。何のために「終戦 記念日」、「平和教育」、「原爆ドーム」、そして「平和憲法」はあるのだろ う。

 アメリカの軍備在庫一掃セールに、僕たちは130億ドル(1兆7千6百億 円)を支払った。これは全戦費の30%にあたるから、第1次湾岸戦争のイラ クの死者の3割は僕たちが殺したことになる。

 僕は空襲を知らないが、あの130億ドルを支出することを決めた人たちの 中には、覚えている人も多かったはずだ。なぜ、「50年前、僕たちもあんな ふうに神国だと信じて戦ってたんです。鬼畜米英って玉砕覚悟で疑いもなく竹 槍もたされてたんです。その人たちの頭の上に爆弾落とすからって、お金が出 せるわけないじゃないですか」とせめて言えなかったのだろう。それが敗戦国 としてのプライドであり、敗れゆく国へのメッセージともなったはずだ。

◆経済制裁下の人々

 イラクの場合、戦後の状況は、日本とは極端に異なっていた。ジェノサイド は続けられた。サダム・フセインを生き延びさせてしまったアメリカは、経済 制裁によるイラクの徹底的な封じ込めを国連に断行させたからだ。

 ライフラインが徹底的に破壊されたイラクでは、為政者ではなく弱者、とり わけ子供たちから命が奪われはじめた。下水処理場が破壊されたので、河川が 汚染された。浄水場が破壊されているため、人々はその河川から飲用水をくみ 上げた。発電所が破壊されたため、暖房と料理のため木が伐採され都市の緑地 が失われていった。91年の晩秋、ユニセフは、抜本的な救援策が取られない 限り、91年末までに6歳未満の17万人が栄養失調に苦しみ、このうちの半 分が死亡する、との予測を発表した。そして、この予測は十分上回るかたちで 実現したと言われている。

 僕には、多くの国々の病院で研修もしくは視察してきた経験がある。しかし、 イラクの病院ほど悲惨な光景は目撃したことはなかった。栄養失調の患児たち が小児病棟を埋め尽くしていた。ガリガリに痩せ,腹を膨らませた子どもたち。 映像だけで、この恐怖は伝えられないだろう。電力がないため空調設備が作動 しておらず、40℃以上の室温に患者たちが喘いでいた。そして、消毒薬が輸 入できないため、人間を含めた様々なものが腐敗し、異臭を放っていた。医学 専門誌としての権威である『ランセット』に「バグダッドの乳児死亡率が、湾 岸戦争前は8.04%だったのに対し、1995年には16.07%に倍増しており、5歳未 満児死亡率も4.06%から19.82%に激増している」との報告(Zaidi S. Fawzi MC.:Health of Baghdad's Children "letter", Lancet, 346(8988); 1485, Dec.2.1995)があったが、これを数字ではなく個々の患者として見た時に、い かに大変な事態であるかを僕はようやく理解することができた。

 もちろん、経済制裁は保健医療のみならず、食料、教育、環境など、すべて の分野に打撃を与えていた。

 勤続15年の一般公務員の月給が5000円程度。これで買えるのは、卵な ら十数個、石鹸なら2個に過ぎなくなった。店頭にそれがあればの話である。 印刷ができなくなり、文房具も手に入らなくなった。小中高、そして職業学校 で中途退学者が続出した。イラク政府は、コーランを印刷するため、海外資産 の一部の凍結解除を要請したが許可されなかった。教育者、知識人は情報の枯 渇状態に苦しんでいる。湾岸危機以来、イラクの知識は80年代のままである。

 バグダッド大学医学部の教授が嘆いていた言葉に、僕は科学者としての苦悩 を強く感じた。

「いったい自分の研究には意味があるんだろうか? それが分からなくなった んだ。もしかしたら、もう世界では発見されていることを自分は研究している のかもしれない。何年間もその状態なんだ。気が狂いそうだよ」

 こうした声を受けて、日本イラク医学生会議では『ランセット』の数年分の バックナンバーをはじめ、様々な医学書をバグダッド大学の医学部図書館に寄 贈するプロジェクトを2年にわたって実施した。僕らが図書館前の廊下に段ボー ル箱を置いた途端に、威厳に満ちた風貌の教授たちが、まるで漁るかのように 段ボール箱に群がったのに、むしろ、僕らは激しいショックを覚えたのだった。 なにか、本当に申し訳ないような気持ちにさせられたのだ。

