■ 娼婦のこころを盗むには

2002年6月16日


◆音と色

 養老孟司という解剖学者の講義を受けていたとき、私は「なるほどそうであっ たか」と強く感心させられたことがありました。そのとき彼は、穏やかそうな 表情と相反する、助平ったらしい眼球をキョロキョロさせながら、こう述べた のです。

「人間というのはですね、ものごとを構造的に、あるいは動態的にという二面 性においてとらえることしかできないんですよ。いいですか、これは脳の構造 をきちんと検討すれば自然にゆきつく結論なんです。まず、構造の認知、すな わち《もの》認知です。これは視覚機能に由来します。一方、動態の認知、つ まり《こと》認知は、聴覚機能に由来しています」

 この養老の指摘について、私がなるほどと思ったのは、「なぜゴーゴーバー には、かくも騒がしい音楽が流れつづけ、娼婦との会話はままならぬのであろ うか?」という疑問がかねてよりあったからです。

 しかし、この解剖学的指摘をもって「なるほど、客の聴覚機能を障害し《こ と》認知を奪おうとしていたのであった。視覚機能だけであれば構造認知しか 成立せず、すなわち娼婦の《もの》化が促進されるのであろう」ということに 思い至りました。

 自分の足音すら奪ってしまうような都会の騒がしさもまた、現代社会の《も の》化を促進しているかもしれません。和歌や俳句など古典の世界が、とりわ け「音」にこだわっていたのも、《こと》認知へのこだわりがあったのではな いでしょうか。私たち日本人が古くから信仰しつづけてきた対象が『観音』で あり、キリストの教えを『福音』と訳したことは、思えば興味深いことです。 一方で、視覚がもたらす「色」には対称的な意味があるようです。その華やか なイメージの影には、欲望に翻弄される人の悲しさがあります。

 ゴーゴーバー、あるいはディスコで踊る女性を前に、《こと》認知は、こち らの気持ちを萎えさせるだけです。コギャルと遊ぶうえで、あらかじめ耳をふ さいで「音」を消し、「色」に頼るようにしておくことは、とても大切なこと だったのです。

◆構造の認知

 ところで、飛行機のなかというのも、また聴覚機能を相当に奪ってしまう空 間です。

 その日、台湾発バンコク行きの機内で、私はもっぱら隣のスウェーデン人の 女の子に軽く興奮しておりました。「白人女性には自分は興味を抱かぬはずな のにおかしいな」と不可解にも感じていたところ、彼女の母親は日本人である との情報を入手し、安堵とともに、「ハーフなら可能であったか」と自分の世 界が広がるような喜びを覚えたりしていました。

 一方、通路をはさんで私の左側には、やはり一人旅らしき日本人女性が座っ ていました。当初、私はその女性になんら関心を抱くことはありませんでした。 素っぴんで髪を無造作に後ろで束ねた横顔は「ああ、そうですか」というぐら いのモノに過ぎなかったのです。

 ところが、機体がバンコク着陸の準備体制に入りだしたとき、膠着していた 状況に大きな変化が訪れました。私の視線が右から左へと急旋回したのです。

 かの日本人女性が、猛烈な勢いで化粧をしはじめたのです。こう書くと、さ らに興ざめと思われる諸氏が多いことでしょうが、彼女の場合は違いました。 飛行機のなかで変化してゆく彼女は、『ナウシカ』や『紅の豚』など、宮崎駿 作品の定番ともいえる「少女が飛翔しながら成熟した女性へと脱皮してゆくエ ロス」を髣髴(ほうふつ)とさせるものだったのです。最後に束ねた髪が解か れ、彼女の栗色のソバージュがはためいたとき、私の追尾装置つきトマホーク もまたロックを解除されたのでした。

 タイへの入国後、即座に彼女を拉致してタクシーに乗り込みました。そして、 ようやく話は《こと》の世界へと移行してゆきます。

◆動態の認知

 明らかに私より5、6歳は年下でしたが、車内での彼女の物腰は浮き足立つ ことなく、自分の置かれた状況を楽しんでいるようでした。話し方にも落ち着 きがあり、私の気の利いたセリフに、上手に相槌を打つテクニックもさりげな く披露する余裕もみせていました。

 さて、驚くべきことに彼女は娼婦でした。

「コールガール?」
「そうよ、もともとは中洲で泡姫してたの。でも、抜擢されて、いまは会員制 のクラブで働いてるのよ」

 彼女によると、そのクラブは、その筋ではかなり有名らしく、多くの芸能人 や政治家など、プライバシーに神経質な人々が登録しているとのことでした。 興味が加速してゆき、このような質問をしてみました。

「んで、君と寝ようと思ったらいくらなの?」
「10万円よ」
「じゅーまんえん!!」
「もっとも私の手取りは半額の5万円だけどね。うちのクラブでは、アットホー ムに演出されたマンションを準備してお客に都合しているから、経費が結構か さんでんのよ」

