■ ちかの逆噴射紀行(4) 「豊かさを探して」の巻

2000年7月19日


◆みえない戦争の傷跡              ――9月 3日――

 プノンペンでの1週間はあっという間に過ぎさり、私たちはスピードボート でシェムリアップという町へと移動しました。シェムリアップとは、世界遺産 として有名な《アンコールワット》のある町です。

 スピードボートは蒲鉾をひっくり返したような形をしていて、船内は窮屈で したが、屋上に登って寝転ぶと、とても気持ちがよかったです。内戦後、間も ないころは、このスピードボートも危険だったということです。屋上で寝転ん でいた旅行者が狙撃されたり、海賊化したゲリラに襲撃されたり... ほんとに 数年前までは、そんな国だったそうなんですが、でも私がみた河沿いの風景か らは、とても想像できないことです。

 ジャングルの切れ目に現れる村々は穏やかで、子供たちが私に手を振ってい ました。雨季の水田は青々としていて豊かなものでした。トンレサップ川は、 日本の川とはまったく違っていて、見渡たすかぎりの水の広がりなんですね。 長〜い湖のよう。樹々ですらその水面から顔を出していました。そこに、戦争 の影はみえません。平和な湖面が、ただ広がっているのです。

 カンボジア内戦は1970年に火がついたといいます。ベトナム戦争で泥沼 にはまっていたアメリカが、戦線をカンボジアまで拡大し、たくさんの空爆で 数万人を犠牲にしたということです。しかし、この戦争はクメール・ルージュ が首都プノンペンを制圧することで終了しました。しかし、その数時間後から 新たな内戦がはじまります。クメール・ルージュは、知識人や都市に住む人間 など「堕落した」人間を虐殺しはじめたのです。歴史的にも類を見ないほどの この大量虐殺は、100万人を越えたとも言われているようです。

 このクメール・ルージュによる虐殺は、1979年、ベトナム軍がプノンペ ンを制圧して終わりを告げます。けれども、これで内戦が終わったわけではあ りませんでした。ベトナムに支援されたヘン・サムリン政権と、欧米や中国な ど各国が支援する各派閥との泥沼の戦争が、さらに10年以上も繰り広げられ たのです。

 そして、カンボジアの国土は荒廃しました。地雷が散らばり、道路は破壊さ れ、学校も失い、人々の心には深い傷が刻まれたということです。

 これは、私が日本で予習してきたことでした。でも、私にはその戦争の傷跡 がどうしても見つけることができません。豊かな大河、子供たちの笑顔、本当 にこの国でそのような悲劇が何十年も続いていたのでしょうか。それとも、人 間というのは、こんなにも早く生活をとりもどし、笑顔をみせるようになるの でしょうか。あるいは単に私の目が曇っているだけなのかもしれません。これ までも何度か書いてきましたが、この疑問が、カンボジアを旅する私にとって 最大のテーマとなったように思います。

◆タケオ・ゲストハウス

 早朝6時に出たボートは、昼過ぎにシェムリアップの船着場に着きました。 ここはトンレサップ湖の北の端にあたります。岸辺には見渡すかぎり人がいま した。みんな、ボートで着く観光客たちをつかまえて、自分たちのゲストハウ スに連れ去ろうという魂胆のようです。

 この混沌とした状況で高山先輩は、どうやって良い宿を選ぶのだろう?

 興味津々に先輩を観察していたんですが、何のためらいもなく、最初に声を かけてきた客引きについて行くようです。「選ばないんですか?」と私が聞く と、「いいんだよ。値段が安けりゃ、あとは一緒。観光地の宿探しなんて、全 弾装填のロシアンルーレットみたいなもんだからね」とのこと。旅慣れると、 あきらめの境地に至るのでしょうか? 結局、私たちは引っ張りだこになりな がらも、タケオ・ゲストハウスへ行くというガイドについて行ったのでした。

