■ 検証・湾岸戦争(1) 忍び寄る危機

2003年2月10日


 戦争が秒読み段階に入った。サダム・フセインを追放もしくは抹殺すること が、今回の戦争の目的とされているが、米軍が地上戦を覚悟しているのなら、 相応の代償を払いながらも、これが成功する可能性は高いだろう。しかし、こ れが解決となるか、すなわちアメリカを中心とした国際的連帯に中東を組み込 むことができるか、テロリズムの危機を沈静化できるかについては、はなはだ 疑わしいと言わざるをえない。国際社会はアメリカン・コミックスのように、 「悪の親玉を倒せば地球が救われる」というほど単純ではないからだ。

 湾岸戦争のときもそうだった。「国連の承認をえた多国籍軍が勝利すれば、 そしてイラクを封じ込めることができれば、国際的連帯の時代がやってくる」 とブッシュの父親もコリン・パウエルも述べ、戦争の正当性を訴えていた。し かし、湾岸戦争で圧倒的勝利を収め、イラクを完全に封じ込めることに成功し たその後の10年間は、いったいどうであったろう。中東は独自の道を歩みつ づけ、むしろ御しにくく、反発が渦巻く地域となった。そして、世界的にもテ ロと紛争が多発する世紀末をもたらしただけではなかったか。

 そして今、軍靴の足音が高らかに鳴り響きはじめた。21世紀最初の国家間 戦争は、20世紀最後の国家間戦争を繰り返すものとなる。結局、僕たちは 20世紀を終わらせることができなかったのだ。

 国際保健通信は、今号より3回シリーズで「湾岸戦争」をふり返ろうと思う。 収束と拡散を重ねながら、歴史は繰り返している。あの戦争はなぜ抑止できな かったのか、どのような戦闘が繰り広げられたのか、戦後に世界はなにを体験 したのか・・・ 新しい戦争を読み解くため、繰り返される過ちのツケを最小 限に留めるため、いまこそ検証しておく必要があるだろう。

◆戦争への足取り

 湾岸戦争は突然の出来事ではなかった。

 イラン・イラク戦争停戦の翌日、つまり88年8月9日、クウェートは石油 輸出国機構(OPEC)の合意を破って、原油の増産を決めた。なかでも、イ ラクとクウェートの間にある、はっきりとしない国境をまたいで存在するルメ イラ油田(イラク人技術者らが開発した世界第5位の埋蔵量といわれる油田) の生産が増加した。同油田を最初に開発したイラクの目から見ればこれは盗掘 であり、湾岸をイラン革命勢力から守り抜いた自負のあるイラクにとって裏切 りとなった。

 クウェートとアラブ首長国連邦の協定違反で、原油は生産過剰となり、90 年はじめにバレル当たり20ドルだった原油価格は、協定価格の18ドルを大 きく下回り、夏には15〜16ドルに値下がりしてしまった。これにより、外 貨収入の90%を原油に依存していたイラクは、年間70億ドルの減収となっ てしまった。しかも、ルメイラ油田からはクウェートが24億ドル分を採掘し ていた。原油をなるべく高く売って国家を建て直したいイラクにとって、この クウェートの吝嗇行為は許し難いものであっただろう。

 8年もの長い戦争で、戦争前に800億ドルあったイラクの外貨準備は底を つき、戦争に勝ったものの1000億ドルの借金が残っていた。そのうち、ク ウェートから供与されたのが140億ドルであったが、イランの脅威がなくな ると、クウェートは手のひらを返したように早期返済を求めるようになった。 アラブ連盟全体のために戦い、そして勝利したとイラクは自負していたが、危 機が去ると、湾岸アラブ諸国は団結どころか、自国の利益を最優先する政策ば かりを先行させるようになっていたのだ。

