■ ナウシカが残したメッセージ

2001年11月28日


◆小サキ者の物語

 宮崎駿による『風の谷のナウシカ』(徳間書店)において、忘れられないシー ンがある。

 軍事国家トルメキアの圧倒的な攻撃にさらされ、宗教原理主義をかかげる土 鬼神聖帝国は崩壊の危機に瀕し、最後の切り札として巨神兵を自らの国土に導 入しようとしている。巨神兵は世界を焼き尽くす力をもつ最終兵器である。多 数の難民があふれ、逃げ惑い、混乱は内紛さえ引き起こしている。そのとき、 主人公ナウシカが難民たちの前に舞い降り、こう訴えるのだ。


見て下さい
何がおころうとしているのかを・・・

まだ殺し足りないというのですか!?
もっと大地を毒で汚したいというの!?

憎悪と復讐は何も生み出さない
憎しみが世界をこんな風にしてしまったんです

苦しみを分かちあって生きる方法を私の一族は知っています
憎しみより友愛を
(一部省略)

 『風の谷のナウシカ』を映画でのみ観たという人は、このシーンを御存知な いかもしれない。これは、コミックス6巻におけるエピソードである。実は、 映画版は、コミックス2巻の中盤までの話であり、しかも登場人物や物語の背 景を子供向けに簡略化してあった。

 そもそも『風の谷のナウシカ』は、産業文明崩壊後、蟲の攻撃、腐海と呼ば れる森からの有毒ガスなど、人類が自然からの猛襲にさらされる時代を背景と している。そこでは、人類同士も残された土地を奪い合い、戦闘が絶えなかっ た。

 映画版では、ナウシカが、「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つ べし」という予言を実現したところで終わり、その意味は明かされないままで あった。一方,コミックス版によると、その後、戦役は拡大し、ナウシカも戦 闘に参加することを余儀なくされる。しかし、ナウシカはそうした中でも、人 類を苦しめる「森」とは何かを考えつづける。そして、有毒な森も与えられた 自然であり、自然と対立するのではなく、森を愛し、蟲を愛すことが生きぬく 道だと気がつくのだった。彼女はやがて、その思想を「蟲使い」ら蔑まれる者 たちから伝えはじめ、ついには熱狂的な支持をもって民衆に迎えられてゆく。

◆輪廻する王権

 さて、『風の谷のナウシカ』を王権論の物語と捉えなおすと興味深くなる。 言語学者エミール・バンヴェニストは、その代表作『インド=ヨーロッパ諸制 度語彙集』(言叢社)において王権をギリシア的王権、ローマ的王権、イラン 的王権の3類型とし、その輪廻について考察している。

 彼が最初に指摘するのはギリシア的王権である。大陸に生まれた村々は、次 第に祭官や族長を〈王〉にすえるであろう。村人たちは身近な〈王〉を誇りに 思うことで共同体を維持する。この王権は神々によって例えば王杖のような権 力の象徴を与えられ王国を支配する。王国はもっぱら小国であり、近隣諸国と の調和が存続の要素となる。〈王〉は確かに支配者であるが、宗教的権威との 調和、そして何より領民の支持が国家の維持に不可欠となっている。

 やがて、大陸の村々は成長とともに紛争と連合を繰り返し、やがて2つの勢 力にわかれ敵対する。そして、兵器の技術革新をとげた側が勝利し武力を背景 に大陸を制圧するだろう。これがローマ的王権の誕生である。ローマ的王権は、 神によって与えられる類のものではなく、武力で獲得されるものである。〈王〉 はその権力により領土の民を服従させる。おそらくは、この〈王〉はアメとム チを最も効果的に使い分ける技を身に付けているであろう。帝国主義をかかげ、 周辺のあらゆる富を奪い去り、あらゆる恐怖を周囲に振り撒きながら、強大な 王国は他者を否定し肥大化し続ける。

