■ 検証・湾岸戦争(2) 追い詰められたポピュリスト

2003年2月28日


◆新興国家としてのイラク

 そもそも、「イラク」とは何であろうか。

 しばしば、「中東の紛争は何千年もの歴史が絡む奥深いものだ」と語られる が、僕は逆に、中東諸国の歴史のなさにこそ紛争要因があると考えている。オ スマン帝国が崩壊し、突然、英仏に国境線を引かれたのが現在の中東諸国の成 り立ちである。また、イスラエルはようやく建国50年を迎えようとしている 新興国である。よって、中東紛争とは、せいぜい「国境線確定のための陣取り 合戦」だともいえるのではないだろうか。

 イラクの国民性を理解するためには、イスラームであるとか、アラブの民で あるとか、そこにある遥かな歴史に思いをはせる必要がある。しかし、イラク という国家を理解するためには、むしろ、その歴史のなさ、その存在の唐突さ を認識しておく必要があるだろう。

 さて、近代国家としてのイラクであるが、その誕生はおよそ80年前。つま り、第一次世界大戦後の戦後処理に由来している。

 1921年、イギリスはオスマン帝国を解体し、そのバグダッド、バスラ、モス ルの3州を統合して、現在の「イラク」を誕生させた。イラクの国土とは、 「第一次世界大戦でイギリスが湾岸から進軍して制圧した地域」と同義であっ て、共通した歴史や民族、宗教をもちながら育った共同体という側面はほどん ど持ち合わせてはいない。イラクという国の不安定さの根本は、まず第一にこ こにある。

 1932年までイギリスの委任統治をうけたのち、メッカ出身のファイサルを国 王に迎え「イラク王国」として正式にスタートした。このファイサルは、そも そもシリア・アラブ王国の国王であったが、フランスによってシリアが占領さ れたため、行き場を失っていたのだ。そこに目をつけたイギリスが、彼をイラ クへ呼び寄せ国王としたわけである。いかに「急ごしらえの国家」であったか が、お分かりいただけることと思う。

 外来の国王ファイサルは、イギリス支配の象徴とみなされ、イラク国民の支 持を得ることはなかった。そして、1958年、青年将校たちによる共和制革命に よって、国王一家は処刑され、その短い役割を終えてしまう。

 新たな革命政権で主導権を握ったのは、カースィム准将であった。カースィ ムが実権を握れたのは、特定の政治集団に属していなかったことにあると言わ れている。寄せ集め国家の革命だけに、その勢力は、アラブ民族主義者、共産 主義者、原理主義者など様々であり、それ故にカースィムの背景のなさが、ま とめ役として好まれたのであろう。

 しかし、そのカースィムもまた、1963年、アラブ民族主義者に殺害されてし まう。そして、アラブ民族主義を掲げるアーリフ政権が誕生するが、この政権 もまた寄せ集めゆえの内紛が絶えなかった。結局、アラブ民族主義の最大勢力 バアス党が、他の勢力を駆逐してゆく。そして、そのリーダーであるバクルが 大統領の座についた1968年以降、ようやくイラクは、ひとときの落ち着きを手 に入れることになったのだった。

 反帝国主義、とくに欧米の石油産業を敵視して成長してきたバアス党は、外 交的にはソ連に近寄ることで内外の体制を整えようとした。1972年、バクル政 権はソ連との友好条約を締結することに成功した。これによって、イラクは、 欧米による長年の植民地支配と手を切り、同時にソ連からの武器調達を含む様々 な支援を手にいれられることになった。

 ところで、この劇的なソ連との条約締結を実現させたのが、当時、弱冠35 歳のサダム・フセインであった。サダム・フセインは、モスクワを訪問し、イ ラクの命運をかけた困難な交渉をまとめあげ、それまでほとんど無名の実務家 であった彼の実力を内外に広く知らしめたのであった。

◆サダム・フセインの台頭

 サダム・フセインは、1937年、バグダッドの北方150キロに位置する町ティ クリートに生まれた。ティクリートは、もともと羊革製の小舟を製造すること で生計を立てていた貧しい寒村であったが、近代化とともに小舟製造は廃れ、 若者たちの間では軍人として名を成そうとする風潮が強かったという。