 この頃から、サダム・フセインの言動は明らかに暴走しはじめている。89 年から90年にかけて、イラクが化学兵器や核兵器などの開発計画を進めよう としているとの疑惑が相次いで表面化した。しかし、当時のアメリカは、レー ガンからブッシュへと政権の移行期にあり、「イランを封じ込め、イラクを支 援する」という中東政策の見直しは進まなかった。しかも、イラクは対米債務 については返済を続けており、アメリカからの食糧輸入も増大させていたため、 イラクを封じ込めることは選択肢になり難かった。「カネさえ払っていればア メリカは黙っている」と理解したサダム・フセインは、90年4月、化学兵器 を保有していることをついに明言した。たしかに、その後もアメリカを黙りつ づけていた。

 サダム・フセインはさらに、クウェートへの露骨な恫喝を繰り返すようになっ た。89年のジャビル・クウェート首長との会談では、「そんなにカネを返し てほしいなら、代わりに領土をよこせ」と怒鳴りつけたと言われている。

 イラクがクウェートを本来の領土と考え、侵攻を合理化できると考えていた 点も重要である。すなわち、オスマントルコ時代にクウェートがバスラ州の一 部だったという事実に由来するものだ。ただし、1963年にイラクはクウェー トを正式に承認して以来、大使を派遣しながら国家としての付き合いをしてき たという歴史は無視できない。つまり、イラクのこうした主張は便宜的なもの に過ぎず、国際社会に受け入れられるものではない。

 しかし、武力と権力にとりつかれたイラクの独裁者サダム・フセインと、富 と豊かさに盲目となったクウェートのサバハ一族が隣りあわせた湾岸で、やが て悲劇のドラマがはじまることは避けられぬことだったのかもしれない。

 いや、実は重要な登場国がもうひとつある。

 アメリカが世界戦略の柱のひとつとして中東を重要視するのは、たまたまそ こに石油があったからである。そうでなかったら、湾岸戦争はなかった。アメ リカは軍事力を背景とした世界の基軸国である。アメリカは強くなければなら ない。そして不動でなければならない。すくなくともアメリカ人の多くはそう 考えている。だから、アメリカが依存しなければならない石油資源を埋蔵して いる中東は、なんとしても掌握しておかなければならなかった。ところが、こ の中東諸国とは、アメリカの同盟国ではなく、どちらかといえば折り合いの悪 いイスラム教徒の住む国なのだ。まず、これが中東不安定要因の大きな理由の ひとつとして存在していた。だから、イラン・イラク戦争後、膨大な軍事力を 持て余し、アラブの覇者としての自信をつけはじめていたサダム・フセインは、 アメリカにとって不安材料であった。折しも、アラブ民族主義的な気運が中東 では高まっており、アメリカは支配再確立の必要性を強く感じていたことだろ う。

 このような様々な意図は、互いに矛盾し、たしかに戦争の足取りを早めてい たが、80年代終盤、イラン・イラク戦争を終え表面上落ち着きをとりもどし ていた中東に、世界の指導者、国際世論の関心はなかった。それよりも世界の 視線は東西冷戦構造の突然の瓦解、そして東欧の民主化の大爆発に注がれてい た。

◆湾岸危機

 イラクにクウェート侵攻を選択させた直接のきっかけは何だったのだろう。

 第1に、イラクの国際感覚の欠如がある。サダム・フセインは、米ソ冷戦構 造が崩壊し、新世界秩序を模索しはじめた世界状況を良く理解できていなかっ たようである。クウェート侵攻後、ソ連が米国と協調して動くこと、国際世論 がここまで過敏に反応することは予想できていなかったようである。

 第2に、アメリカの外交上の失敗がある。クウェート侵攻の1週間前、7月 25日、エイプリル・グラスピー大使は「アメリカはイラクの立場を尊重して、 (クウェートとの)国境問題に介入するつもりはない」とサダム・フセインと の会談において発言した。これは、同年2月の「アメリカはイラクとの関係改 善を望んでいる、国境問題には干渉しない」というアメリカ国務長官ジョン・ ケリー発言を、目前の危機を無視して繰り返し確認してしまったものである。 翌26日、クウェート国境のイラク軍は3万人以上に達した。

