■ カンボジアレポート(7) 教育こそ未来への布石(前編)

2002年10月31日


◆センリムの一日

 センリムは12歳。二人姉妹のお姉さんだ。両親とおばあちゃんを含めて5 人暮らし。ティンスララゥ村の東のはずれに住んでいる。

 お父さん、お母さんは、内戦で苦労した世代だが、センリムは戦争を知らな い世代だ。とは言っても、散発的な銃撃戦なら何度かみかけたことはある。そ のときは、すぐに近くの家に逃げ込むのだ。「茂みに逃げ込んだりしたらダメ だぞ」と、お父さんから言われている。地雷を踏むかもしれないし、勘違いさ れて狙い撃たれることだってあるからだ。

 ともあれ、カンボジアは平和になってきているし、「未来もきっとそうよね」 とセンリムは信じている。センリムは、お菓子屋さんになるのが夢だ。プノン ペンに行って、パンケーキを焼く店を開きたい。チョコレート味、イチゴ味、 バナナ味・・・。

 「お店を開くためには、勉強だって大切だ」と、小学校の先生は言う。メ ニューを書いたり、お金の計算をしたり、外国人のお客さんと英語で話した り・・・。英語。そう、英語はとても大事だ。英語が話せれば、外国に行ける。 タイとか、日本とか・・・。そして服を買いたい。あと、どうしたらあんなに きれいな髪になるのかも、教えてもらいたい。

 でも、おばあちゃんは違うことを言う。

「センリム。どうして、お父さんとお母さんが戦争で殺されなかったと思うか い? それはね、学校に行かなかったからだよ。学校に行って勉強した子は、 みんな殺されちゃったんだ。百姓は野良ができれば、それでいいのさ。余計な ことをすれば、あとで酷い目にあうんだからね」

 おばあちゃんが言うことは、たしかに本当のことだ。英語が話せる人は、あ いつら(クメール・ルージュ)に、みんな殺されてしまった。でも、これから は違う。違うとセンリムは信じている。だから、家の仕事を手伝いながらも、 センリムは休まずに小学校に通っているのだ。

 今すべきこと。それは9月の朝空のように、とてもはっきりしている。青空。 青空。学校のむこうに、センリムには青空が見えている。

 センリムの家族の1日は、朝5時に始まる。お父さん、お母さん、そしてお ばあちゃんは、センリムを起こすと、すぐに農作業に出かけてしまう。妹は8 歳でまだ小さいから、寝たままだ。

 さて、センリムの朝の仕事は、まず水汲み。雨期だと、軒先の瓶に雨水が溜 まっているから楽なのだけど、普段は溜池まで水を汲みに行く。水を汲んでき たら、今度は七輪に薪をくべて御飯を炊きはじめる。お茶を飲むためのお湯も 沸かす。朝ごはんの準備ができた頃、お父さんたちが帰ってくる。そして、家 族みんなで朝ごはんを食べる。おかずは、いつもプラホックという塩漬けの小 魚だ。センリムは、一日のなかでも、とりわけこの時間が大好きだ。

 6時になると、センリムは妹の手を引いて小学校へと出発する。センリムは 妹と一緒に入学したので、妹と同じ小学2年生だ。

 小学校は村から5キロ離れていている。近所の子供たちと連れ立って、国道 を1時間かけて歩いてゆく。交通事故にあった友達もいるので、気をつけなけ ればならない。それに、卒業が遅れている女の子には、別の危険がつきまとう。 帰り道、マフィアにさらわれて、プノンペンで無理矢理に働かされたりするこ とがあるのだそうだ。だから、年頃になると娘を学校に行かせなくする親も少 なくない。

 カンボジアの小学校は、午前の部か、午後の部か、どちらかを選択して授業 を受けることになっている。おかげで弁当を持ってくる必要がないので、貧し い家の子は助かっている。本当に貧しくて栄養不良の子供には、学校が御飯を 食べさせてから帰宅させている。これが目当てで、学校に来ている子供も少な くない。逆に、豊かな家の子は、午前の部を受けたあと、午後に開かれる特別 授業を受けてから家に帰っている。これは、先生たちのアルバイトなので有料 だ。これを受けていると、中学校への進学が有利になる。もっとも、センリム には関係のない話だけど・・・。

 さて、いつも午前の部を受けているセンリムは、真昼の12時ごろ、家へ帰 ることになる。それは、一日でも最も暑い時間帯だ。地獄のように暑く眩しい 家路を、センリムは妹と手を取り合ってたどる。鳥さえ飛ばぬ灼熱の青空の下 を、センリムたちはまた1時間かけて、もくもくと歩いて帰るのだ。