◆強化されてゆく中東の不安定

 94年に入って、トルコは「イラクは十分に罰せられた」と解除を訴えたが 聞き入れられなかった。ついで、フランスとロシアが解除を主張したが、国連 安保理は制裁継続決定しつづけた。94年9月の時点では、ロシア、中国、フ ランス、ドイツ、トルコなどが解除賛成の意向を表明していたが、アメリカと イギリスが強力に制裁続行を主張しつづけ、制裁が続行された。

 クウェートを除く周辺諸国も解除賛成の立場を取りはじめてた。アラブ同胞 への同情論もあるが、戦争後の状況に不安感を抱いているからでもあった。 「強いイラク」が失われ、非アラブ世界への防波堤が失われたため、湾岸諸国 はこぞって武器の買付けに奔走しはじめた。アメリカの中東向け武器販売は、 イスラエル、エジプトを除けば85年から89年までの5年間に64億ドルに 過ぎなかったが、湾岸危機の翌年だけで85億ドルに膨れ上がった。これはア メリカの年間武器販売総額の約3分の2に当たる。ちなみに、湾岸危機中には、 サウジアラビアは148億ドル分の武器をアメリカから受け取っていた。湾岸 諸国のどの国も歳出の3割以上を兵器購入など軍事予算に費やしているのが現 状である。

 武器が使われないまま錆びてゆくケースはまれである。イラクがそうであっ たように、莫大な武器を抱えた国は、軍事力による政治を目指しはじめる。そ のことに自分たち自身が不安を感じているようだ。一部の急進派は「対米依存 を深めるよりは制裁解除による強いイラクの復活」をとなえたが、それよりも 「制裁という政治圧力が次の戦争を引き起こす可能性」を憂慮している人々が 多かった。つまり、外部圧力によるサダム体制の崩壊は、内部のまとまりを欠 くため、確実に周辺諸国の混乱を招くことが不安要因となっていた。北部のク ルド地区、南部のシーア地区が独立を求め、周辺クルド人、シーア派を巻き込 みながら独立運動を展開する可能性が高いとみられていた。

 国連もこうした不安の声を背景に、96年末、ようやくイラク石油の部分的 輸出が国連に認めることに踏み切った。もちろん、食料品など生活必需品を輸 入する名目のわずかな収入だが、それでも少しずつイラク経済は立ち直りを見 せつつあった。しかし、その立ち直りが市民の元に届くことなかった。

◆エピローグ

 「歴史はシュメールにはじまる」と言われる。

 だが、チグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア、現在のイラク にシュメール人が登場して以降、四千年、それが血で血を洗い続けた歴史であっ たことは、あまりにも悲しい事実である。この半世紀の間も、戦争に次ぐ戦争 にまみれていた。そして、今回の第二次湾岸戦争をもって、8度目の戦争を中 東は体験することになる。人類の歴史全体を振り返りながら、あらためてイラ ク史を見渡すと、僕には「死すべき運命との葛藤」という象徴的な事象が浮か び上がってくるように感じられる。

 僕たちがヒトであるという決定的な証拠は、死の自覚にある。これは僕たち の悲しい特権であるが、この自覚をもって僕たちは「他人の死を悼む」という 友愛と共感の原点を獲得したともいえる。この考古学的な例を、はるか6万年 前、イラク北部、シャニダールの谷において見出すことができる。

 この谷で、有名な人類学者のラルフ・ソレッキ先生は、旧人類のひとつネア ンデルタール人の骨を発掘した。そして、さらなる調査で2つの注目すべき事 実が明らかになった。ひとつは、遺体の中に、右腕を失い、左目が盲目という 高齢の障害者がいたということ。次に、洞窟の中であったにもかかわらず、遺 骨が8種類もの花粉にまみれていたということである。このことは、すでに6 万年前、人類の祖先が障害者をいたわる福祉の心をもち、死者に花をたむける 博愛が芽生えていたことを意味している。

 いずれ自分が死ぬことを自覚したとき、僕たちは他者の死を理解し、悲しむ ようになる。しかし、僕たちが自らの死を素直に悼み、自然な死を迎え入れる ことはまれである。僕たちは、そして、死を先に引き伸ばすことに奮闘する。 ところが、ここで深い矛盾に僕たちは直面する。つまり、僕たちは「終末の意 識」なくして、「いま」を闘う意義を見出せないのだ。こうして僕たちは、キ リスト教やイスラム教、そして仏教が完成させてみせたような「人は死によっ て終末を迎えるが、死を超えたある別の意味で存続する可能性もある」という 救いに到達することになる。