 第3に、クウェートが、結局、イラクの経済的苦境を顧慮しなかったことに ある。イラクの逼迫した戦後経済に、石油収入減収が与えている影響をあまり に軽視していた。加えて、クウェートのサアド皇太子は、危機のせまる状況下 の交渉で、あまりに挑発的な言動を取り過ぎたようである。

 ピエール・サリンジャーとエリック・ローランによる『湾岸戦争−隠された 真実』によると、7月31日、クウェートとイラク側との最終交渉であったジッ ダ会談は、サアド皇太子の次の台詞で終わったという。

「脅しても無駄だ。クウェートには強力な友人がいる。われわれにも同盟国が ついている。借金は全部払わざるを得なくなるぞ。」

 また、バグダッドに最後まで残っていたBBC記者ジョン・シンプソンの 『戦争の家から』によると、そのジッダ会談上で、クウェートのサアド皇太子 は侮辱的な発言をしたと紹介している。「海の水でも飲んでいろ、…女房を街 角に立たせて稼がせたらどうだ」。これは、父親がはっきりとせず、異父弟が 何人かいるというサダム・フセインへの明らかな挑発である。

 こうした発言について、真偽のほどはわからない。しかし、いずれにせよ、 会談決裂の翌日、90年8月2日、サダム・フセインはクウェート侵攻の決断 を下したのだった。

◆二元論のアメリカ

 軍事大国イラクの前に、湾岸アラブ諸国はまったく無力であった。8月7日、 ジェッダで開かれたGCC外相会議は、外部の軍隊の進駐を受け入れることを 決めた。すなわちアメリカの力を背景に、問題を解決しようと考えたのである。 しかし、これは明らかに世間知らずな誤算を含んでいた。

 アラブの伝統的な紛争調停とは、当事者よりも格上の調停者がケンカを預か り、妥協案を当事者の双方に提示し、説得して事態を収拾するものだ。湾岸ア ラブ諸国が、イラクという軍事大国とのトラブルを収拾できるのは、もはやサ ウジでも、エジプトでもなく、アメリカしかないと考えたのは理解できること ではある。しかし、調停者が、いきなり当事者の片方を殴りつけるとは考えて いなかった。

 外交史の浅いアメリカの紛争調停能力は、極めて稚拙である。それは、これ までアメリカに委ねられた紛争調停が、ことごとく破綻していることを省みれ ば明らかなことだ。アメリカは、自らを育んだ資本主義という土台のうえで交 渉する能力には、たしかに長けている。しかし、民族や宗教、ひいては文明レ ベルでの対立には、当事者として苦しんだ経験がないためか、落とし所をイメー ジできていない。よって、アメリカの調停とは「断罪と制裁」になってしまう のだ。ブッシュの「テロリストの側に付くのか、我々の側に付くのか」という 発言は、その典型である。アメリカにとって、どちらかが勝利するまで紛争は 終結しないのだ。

 クウェート侵攻後、アメリカに調停を求めたアラブ諸国は、軍事力を背景に アメリカがイラクを威嚇しながら、調停案を提示し、それをのませるものと期 待していた。少なくとも、いきなりバグダッドへの大規模空爆がはじまるとは 思いもよらなかったろう。しかし、アメリカは、何度か訪れた外交交渉による 平和裏の解決に何ら興味を示さず、ただ黙々と戦争の準備を進めはじめたのだっ た。

◆日本人にとっての平和

 この容赦のなさは、「和」を尊しとし「怨恨」を忌避する日本人には奇異に 映った。あのとき冷静に考えることのできた日本人は、強国の論理がまかり通 る世界秩序の到来に戦慄した。もっとも、日本人とアメリカ人の間にある平和 の概念について大きな隔たりがあったことも重要である。