 家に帰りつく頃には、お父さんも、お母さんも仕事を終えている。そして、 昼御飯の時間だ。お母さんを手伝ってソムローというスープを作り、みんなで 食べる。

 午後になると、センリムは牛追いの仕事をしている。カンボジアの農村では 牛は欠かせない。鋤を引かせることもできるし、荷車をつけて物を運ばせるこ とだってできる。

 センリムは草の生えている場所を選んで、牛の尻を木の細枝ではたいたりし ながら歩く。しかし、その草むらには、地雷が埋まっているかもしれないこと をセンリムは知っている。いつも歩きなれたルートしか歩かないようにしてい るが、牛が草むらに分け入って出てこなくなった時は、入って行って引っ張る しかない。とりわけ、子牛を追っている子供は、地雷を踏む危険が高い。子牛 は勝手気ままに走り回るし、なかなか言うことをきかないからだ。日暮れまで には、家に連れて帰らなければならないので、牛追いをしている子供は、仕方 なしに草むらへと入ってゆく。だから、夕暮れ時に足を失う子が多い。

 ちなみに、地雷はセンリムたちの遊びさえ変えてしまっている。昔は、かく れんぼとか、鬼ごっことか、そんな遊びがカンボジアにはあった。でも、今、 そんな野原を駆け回る遊びは禁じられている。女の子の遊びは、ケンケンパが 主流だ。男の子は、メンコ、ビー玉が人気となっている。これだったら、地雷 を踏む心配がない。

 牛追いが終わると、センリムの仕事は終わりだ。陽が落ちる前に夕御飯を食 べ、夜は早く寝る。近くの家にテレビがあり、そこには大人たちが集まって観 ている 。カラオケ番組が人気でみんなが歌っているのが聞こえる。それを聞 きながら、センリムと妹は同じシュロで編んだベッドで、静かに眠りへと落ち てゆく。

 センリムの夢は、お菓子屋さんになることだ。

◆カンボジアの基礎教育

 カンボジアの教育制度を概観してみたい。

 僕がティンスララゥ村へ出入りするようになった頃、つまり1994年には、初 等教育は5年であった。もっとも、これを修了することすら難しい子供が多かっ たので、さらにこれを3年の前期と2年の後期に分け、前期修了者を一定の単 位として認め、証明書が交付されていた。しかし、1996年に初等教育は6年に 延長され、前期、後期、それぞれ3年の小学校制度となっている。

 そして、センリムの話に出てきたように、小学校は午前の部(7:00-11:30) と午後の部(12:30-17:00)の二部制をとっており、それぞれ1時限45分の 5コマの授業がある。これに加えて、5,6年生になると「外国語」の20分 授業が追加される。また、お金を出せば中学校進学むけの補習授業を、さらに 受けることができる。

 カンボジアの基礎教育を理解するうえで、まず欠かせないのは、「カンボジ アには義務教育がない」ということだ。親にも、政府にも、子供たちを小学校 へ通わせる法的義務はない。そして、政府は小学校を建てはするが、教員への 給与(月20米ドル程度)を除き、学校運営に必要な資金はほとんど供出して いない。よって、子供を小学校へ通わせるため、親たちは、教材費、制服代に 加えて、学費やその他の費用を支払わなければならないのだ。1999年のカンボ ジア計画省の統計では、学童一人あたり年間2523リエル(約100円)の負担と なっている。ほぼ自給自足に近い生活をしているカンボジアの農民にとって、 この現金支出は軽視できない負担となっている。

 また、この政府統計に盛り込まれていない出費もある。それは小学校教師へ の賄賂だ。

 カンボジアの小学校では、毎年、進級時の6月から7月初旬にかけて進級試 験があり、これに不合格になると進級できない。この試験は、決して形式的な ものではなく、本当に留年者をふるい分けている。カンボジア教育青年スポー ツ省の統計を紹介しよう。1999年に1年生に属していた児童681,007人のうち、 前年度からの留年者数は28,367人。すなわち留年率は40.9%にもなっている。 全学年でも、留年率は24.6%であった。

 確かに、在籍しながらも登校せず、結果的に進学できるだけの水準に達しな い児童が多いことは事実だ。しかし、この異様な留年率の高さには別の顔があ る。教師たちが、暗黙に賄賂を要求しているのである。親たちとしても、1年 分の学費と働き手を失うことを考えれば、進学させてもらうために2000リエル 程度を出費することは仕方のないことだと受け止めている。もともと、公務員 を働かせるには賄賂が当然のお国柄でもある。誰もが「そんなものだ」と諦め ているかのようだ。