 私の目の中では、スロットマシンのようにハートマークと円マークがぐるぐ る回っていたことでしょう。

「一夜で10万円ねぇ」
「10万円よ。でも、チップは別」
「・・・だんだん腹が立ってきた」
「どうして? 手が出ないから?」

 彼女は平然としていました。明らかに私はお客以下の存在です。優劣がつけ られていました。

「世の中にはなぁ 真面目に働いて月10万円て人も沢山いるんだ」
「あなた真面目に働いてるの?」
「・・・」
「そうは見えないわね。月曜日にバンコクでナンパしてるくらいだから」

 最悪です。どうやら私は危険牌をツモってしまったようです。もう、捨てた くても、捨てられない。あがる見込みもなく、流局待ちの状態です。

「この街の娼婦を知ってるかい?」
「あなた良く知ってそうね」
「いや、そういう問題じゃなくて・・・」
「どういう問題?」
「彼女たちのなかには、1晩数百円って娘もいるんだよ。つまり、1年間毎日 働きつづけて、ようやく君の1晩分になる。君の魅力は認めるが、しかし明ら かに不公平だ」

 彼女はニヤリと笑って、こう言いました。

「あのね、誤解がないように言いますけど、あたしはお金なんてどうでもいい の。お金なんて結果よ、結果。第一、お金目的の子なんて、うちみたいなクラ ブでは採用されないの」
「へえ、じゃ色好みかい。君は」
「さあね、でもあたしは自分を解放する感覚が好きなの」
「なんだそりゃ」

 彼女はまた別の側面を持ち合わせていました。度重なる記憶喪失があり通院 治療を受けているのだそうです。ソープで働き出したのは、その記憶喪失がは じまってからなのだそうでした。

「記憶を失うこと自体は問題だけど、失った状態で自分を解放するのは、とて も気持ちがいいの。わかる?」
「なんとも言えん」
「とにかく、そうなの」

 その夜、彼女はパッポン(バンコクの売春街)のクラブを見たいというので、 連れて行くことになりました。「あたしね。副業で中洲のクラブの内装デザイ ンもやってんのよ。参考になるかしら」とのこと。

◆娼婦の涙

 この話は急速に収束します。私と彼女は、パッポンを何軒も梯子しながら、 何時間も飲み続けました。ここ数年なかったくらいに飲み続けました。そして、 ついに彼女は、ある場末の薄汚れた2階のバーでパッポンの娼婦に抱きしめら れたまま、大声をあげて泣きはじめたのです。これがおそらく、流局の瞬間だっ たのでしょう。ただ、ひとつの問いを残していました。

 彼女の涙は自分自身に流されたのでしょうか? あるいはゴーゴーバーで踊 るタイの貧しい娘たちに流されたのでしょうか?

 前者であったとしたら、軽くはじけるような笑いを返すべきです。もし、後 者であったとしたら・・・ それは悲壮な涙であり、まるで運命の暗がりに通 じるかのような、重い予感を伴っていることになるのでしょう。

 ただ、どちらであったとしても、娼婦の涙というのは常に集団の力学の外に 零れ落ちてゆきます。そして、私もまたそれを受け止める立場になかったので す。だから、私はどちらであるかの問いを発することなく、彼女と別れたので した。もっとも彼女自身、その問いを逡巡しているのではないかと思われまし た。彼女が記憶を捨てた娼婦である限り、永遠に続く問いであり、それ自体と しては肯定されなければならない問いなのです。

 ふと、私は彼女の涙を受け止めるためには、むしろ《娼婦=もの》として徹 底して彼女を純化させれば良かったのかと、いま思い返しています。

 ルパン三世の映画版に『カリオストロの城』という作品があるのを御存知で しょうか。陰湿なカリオストロ伯爵との結婚を強いられ、塔の中に囚われたク ラリスを救うため、ルパンは城へと忍び込んでゆきます。そして、少女の前に あらわれ、精一杯明るく振舞いながらルパンはこう言うのです。

「私の獲物は、悪い魔法使いが高い塔のてっぺんにしまいこんだ宝物・・・。 どうかこのドロボーめに盗まれてやってください」

 ルパンは、あくまでクラリスを《もの》として扱おうとします。これは、ヨー ロッパの騎士物語に通ずる《お姫様=もの》の伝統を守ったものでもありまし た。お姫様の意思など《こと》は排除されているのです。しかし、《もの》と することが、すなわち人間性を否定したことにはならないようです。なぜなら、 ルパンとクラリスがそうであったように、それゆえに2人の絆は強く結び付け られてゆくからです。

 ルパンの言葉に返されたクラリスの台詞(せりふ)は、とても印象的なもの でした。そこには、《もの》に与えられるべき愛のかたちを端的に示されたも のだったからです。すなわち、こういうものでした。

「私を自由にしてくださるの・・・!」

【高山義浩】


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