 私たちは、小さなトラックの荷台によじのぼって、町の中心へとむかいまし た。トラックで揺れながら気がついたのは、カンボジアの町にもいろいろある のだということです。いま思えば、プノンペンは都会でした。バンコクの近代 的な雰囲気はないけど、車や自転車が多かったことに気がつかされました。し かし、ここシェムリアップは町の中心部へ入っていっても、木造の田舎小屋が たくさんあるし、車もひっきりなしに往来するわけでもなく、クラクションの あのやかましい音もまず聞くことはありませんでした。そうそう、空気も違い ます。土埃はあるけど、プノンペンのように乾いてはいません。ここは少し湿 り気のある世界。美味しい空気。

 さて、宿に着きました。タケオ・ゲストハウスの第一印象は、一言で言って 「すっごい汚い」。薄暗いし、床はビニールでしめっていて、ゴミ、ほこり、 髪の毛がこびりついています。裸足で歩くのがためらわれるほどですが、宿の おばちゃんは靴を脱いで上がんなさいと言うのです。でも、イヌはそのまま入っ てきて、室内でえさをあさっています。

 まあ、泊まれるなら確かにいいんですが、でも、ここまで来る途中でいくつ か見かけたような綺麗な宿に泊まりたいなあと正直思いました。でも、高山先 輩はテキパキと料金交渉を進めていて、もう口には出せません。

 唯一、「いい宿だなぁ」と思ったのは、着いたときに、インスタントラーメ ンをおばちゃんがご馳走してくれたことでした。チキンラーメン。長いことボー トにのっていたあとだけに美味しかったです。あまり悪口ばかりだと申し訳な いので書いておきます。でも、正直それだけでした。

 私とえりか先輩の部屋は、トイレ兼シャワー室つきでしたけど、その屋根に 大きな穴が空いていて、電灯の光に誘われて蛾がたくさん飛び回っていました。 そして、壁を見ると、蚊がたくさんとまっていました。プノンペンでは気にし ませんでしたが、ここでようやくマラリアの心配を私はしました。シャワーを 浴びる前の仕事は、とにかく蚊を叩き潰しつづけることでした。

◆旅する学生たち

 そうそう、もうひとつ、このゲストハウスに泊まって良かった点がありまし た。それは、宿で会った日本人旅行者たちが、なかなか日本では見かけない感 じの人たちで、面白かったということです。とにかく、1年以上もの長旅をし ている人たちが結構いたんです。

 旅人たちは、夜中までロビーで語っていました。あるいは、タバコを吹かし ながら、ボーとしていました。洗濯物を干しに行った帰りに、私と同じ年ぐら いの男の子から話しかけられました。

「どこまわってんです?」
「プノンペンとここだけです」
「ふ〜ん」

 ちょっと見下したような「ふ〜ん」です。みると彼の肌は真っ黒で、着てい る服もボロボロでした。薄暗い電灯の下ということもありますが、かなり気合 が入った旅人のようです。聞いてほしそうにしていたので、聞いてあげました。

「長いんですか?」
「大学休学してんです」と、彼はちょっと照れたような顔をしています。
「そうなんですか〜」
「写真家にあこがれて、アンコールワットに来たんです。あと、こっちで小学 校を建てたっていう日本人の話を聞いて、僕も感動して。自分にもできること がきっとあるはずと思って来たんです」
「なにかみつかりました?」と、少し追求するような声で私は言いました。
「いいえ、でもきっと見つけたいですね」

 ちょっと、私は彼に対して冷たかったかもしれません。ボランティアしたい という自分の気持ちを批判されていた私は、自分が言われてしまって困ってい た言葉をぶつけてしまったんですね。きっと・・・

 でも、ほんとのことを言えば、「なにもできない」と言いながら、いっしょ うけんめい何かを探している彼が羨ましかったのです。私は言葉をぶつけなが らも、その答えをみつけてほしいと心の底では考えていました。

 彼のように大学を休学して放浪している人が、タケオ・ゲストハウスには何 人も泊まっていました。そんな彼らは、日本では甘えていると思われているん でしょうし、そのボロボロの服はまだあまり似合っていなくって中途半端だっ たけど、それでも私は日本で何にも考えていない学生たちよりも、彼らはよほ どたくましいと感じました。確かに何かに近づきつつあるような印象が彼らに はあったからです。