 日本人は、何より戦争をしないことが平和だと考えている節がある。だから、 アメリカ人の「平和のための戦争」という発想についてゆけなかった。残念な がら、あのとき、日本人の平和の概念は国際社会では通用しなかった。ただた だ「戦争反対!」を叫ぶ日本人は、「戦争されちゃ商売できないよ」という商 人、あるいは単なる臆病者としか映らない。あのとき、結局、日本が欧米の批 判に耐え兼ねて、90億ドルという戦費を支払ってしまったのは、日本人が平 和を「戦争の反対語」という程度にしか説明できなかったからだと思う。いま 一歩、日本が積極的平和国家へと脱皮する糸口は、「戦争をせずにすむ平和」 を提示できる調停スペシャリストとしての外交能力を身につけることではない だろうか。

 さて、一方、アメリカ人は、湾岸戦争を「正義の戦争」と呼んだ。端的に言っ てアメリカ人の正義とは、法と民主に対する忠誠である。これを貫くためなら、 どんな伝統も文化も躊躇なく否定する。否定しなければ、確かにアメリカ多民 族国家は成立し得なかった。そして、ひとつの法体系に団結することで安定が 維持される。ところが、アメリカは国際社会にもこの論理が当てはまると考え ている。世界秩序という言葉を好み、自国を中心とした世界共同体を夢見てい る。

 しかし、国際社会は法共同体ではない。ましてや文化共同体ではない。世界 すべての国が民主主義を実現しなければ平和が訪れないわけでも、世界すべて の人々が西洋医療を施されなければ健康になれないわけでもない。このほとん ど不可能な夢をごり押しするアメリカと、それに追随する同盟国が、21世紀、 もう一つの不安定要因となりつつある。

◆アラブの論理

 ところで、あのときアラブ人は何を感じていたのだろうか。こうした情報は、 ほとんど日本にまでは伝わってこないばかりか、多くが途中で欧米社会の洗礼 を受けているため、きわめて掴み取りにくくなっている。中東で行われた戦争 でありながら、当時も今も、イラク人を含むアラブ人の声がなかなか伝わって こないのは、もしくは耳を傾けようとしないのは、何とも不思議なことである。

 収集することのできた様々な情報の断片をつなぎあわせ、また僕の中東での 経験を整理してみると、次の3点が浮かび上がってきたように思う。

 まず、第1にアラブとしてのプライドが強く刺激された。

 イスラム世界とは、単に信仰者の地理的な広がりではない。それは、アッラー を中心に人間を平等な弱者として捉えなおし、その中での助け合いを唱える兄 弟の家、つまり「ダール・アル・イスラーム(平和の家)」である。聖地メッ カのあるサウジアラビアへのアメリカ軍進駐は、こうした感情を強力によみが えらせ、アラブ民族主義内部にあった対立を解消させ、反米で統一させること になった。とくに、「アラブ内解決」が、イラクに同情的な諸国家などから主 張された。

 湾岸戦争中、イラクはこの感情を利用し、軍事的勝利を諦め、政治的勝利を 狙った行動をとっていた。自暴自棄的にイスラエルにミサイルを撃ち込み、 「殉教」を演出した。事実、これには効果があったようで、たとえば、カイロ・ アメリカン大学のワリード・カジーハ教授は、当時、次のように語っている。

「アメリカが同じアラブ人であるイラク人を殺傷しているのに、自分がそれに 対して何もできないばかりか、エジプト政府がそのアメリカに協力している。 …中略… すでにサダム・フセインはアラブ・イスラムの英雄、殉教者になって しまった。イラクのイスラエルに放つスカッド型ミサイルには『アルフセイン』、

『アルアッバース』というシーア派殉教者の名が冠され、これがイスラエルに 飛ばされる度に、あのシーア派殉教者の悲劇を思い起こさないイスラム教徒は いない」(酒井啓子.「湾岸戦争とアラブ知識人の反応」『現代の中東』No.10 (1991))