 しかし、軍事力を背景にした王国は、宗教との調和に失敗し、民衆の支持を 得た宗教指導者によるクーデターで駆逐されてしまう。そして宗教指導者は直 接の政治にはふれず、諸侯にそれを委ね、彼の帝国を構成する諸侯たちの上に 君臨し、その神秘の権力でもって支配する。これがイラン的王権である。この 〈王〉は神・自然とも一体となり、帝国を彼の身体の一部のように操る。

 だが、指導者の代替わりによる宗教の変質と、各部族信仰の復興に伴い、諸 侯の政治力が増強され、やがて神秘の権力は消滅してしまうだろう。こうして、 ギリシア的王権へと戻り、果てしない権力ドラマは引き継がれてゆく。

 なお現代は、「民主主義」という宗教に帰依したイラン的王権の時代と呼べ るかもしれない。しかし、ナショナリズムやファンダメンタリズムなど、地域 的な信仰が息を吹き返しつつあり、いままさに、ギリシア的王権の時代へと解 体してゆこうとしているかのようだ。

 『風の谷のナウシカ』では、旧エフタル王国群(風の谷、砂の谷など)がギ リシア的王権に、トルメキア王国がローマ的王権に、土鬼神聖帝国がイラン的 王権にと、それぞれの王権に当たっており、その特徴をよく伝えてくれている。

 ナウシカは、この血みどろの輪廻をくりかえす王権の時代に、「その者、青 き衣をまといて金色の野に降り立つべし」という予言とともに降り立つのだっ た。その様は、揚子江流域から稲作文化を伝えた弥生人の神、ニニギノミコト を彷彿とさせ、その後に、ナウシカが語りはじめる「人々の和」と「自然への 敬愛」は、縄文人と弥生人の出会いのなかで作られたといわれる、『古事記』 の精神を思い出させる。

◆ナウシカにみる古事記の世界

 日本文化の起源を縄文文化と弥生文化の対立の経緯にみるのは、近年の日本 研究者の統一した見解である。ここで、この文化対立を『古事記』の中からの ぞいてみよう。

 アマテラスの子孫ニニギノミコトは、天つ神と称し中国揚子江流域より稲作 文化を携え日本にやってきた。これが弥生人である。一方、縄文人はスサノオ の子孫オオクニヌシを国つ神として崇めていたようである。やがて弥生人が勢 力を増し縄文人を吸収する。吸収する側が吸収される側の神を自分等の神の弟 妹にするのはギリシア神話成立の経緯と同じで、『古事記』でもスサノオはア マテラスの弟と位置付けられている。ただ、吸収する過程が武力によるギリシ ア神話とは異なる。アマテラスは拍手で迎えられたのである。この拍手は現在 の神道の柏手の起源とされ、慶祝と和合を宗教儀礼にもちこむ神道の一面であ る。なぜ、武力による制圧ではなく、慶祝と和合が民族融合の象徴となり得た のか。これは、気候の変化等により飢餓に苦しんでいた採取・狩猟民であった 縄文人が、稲作文化に積極的に帰依したことを意味しているのかもしれない。

 『風の谷のナウシカ』には、血みどろの総力戦が繰り広げられる西洋神話的 な世界へ、『古事記』を放り込んだような印象がある。

 ナウシカとは、自然に心を奪われた無邪気な少女にすぎなかった。あるいは、 人をあやめては泣きくずれる初々しい兵士であった。西洋的な観点からすると、 明らかに〈王〉としては失格である。しかし、限られた地球、そのことを察し 不安におののく民衆という設定では、たしかに、魔法を操る王(土鬼神聖皇帝) や、軍事力に優る王(トルメキア皇帝)には答がないのかもしれない。権力や 主義、あるいは武力ではなく、日本的な美的意識(西洋において、ヒトが「知 恵のある生命」として定義されたならば、日本においては、「歌をうたう生命」 として定義されていた)に支えられた「小サキ者」への融和とカタルシスが、 そうした時代への答として提案されている。