 こうした貧しくも野心的な町に生まれたサダムだが、彼の家庭環境もまた複 雑であった。実の父親は出生前に亡くなり、叔父を養父として育ち、しかも母 親はその後再婚してしまう。すなわち、養父方の兄弟と異父弟たちに囲まれて サダムは育ったわけである。そして、養父の娘を彼は妻とした。サダムの政治 手法である親族を政治の駒として活用する技は、こうした家庭環境によって育 まれたといえよう。

 共和制革命の前年である1957年、20歳になったサダムはバアス党に入党する。 そして、1959年にカースィム暗殺計画に加わったが、失敗し、サダムは逃避行 の旅に出る。警察に足を打たれながらも、砂漠の部族社会を転々とし、サダム は辛くもエジプトへと脱出した。これは、サダムを英雄視する人々によって、 いまでも熱く語られる話となっている。

 エジプトでの亡命生活の間に、法律の学位を得たサダムは、1968年、バアス 党が政権をとったのを機会に帰国し、実務家として政権に参加する。しばしば 誤解されがちだが、サダム・フセインは軍人ではないし、軍人だったこともな い。むしろ、軍人とはサダムの政敵であった。よって、サダムが実権を握って ゆく過程とは、革命政府の要職にあった古参の軍人たちを追い落とし、若手の 文民官僚たちを登用してゆくことであったのだ。

 前節で述べた、ソ連との友好条約締結をもって、その外交手腕を示したサダ ムは、若き文民実力者としてバクル大統領から重用されるようになる。事実、 その後もイランのシャー政権との「アルジェ協定」(両国間の国境線を画定し クルドをイラク国内問題とした)締結など、軍部にはできぬ芸当をサダムは次々 とこなしていった。

 この頃から、サダムは「能力主義」を国民に訴え、支持を集めるようになっ た。そして、軍人たちを名誉職に追いやり、代わって能力ある若手官僚たちを 自分の腹心として、次々に政府の要職に引き上げ、自派を固めていった。とく に彼は、自分の親族以外は、クルドやキリスト教徒などマイノリティを大切に した。これは、自分を脅かすほど政治的に成長する恐れがないからだったとも 言われている。たとえば、現在の副首相タリク・アジズ(キリスト教徒)もま た、この時代にサダムによって見出された人材である。

◆穏やかな権力掌握

 さて、当時のバクル大統領は、長年にわたって糖尿病を患っており、サダム の台頭とともに国政の表舞台へ姿を現さぬようになっていった。そして、1979 年7月、バクルは突然、辞任を発表した。

 こうして、サダム・フセイン政権は、きわめて穏健に誕生した。これは重要 な点である。サダムは、暴力を背景とした革命や暗殺ではなく、イラクにとっ て初めて「合法的に」政権を獲得したのである。「能力主義」、「民主化」あ るいは「富の再分配」をスローガンとした文民政治家が、暴力によらず政権を とったという事実は、イラク国民に安堵感を与え、強い期待を新たな指導者へ と向けさせたとしても不思議はないだろう。国民にとって、サダムは紳士であ り、雄弁なエリートと受けとめられていた。

 この時期の彼のイメージをよく伝えるメールを読者から受け取ったので紹介 したい。

「某企業の駐在員として、私がイラクに最初に入ったのはサダム・フセインが 大統領になる少し前でした。フセインの前の大統領はフセインと同じチクリッ ト村の出身でしたが、フセインのような派手さはなくイラクは本当に貧しかっ たですね。それこそ、夏の間、必需品のはずのジャガイモが市場にないことも ままあったほどです。他の中近東諸国でジャガイモが売ってない国はありませ んでしたが、イラクには無かったりしたのです。(中略) 大統領になった時 のサダム・フセインは、確かに格好よかったですよ。イラクの女性だけでなく、 日本人駐在員の奥さん方にも人気があるくらい若く、ハンサムで女を虜にする フェロモンを発散していたように見えました。(中略) 若くて格好よく、す べてが順調のフセインにとっては唯一苦い思いがありました。それは、パーレ ビ国王の力が強大であった時代に、シャトーアラブ川の領有権を奪われたこと なのです。それを奪い返したい。そして、アラブのヒーローになりたい。フセ インにとって、イラン・イラク戦争の目的とは、そこにあったのではないでしょ うか」(寄稿者:Yoshi)

◆ポピュリストへの道

 42歳にして大統領の座を手中にしたサダムにとって、頼りはイラク国民の 支持であった。サダムには、軍の後ろ盾もなく、また、バアス党内部にも多く の政敵を抱えたままであった。こうして、サダムと大衆の蜜月がはじまったの である。