 第2に、「アラブの地にアメリカ軍が入ってきたのは、アラブ支配をもくろ んでいるからだ」という、従来から反米の根拠となっていた部分を増幅させる 反応である。

 世界で産出されている石油の25%を消費しているアメリカにとって、中東 は生命線である。また、アメリカ世帯数の1%の富豪がアメリカ全資産の37 %を保有し、彼らがアメリカを統治し、彼らの世界秩序を構築しようとしてい る。そして、東西冷戦後に残された最後の非支配地域「中東」これを切り崩し にかかっているのだ。こうした考え方が、ひいては「湾岸戦争は、中東支配を ねらったアメリカの策略だった」という『陰謀説』まで生み出している。驚い たことに、イラクの有識者層にも、この『陰謀説』を信じている人々がいるよ うである。サダム・フセインの長男ウダイと対談する直前、僕は通訳官と少し 突っ込んだ話をすることができたのだが、最後に、彼は「大統領はアメリカの 策略にはめられた」とぼそりと呟いていた。

 僕自身は、こうした発想の真偽について答えるだけの立場にはない。アメリ カの中東支配のもくろみは確かにあったはずだが、多くの陰謀好きを喜ばせる であろう「すべてがCIAの予定表通りだった」というような論点は、民間の 国際協力や和平への努力を無気力にさせてしまう危険な香りが漂っている。想 像力ではなく事実の積み重ねを基に解決を模索しようとするなら、なるべく噂 に惑わされることなく「そのように考えている人々がいる」という程度でこの 話は止めておいた方がいいのかもしれない。

 さて、第3に挙げられる声は、アメリカの唱える正義への不信感である。

 イスラエルは、アラブ諸国にとっては明らかな侵略国であるが、アメリカは その行動を黙認し、そればかりか莫大な支援を続けてきている。国連安保理決 議242号など、イスラエル軍の占領地からの撤退についての約束もあるのだ が、紙切れ同然のあつかいだ。これでは、イラクを攻撃するアメリカの正義が ダブル・スタンダードであると指摘されても仕方がないだろう。

 もうひとつ、アメリカの正義への不信は、都合の良いときだけ「人権擁護」 を主張する節操の無さに対するものである。たしかに、「人権の尊重」は平和 の基礎であり、人類が共存するための最高の思想だ。だからこそ、僕は利用さ れてはならないとも考えている。国家の論理として押しつけられるものではな く、民衆の主張でなければならない。湾岸戦争のとき、アメリカが取った人権 外交は2つの意味で「人権」を侮辱するものであった。ひとつは人権を主張し ながら「少なくとも10万人以上のイラク市民を虐殺」したこと。もうひとつ は、以下に説明する「選択的な人権擁護」の姿勢である。

 たとえば、湾岸戦争の準備期間中に、アメリカはアムネスティー・インター ナショナルの報告書を引用して、イラクがクルド人に対して重ねてきた人権侵 害を国際世論に訴えていた。しかし、同じ報告書のなかで、クウェートをはじ めとする湾岸諸国もまた、イラクに劣らぬ人権侵害を行っていることが指摘さ れていたのにもかかわらず、全くふれなかった。これは、とりわけアラブ民衆 に疑念を生じさせたようである。つまり、「人権擁護」とは覇権国の新たな外 交スタイルなのではないかと。

 当時のクウェートは、約55万人の国民を1級から7級までに分類していた。 選挙の有権者は1級かつ国籍取得後15年の男子のみで、わずかに5万人強。 この他に、約100万人の外国人(もしくは無国籍)労働者を抱えていた。立 憲君主制をうたっていたものの、侵攻された当時は憲法も議会も停止中という 有様だった。また、アメリカが同盟国と呼んだサウジアラビア(サウード家の アラビアの意)は、議会のない祭政一致の絶対君主制である。その他、湾岸戦 争において多国籍軍が守ったとする国家群は、ほとんどが絶対君主制であった。