 〈王〉としてのナウシカには、3類型とは別の、幼童天皇という日本人が歴 史のなかで紡ぎつづけてきた抽象化された天皇像がみてとれる。例えば、平安〜 江戸時代の天皇の即位時期は、ほとんどが10〜20才であったように、日本 人は、もしくは時代は、〈王〉としての実質的権力を天皇に求めてはいなかっ た。上半身におしろいを塗り、紅をつけ祭衣で駆け回る幼子の姿、美しいもの を美しいとめでる純粋な心を持つ弱者を〈王〉の理想と日本人は考えたのだっ た。関門海峡に身を投じた安徳天皇に動揺し、国の平安に努力するのが日本国 維持の手段であった。あるいは、マッカーサーが昭和天皇とならんで写真を撮 り、国民に示したとき、一般に日本人が昭和天皇を「かわいそうだ」と受けとっ たという話にも、これはみてとれるのかも知れない。ローマ的王権の試みは通 用しなかったのである。

◆ナウシカのメッセージ

 ナウシカの森と蟲、そして人間に対する愛は、日本人の自然崇拝をよく表し ている。その昔、日本では森は聖なる空間であり、オオカミ、キツネなど、そ こに生きるものは神であった。そして人間もまた、その自然の一部であった。 日本人はこうした自然に怖れと敬いをもって、ときにその美しさに恍惚をおぼ えながら付き合ってきた。

 若者から年配者までが『風の谷のナウシカ』に高い評価を下し、ナウシカと いう〈王〉を認め、その美意識に心うたれたという事実は、日本人が21世紀 の諸難題で独自の優れた世界観を提起しうる可能性を感じさせる。いま、自然 からの報復を受けつつある人類が持つべき自然観とは、科学により自然を対象 化し、正確な認識を得ることではないだろう。自然を慈しみ、守ろうとする一 方的なやさしさでもない。また、いがみ合う人々を仲裁するのは、正義による 制裁ではない。こうした者たちにナウシカが語りかけたのは、自然と語り合い、 ときに怖れ、ときに敬う、友愛の精神だった。このことは土鬼上人の皆苦と無 常の言葉に対し、ナウシカが放つ、次の叫びに集約される。


ちがうわ!!
私たちの風の神様は生きろといってるもの
わたし生きるのすきよ
光も空も 人も蟲も
わたし大好きだもの!!

◆おわりに

 この短い小論をまとめるきっかけとなったのは、ナウシカの出身地として設 定された「風の谷」のモデルが、パキスタンの「フンザ」という渓谷にあるこ とを思い出したからである。

 このフンザとは、アフガニスタン難民が溢れはじめているペシャワールから 北東に中国方面へと分け入った谷間にある。不毛の山肌がそこだけ突如として 緑豊かな風景へと変貌することで、ここはバックパッカーにとって有名な休息 地となっている。また、この地方には、アレキサンダー大王の遠征軍の末裔と も言われる部族が住んでおり、青い目に金髪の人も珍しくはない。ここを訪れ る人は、誰もが、中央アジアが歴史のるつぼであり、民族のるつぼであること を再確認させられる。

 いま、この中央アジアが再び混乱の舞台となっている。「さらなるこじつけ」 と笑う読者も多いことと思うが、ひとつの思考実験として、最後のまとめにお 付き合い願いたい。

 アフガニスタンでのアメリカの軍事作戦は、『風の谷のナウシカ』における トルメキア王国による土鬼征伐に酷似してはいないだろうか? 言うまでもな く、宗教原理主義をかかげる土鬼神聖帝国を演じるはタリバン。そして、トル メキアと同盟する旧エフタル王国群は北部同盟が演じてくれている。そして、 その先には何があるのか。言語学者バンヴェニストはどう読み解くのだろう。 ナウシカは何を叫ぶのだろう。

 アニメーションという架空世界とアフガニスタンの過酷な現実。これを不器 用に対比させることは、極めて無礼な試みだったかもしれない。それでも、た だ漠然と僕は「この騒乱のなかで日本人が、どのようなメンタリティを築いて ゆくべきなのか」、これをナウシカが訴えているような、そんな夢想をしてし まうのだ。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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