 この人類が体験してきた過程について、紀元前2750年頃、シュメールの 王として実在したギルガメッシュの英雄物語は、娯楽的要素をおりまぜながら も深く掘り下げている。とりわけ、ギルガメッシュが巨人フワワを倒す大胆な 企てについて、友エンキドゥに協力をうながす次の言葉は、名声によって生き 続けようという、後々までこの世界を支配する精神が強く現れている。


誰が、わが友よ、天に昇ることができるのか?
太陽の下で永久に生きるのは神々のみだ。
人類はといえば、彼らの日数には限りがある。
彼らがなし遂げることは全て風にすぎない!
あなたはここでさえも死を恐れている。
あなたの英雄的力はどうしたのか?
あなたの前に私を行かせなさい、
あなたの口で私を呼ばせなさい、「進め、恐れるな!」と。
「ギルガメッシュは」と彼らは言うだろう、
「獰猛なフワワと戦って倒れた!」と。
私の子孫が私の家に生まれるずっとのちのちまで。
[ギルガメッシュ叙事詩]

 有限の生を乗り越えて、名声や思想が、子孫のちのちまで受け継がれること に気がついたとき、人類はやがて、これを闘って勝ち取ろうとするようになる。 身体は、思想に比べれば、はかない。だから、僕たちはしばしば思想のために、 身体を犠牲にする。むしろ、身体をそのように処することで思想への帰依を表 明することができる。

 死を悼む気持ちと同様、思想をかかげ死を賭して闘うたくましさもまた、相 矛盾するようでいて、僕たち人間の素晴らしさだと僕は思う。ただし、問題は 「その思想が正義であるか」ということ。そして、「何が正義であるのか」と いうことである。どれだけ多くの血が正義の名のもとに流されてきただろう。 どれだけ多くの正義の戦争が人類史で繰り広げられたことだろう。しかし、歴 史が過ぎ行くとともに、そのほとんどの正義は色あせ、その奥底で目を光らせ ていた欺瞞と欲望が暴かれてきている。

 第二次世界大戦において、日本人は確かに正義を信じていた。ヨーロッパ列 強に蹂躪されるアジア諸国の開放。しかし、鼓舞されたそんな思想の根には、 確かに資源確保の思惑など植民地主義そのものが眠っていたことは、いまさら 言うまでもないだろう。一方、アメリカもまた、そんな日本をつぶすため、正 義の名のもとに2つの原爆を落としている。

 第一次湾岸戦争の引き金となったイラクのクウェート侵攻。それを指揮した サダム・フセインは、アラブの大義を旗印にクウェートの領有権を主張したが、 真のねらいはクウェートの富とペルシャ湾岸への覇権獲得にあった。一方で、 多国籍軍を支配したアメリカは、「自由と民主主義を守る」ため無法者のイラ クを追放したが、実際のところ、民族主義的な気運が高まってきた湾岸地域で の支配再確立という下心が、湾岸戦争のずいぶん前から見え隠れしていた。

 正義とは、欲求を充足させるためのシステムでも、その場しのぎのちょっと したアイデアでもない。また、正義の実現は「爽快感」を伴うかもしれないが、 「爽快感」があるからといって正義であるとはいえない。この稿を終えるにあ たり、日本人として僕の見解を述べさせてもらえれば、僕は、正義とは「自然 への友愛の精神」、そしてそこで生きる「人類すべてとの共感」につきると思っ ている。死を悼む気持ちが導く「友愛」と「共感」、そこから発露する正義を 貫く闘いには、なんら矛盾はない。僕たちが、真に正義をかかげて闘いはじめ るならば、21世紀は一転して「驚くべき希望の世紀」となるかもしれない。

 ネアンデルタール人を発掘したソレッキ先生は、イラン・イラク戦争直後に、 シャニダールを再び訪れ、次のような手記を書き残している。

「ネアンデルタールは6万年前、死者に花をたむけ、弱い者をいたわる心をもっ ていた。私たちが人間性というものを、もう一度見つめ直すことができたとき、 私たちの文明はシャニダールの花のように、何かしら美しいものになる可能性 を秘めている」

【高山義浩】


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