 一方、イラクは比較的民主化の進んだ国のはずであった。政体は、複数政党 制(バース党、クルド民主党、クルド愛国同盟など)を認めた共和制をとり、 女性の参政権を認めている。とりわけ、女性の社会進出はめざましく。女性国 会議員の比率は11%で、中東諸国では群を抜いており、米国の11%と同等、 日本の3%は足元にも及ばなかった(ユニセフ『国々の前進1995』よ り)。また、82年のデータでは、全医師中の26.9%、全歯科医師中の51.2%、 全薬剤師中の65.0%が女性であった(酒井啓子,「進んだ女性、押し戻される 女性」『アジ研ワールド・トレンド』No.6(1995)より)。

 ポスト冷戦時代に入って、人権論争は新たな局面を迎えている。冷戦時代は、 自由主義陣営が、市民の自由権を主張して社会主義陣営を攻撃した。一方で、 社会主義陣営は、労働者の社会権を主張し反論した。こうした人権論争が東西 イデオロギーの対立点であり、逆に言えば、双方とも人権の普遍性という点で は一致していたのである。

 ところが、近年の南北国家間の論争では、この人権の普遍性そのものが対立 点となってきている。開発をめざす東南アジア諸国は権威主義を堂々と正当化 し、中国は人権外交を黙殺、イランは原理主義を掲げ公然と欧米を批判、そし てアラブ社会は民族主義に立脚した「アラブの論理」を自らの拠り所としてい る。それを知りながら、欧米は人権を主張し内政に干渉する。なぜなら人権を 外交圧力として利用する上では、失うものがないからである。

 こうした姿勢が、アラブの人々にあまりにも透けて見えすぎたようである。 実際、湾岸戦争を「自由と民主主義の戦争」であると認めるアラブ人など皆無 である。湾岸戦争の前も後も、アメリカは大衆に支持されていない君主たちと の個人的な関係を中東外交の基盤にすえてきたし、民主主義の担い手となりそ うな学生や中産階級を無視するか、もしくはテロリストの友人か何かとして相 手にしてはこなかった。アラブ世界において、アメリカの信用は地に落ちてお り、このことは今後もアメリカが中東を統治することが困難であることを意味 している。

◆非戦への祈り

 さて、ここまでアラブ人が湾岸危機下で何を考えていたかについてまとめて みた。ただし、こういった政治的な論理よりも、現地での僕自身の印象として 確かに受け取められたのは、むしろもっと単純なことであったように思う。そ れは、「アラブ世界の民衆は戦争を怖れていた」ということである。

 たしかに、サダム・フセインがクウェートを侵略したことを喜び、サダムと の一体感を覚えながら、汎アラブ主義イラクとアメリカ帝国主義の決戦に散華 的陶酔を味わっていた民衆は少なくなかった。そして、こうした見解を声高に 叫ぶアラブ人を、欧米メディアは好んで取材してまわった。

 しかし、ほとんどのアラブ大衆は、戦争を単純に怖れていた。むしろ、湾岸 戦争開戦を支持し、加速させたのは、欧米を中心に形成された「国際世論」で あった。当たり前のことであるが、戦場となる地域、もしくは飛び火する可能 性のある地域の人々は、戦争が回避されることを心から祈っていたのである。

 モロッコでは30万人が、リビアでは100万人が戦争反対のデモを行った。 エジプトなど、その他のアラブ社会でも大小様々な反戦集会が開かれていた。 言論の自由がない国々において、人々が覚悟を決めてデモに参加していった背 景には、和平への祈りが込められていたのと同時に、アラブ社会独特の国境を 越えた人間のつながりもあった。つまり、イラク、クウェートには、周辺アラ ブ諸国の人々にとっての家族、友人が暮らしていたのである。そうした中から、 「血は流さないでほしい。いったん戦争がはじまると、どうなるか分からない。 アメリカは異教徒である私たちを、きっと容赦なく殺しつづけるだろう」とい う声が自然に湧き起こったのである。

 しかし、この祈りの声は「国際世論」に届くことはなく、予定されていたよ うに湾岸戦争がはじめられたのだった。

【高山義浩】


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