 ただし、その1000リエルが「もう出せない」という世帯も少なからずある。 先ほどの統計では、小学校各学年の平均退学率は14.2%であり、逆に卒業率は 17.6%に留まっている。

◆カンボジア教育の歴史的背景

 カンボジアの教育システムについて、すでにいくつかの問題点が浮き彫りに されてきたかとは思うが、これを論じ始める前に、もう少し歴史的な背景につ いても振り返っておきたい。教育が未来への布石であるならば、過去の布陣が 現在に何をもたらしたのか、これを検討しておかなければならないだろう。

 教育に限らず、カンボジアの近代史は、1)フランス植民地時代以前、2)植民 地時代、3)独立後のシハヌーク時代、4)ポル・ポト支配を含む内戦時代、5)社 会主義のヘン・サムリン時代、そして6)国連統治を経た現代カンボジアの6期 に分けることができる。

 まず、フランス植民地になる前のカンボジアには、王国レベルでの教育制度 は存在しなかった。地域のカンボジア人にとって、何かを学ぶ場とは仏教寺院 であり、仏日に説法を聞きに寺に集まることがカンボジア基礎教育の姿であっ た。さらなる教養を身につけたい男子には、農閑期のみの出家が可能であり、 ここで読み書きを学ぶことができたという。もちろん、女子にはこうした教育 の機会は与えられていなかった。

 フランス植民地になると、近代的な教育制度が初めてカンボジアに導入され ることとなった。1910年、公立小学校が制度化されたが、しかし、当初それは 都市部にのみ開校され、授業もフランス語とされていたという。このため、公 立小学校が全国規模で展開するのは困難であった。時代が変わろうとも、やは り農村にとって基礎教育の場は仏教寺院であったのだ。これに着目した植民地 政府は、やがて、この仏教寺院の機能を公的な教育制度に巻き込むことにした。 仏の慈悲もまた、植民者の恩恵としたかったわけだ。1911年、「刷新寺院学校」 の名のもとに、教育を担ってきた仏教寺院が制度化された。教育者は僧侶であ り、運営予算の大半は農民の布施であった。ともあれ、このフランス流の公立 小学校と伝統的な刷新寺院学校が併存する当時の教育制度は、のちの血みどろ の内戦の伏線となるものでもあった。この頃から、カンボジアでは、都市部に 中産階級が誕生し、農村との間に明らかな乖離を発生させはじめていた。

 政治に無関心なプレイボーイと噂されていたシハヌーク王子に、インドシナ 総督は18歳にして王位を与えたが、これは完全に裏目に出た。大国の思惑を 利用しながら驚異的な外交能力を発揮し、シハヌークは血を流すことなくフラ ンスからの独立をなしとげた。1953年のことである。

 崇拝とも言える国民からの信頼を得たシハヌークは、強力な指導力を発揮し ながら国家建設を進めはじめた。とりわけ「教育の充実」をシハヌークはカン ボジア近代化の柱とした。このことは、当時の国家予算総額の2割もが教育分 野に配分されていたことにも端的に現れていよう。


カンボジア国家予算の配分
1966年1999年
教育予算19%8.3%
軍事予算21%40%

 シハヌークは公立小学校を急速に整備し、全国に展開させた。さらに、独立 した頃には8校しかなかった中学校と高等学校も、1962年には54校にまで拡 大。ひとつもなかった大学も、1966年には7大学37学部にまで展開させた。 また、女子教育にも門戸を拡げており、仏教大学を除く全ての公立学校が男女 共学とされた。

 こうしてカンボジアの近代教育制度は確立された。しかし、1960年以降、皮 肉にもこの急速な教育機関の整備が社会不安を引き起こすことになってしまっ た。高等教育を修了した若者が急増しながらも、かれらの学歴に見合う雇用の 整備が間に合わなかったのだ。

 教育の充実はいつも美しく語られる。しかし、とりわけ中・高等教育の整備 を急ぐと失業率が増大することは、語られるべき事実だ。カンボジアの農民に 中等教育を施せば、彼が「農民なんかやってられるか」と都市へ流れゆくこと は、一面の真実であろう。教育を整備するなら、地方の社会整備を忘れてはな らない。アラブ産油国の多くが、無料の高等教育を国民にサービスした結果、 それが失業率を上昇させ、都市部の社会不安へと発展していることも、ここで 思い出しておきたい。