 サダムは自分の政権を磐石とするため、イラク国民に「民主化」を強く訴え、 そして自らに対するイメージ戦略を極めて重視するようになっていった。

 権力を掌握してからのサダム・ゥ侫札ぅ鵑蓮・厳壇タ・・鯀位未鵬,圭个靴呂 めた。まず、医療を無料とし、社会保障制度を確立した。そして、高圧送電線 網を整備し、一般家庭まで電化させた。さらに、義務教育制度とともに、全国 各地で学校建設を推し進め、しかも大学までもを無料化した。また、無料の成 人学校も各地に設立し、識字率を向上させた。なお、大学教育を無料としたこ とは、外国人留学生にまで適用されたため、中東各地から貧しくも優秀な人材 がバグダッドに集まるようになっていった。パレスチナ人に親サダムが多いの は、こうした事情も背景としてある。

 もちろん、こうした政策を可能にしたのは、オイルブームによって中東が沸 きかえっていたからではあったが、周辺諸国と比しても、明らかにイラク市民 生活の成長はめざましかった。80年代のこうしたサダムの功績ゆえ、いまも イラク国民には「アメリカの外圧さえ排除できれば、きっとサダムは上手くやっ てくれる」と真剣に信じている者が少なくないようである。

 サダムの政権基盤とは、もはやバアス党ではなく、確固たる国民の支持であっ た。確固たる国民の支持なくして、サダムはありえない。このことが、サダム を虚像の世界へと誘(いざな)うことになってしまった。つまり、熱狂的に支 持されているという「演出」がサダムに求められるようになったのだ。

 大統領となったサダムは、イラク全土にくまなく彼の名前、肖像画を散りば めていった。サダム病院が全国13ヶ所に建設されたように、ことごとく恩恵 的なものには彼の名が冠せられた。バグダッド近郊の貧困地域は、サダム市と 改称され、めざましい復興が演出された。実際、僕がバグダッドを歩いていて、 サダムの顔を見ずに1ブロックを歩くことは不可能だったといってよい。市場 を横目に歩くと、笑顔で商店主に話しかけるサダムの写真が飾られ、電話局前 を行けば、電話をかけるサダムの巨大な壁画が掲げられていた。

 サダムが大統領となり、国民の支持を得るために富をばらまき始めて以来、 大衆は、こぞって、競ってサダムの肖像画を掲げはじめた。なぜなら、それが 富への第一歩だからである。サダムの名を唱え、肖像を掲げることが、富の分 配を得る必要条件となっていた。

◆イラン・イラク戦争の勝利

 ところで、サダム・フセインが大統領となった1979年、隣国イランにもまた 激動の波が襲っていた。イラン革命により、サダムの宿敵となるルホラ・ホメ イニが権力を掌握したのである。

 イランと同じシーア派が、イラクでは過半数を占めている。イスラーム革命 の火の手は、次第にイラク南部を中心に広がりつつあった。そして、領有権問 題を抱えたイラン・イラク国境では、軍事衝突が散発的に発生しはじめていた。 1980年9月17日、サダムはイランとの戦争を決断する。あの状況であれば、戦争 を決断する指導者は、サダムならずとも多かっただろうと僕は思う。戦争につ いて「仕方がない」という表現を使いたくないが、しかし、サダムの選択は理 解できるものであった。サダム自身、戦争は短期決着を想定していたという。 しかし、イラン・イラク戦争は8年にもわたって戦われることになるのだった。

 この戦争が長引くことになったのには、3つの理由がある。まず、第一に、 両国の国庫がオイル・ダラーでふくれあがっており、十分な戦費を自力で工面 できた。第二に、双方の主要勢力の宗教と民族が違い、またその信念が強固で あったため、妥協点を見出すことが困難であった。そして、第三として、米ソ 超大国が調停に乗り出そうとするどころか、双方に軍事援助を続け、火に油を 注ぎ続けたということがある。

 イラン・イラク戦争の開戦時には、ソ連がイラクを支援し、アメリカはイラ ンを支援していた。ソ連とイラクは友好条約を結んでいたため、アメリカは 「対抗措置」としてイランを支援したのである。もっとも表立って軍事援助は できないため、イスラエルをダミーにして、イランへ武器を横流しした。つい でに、その利潤を今度は、エルサルバドルでソ連よりの政府にゲリラ戦を挑ん でいたコントラにつぎ込んでいた。