 さて、シハヌーク統治が崩壊し、カンボジアが内戦時代へと突入していった 背景にも、こうした社会不安があった。一部の学生たちはシハヌークに不満を 持ち、既得権益を憎悪する左翼運動へと参加していった。ポル・ポトもまたそ うした当時の若者であり、植民地時代に顕在化していた都市と農村の対立を利 用して、やがて政権を確立した策略家であった。

 1975年、ポル・ポト率いるクメール・ルージュによりプノンペンは制圧され、 民主カンプチア政府が誕生する。同政府は、欧米の影響を徹底して排除するこ とに、偏執的にまでこだわった。一夜のうちにすべての学校、寺院が閉鎖され、 書物は破棄された。教員、僧侶を含むインテリ層は社会の敵として徹底的に弾 圧された。そして、教育を受けた経験のある人々のほとんどが、虐殺されるか、 国外へ逃亡していったのだった。現代カンボジアの復興が困難だったことには、 こうして、近代化への人的・物的資源が、ほとんど失われていたことも大きな 要因となっている。

 クメール・ルージュの狂気に危険を感じたベトナムは、1978年12月25日、大 軍でカンボジアに侵攻。翌1月6日には、プノンペンは陥落し、クメール・ルー ジュはタイ国境地帯にまで敗走した。こうして、ヘン・サムリン政権が誕生す る。

 ヘン・サムリン政府は、ポル・ポト時代に崩壊した教育制度を復活させるこ とに力を注いだ。政権誕生後2年間で、約5000の小学校が再開された。また、 極端に低下していた識字率を向上させるため、成人への再教育を目的として2 度にわたる「識字3ヵ年計画」が実施された。事実、これはクメール文明の命 運をかけたプロジェクトだったと言っても過言ではなかった。クメール文字を 読めるカンボジア人が、激減していたのだ。この地道な計画は、相当の成果を もたらしており、カンボジア成人の半数近くが、この計画によりクメール文字 が読めるようになったと推定されている。

 ただし、ベトナムの社会主義思想を導入した同政府は、宗教活動を制限し、 僧侶が教壇に立つことを認めなかった。このため、地方における人材不足は顕 著であり、学校はあっても教員がいないという状況が散見されたという。

 もう一点、ヘン・サムリン政府が教育復興に手間取った理由がある。それは、 同政府が外国軍の侵攻による樹立だったため、国連から非難され、国際的に承 認されなかったからである。当時、日本を含め先進諸国の多くが、ポル・ポト による民主カンプチアを依然として正統政権と認めていた。むろん、東西冷戦 が背景にあることは言うまでもない。ともあれ、ヘン・サムリン政府は、西側 諸国と国際機関(ユニセフとWFPを除く)からは無視され、支援の手はさし のべられなかったのだ。政権は不安定なままであり、これに反抗する三派(シ ハヌーク派、ソン・サン派、クメール・ルージュ)との泥沼の内戦が継続する こととなった。よって、復興のための足取りは、極めて緩慢なものに留まって いた。

 東西冷戦構造の崩壊とともに、世界秩序のバランスは大きな転回をみせる。 カンボジアも例外ではなく、1991年、パリ和平合意を達成。カンボジアは国連 暫定統治の新時代を迎え、本格的な復興を開始する。

 1994年12月、教育青年スポーツ省主催で開催された教育円卓会議において、 カンボジア新政府は『基礎教育への投資の枠組み 1995-2000 』を発表し、基 礎教育分野へ約1億米ドルを投入することを示した。この計画がどの程度の成 果を示したかについては、いまだ検討の段階にあると言ってよい。ただ、計画 された予算が実際に配分されたかについては疑問視されている。この期間中に も、何度もクーデター騒ぎがあり、軍事予算に転用されたと推定されているか らだ。

 いまもなお、カンボジアの基礎教育は予算不足にあえいでいる。学校建設は 内戦後のベビーブームに追いついておらず、設備も劣悪、教科書の開発も遅れ ている。また、教員の基本給(月20米ドル程度)は、あまりにも低水準であ り、有識者は教員になりたがらない。

 加えて、カンボジアの教育分野において、強力なリーダーシップが存在しな いことの弊害もある。援助に依存したカンボジア政府の発言力が弱いことは言 うまでもなく、そうした状況でリーダーシップを発揮すべき国際機関もまた、 ヘン・サムリン時代に放置していたことが影響して、その頃から地道に学校建 設や教員養成をしていたNGOに強く言えないという状況がある。まさに、政 府、国際機関、NGOの三つ巴で喧々諤々。カンボジアの基礎教育は、いまだ 内戦後の混乱期にあると言ってよい。

【高山義浩】


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