 このイラン・コントラ事件の発覚を機に、レーガン大統領はそ知らぬ顔で、 今度はイラクに対する軍事支援を開始した。超大国にとって、イラン・イラク 戦争は、冷戦時代の武器実験場であり、この戦争が勝敗をつけぬまま長引くこ とが、もっとも都合のよいこととなっていたのだ。

 しかし、イラクは長引く戦争で疲弊しはじめており、サダムは「超大国に停 戦を呼びかける」目的で、ペルシャ湾岸を往来する先進諸国のタンカーを攻撃 しはじめた。忘れられた戦争を戦い続けないための苦肉の策だったが、これは 功を奏した。1987年、アメリカのイラク支援体制のもと、国連は両国に即時停 戦を求める決議598を採択した。イラクは即時に受諾を表明。イランは当初 拒否したものの、1年後、ついに「毒を飲むより辛い」というホメイニの決意 によって、停戦を受け入れたのだった。こうして、8年にわたるイラン・イラ ク戦争は、イラクの勝利という結果に終わったのだった。

◆ポピュリストの限界

 イラン・イラク戦争後のサダムは、さぞかし辛かったことと僕は察してしま う。戦後の国民の期待は大きかったはずだ。

「戦争に勝ったサダムは、きっと我々の生活を華やかにしてくれるに違いない。 サダム万歳!!」

 こう叫ぶ大衆を前に笑顔で手を振りながらも、実は、サダムには打つ手がも う見当たらなかったのだ。カネをばら撒こうにも、国の金庫はからっぽどころ か借金まみれ。国民の期待に野放図に応え、戦争で危機感を煽りながら政権を 維持してきたサダムは明らかに行き詰りつつあった。

 まず、イラクは、戦争を体験しながらも爆発的人口増大に直面していた。1970 年のイラク人口は935万人であったが、サダムの恩恵的治世によって、湾岸危機 時の1990年には、1807万人となんと倍増していたのだ。サダム政権を支えてい た、恩恵的な経済システムは、人口の急増と財政の制約に直面し破綻しつつあっ たのだ。

 もう一点、サダムを苦しめたであろうことは、サダムのために命を賭した 100万もの兵士たちである。壮年男子の大半を前線に送りこんだため、イラ クでは女性の社会進出がすすんでおり、彼らが帰還すれば大量の失業者が発生 することが目にみえていた。よって、イラク政府は兵役を解除することができ ず、いわば生活保護のように彼らに給料を払い続けなければならなくなってい た。

 戦争終結の喜びが社会不安へと変化してゆく前に、サダムは次の奇手を打た ざるをえない状況に追い込まれていったと言えよう。

 すべては、理念なき民主化の悪い側面が増幅されていったのだ。皮肉なこと だが、事実、サウジアラビアやクウェートのような王国であれば、ここまで国 民に甘い汁を吸わせ続ける必要はなかっただろう。しかし、サダムは国民を喜 ばせ続けなければならなかった。大量の軍備と兵士を抱えたポピュリストの行 き着く先が、結局、破滅的選択となったのは、予測できることだったのではな いだろうか。今更ではあるが、本当に戦争を抑止したいのであれば、少なくと もこの段階で国際社会は動き出すべきだった。これは現在の北朝鮮にも言える ことである。

 1990年、サダム・フセインはクウェート侵攻を決断する。サダムは確かに国 際感覚が低下していたが、しかし、かつてあれだけの外交手腕を発揮した実務 家が、国際社会の袋叩きにあう可能性を無視していたとは、僕には思えない。 むしろ、ここまで彼の生き様を振り返ってみて、僕にはサダムのこんな独り言 が聞こえてくるのだ。

「クウェートをすんなり手に入れられれば、まずもってそれが一番だ。しかし、 米軍によってイラク軍が壊滅的打撃を受けるとすれば、それもまたよし。少な くとも、俺が国民に袋叩きにされるよりはマシではないか。このまま国民から 裏切り者と呼ばれるのを座して待つより、むしろ帝国主義と戦って殉教者とな ることを俺は選ぼう」

 もちろん、これは僕の空想にすぎないが、その後のサダムが着実に殉教者 (の指導者)というイメージ戦略を深めていったのは事実である。

【高山義浩】


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