◆国境をめざして                ――9月 5日――

 とうとうカンボジアを出国する日がきました。ここシェムリアップからシソ フォンを経て、国境の街ポイペトを目指します。そして、今日中に国境を越え てタイ側の国境の街アランヤプラテートに移動し、今夜はそこで一泊する予定 とのことです。

 交通手段は乗合トラック。こうしてカンボジアの国土をじっくり見ながら移 動するのは楽しみです。もちろん、国境を陸路で越えるのだって初めての体験 です。私たちを乗せたトラックは、しばらくグルグルと街中を走りまわり、旅 人たちをかき集めていました。そして、15人近くで荷台がいっぱいになった ころ、勢いよくとまではいきませんが、逞しくガタゴト道を国境めざして走り 出したのでした。

 赤土を固めたような道。作ったばかりなんだということを実感させられる道 です。「道を作るのはたいへんだろうな」としみじみ思いました。途中、田ん ぼの真中で、道が流されてしまってるところがあって、何台ものトラックが立 ち往生していました。

 男たちは、膝まで泥につかりながらトラックを押して切り抜けていきます。 日本人もカンボジア人も、たぶん中国人とか、タイ人とか、とにかくいろんな 国籍の人が一緒になってトラックを押すのです。「すごいなぁ」と思ったのは、 あーだこーだと偉そうにしている人が1人もいないことでした。みんな黙々と トラックを押すのです。

 目的はひとつ、この泥道を切り抜けること。だからみんなで押す。もっとい い方法があるかもしれない。でも、その方法をめぐって喧嘩になっちゃうかも しれない。いま喧嘩をしたら、日暮れまでに国境に着かないかもしれない。だ から黙々とみんなで押す。私はそれを見ながら「アジアっていいな」と、その ときふと感じました。

 私は、いつになくはしゃいでしまって、アホなことに自分自身が泥につかまっ て動けなくなってしまいました。高山先輩が睨みながらやってきて、手を差し 出してくれました。ドライバーもカンボジア語でブツブツ文句を言いながらも、 水をくんできてくれて、足を洗わせてくれました。迷惑をかけて申し訳なかっ たけど、それがまた嬉しくって、ほんとに旅は楽しいと実感していました。汚 い部屋とか、放り出されそうになるほど揺れる車とか、苦労が多いけど、私は 旅をするべきだったんだと思います。

 みんな疲れ果てて、国境に着いたのは8時間後ぐらいでした。国境には、踏 み切りのようなバーがあって、どっちの国でもない場所が100mぐらいあっ て、そこを歩いて反対側のバーを越えたら終わりでした。国境の真ん中に立っ て、振り返るとカンボジアの国旗がはためていていました。

 私は「あ〜 この国を旅してきたんだ」と不思議な気持ちがしていました。 「国境を越えるってこんな感じなんだ」。ピリピリした感じではないけれど、 緊張しました。国境のイミグレの係員たちは、空港の人とは違っていて、大雑 把で退屈そうにしているのが印象的でした。

 国境を越えたとたん道が綺麗になりました。国が違うだけで、こんなに便利 さが違うなんて不思議です。アランヤプラテートの街に入り、私たちは宿をみ つけました。日本から来てすぐだったら不平を言ったかもしれないけど、いま の私には素敵な宿です。お湯はでないけど、たっぷりの水がシャワーから溢れ 出てきます。そして、壁は真っ白で蛾が一匹も止まっていません(奇跡みた い!)。部屋に入ると、そのまま私は倒れこんでしまいました。そして、安心 してしまって10時間ぶっとおしで私は寝たのでした。

◆おわりに 〜たぶん豊かな日本から〜

 以上が、私にとって初めてのアジア体験です。

 高山先輩に「アジアへ行きたい!」と頼んだとき、私は貧しいアジアを想像 していたし、そういう貧しさのなかで、私はやっていけるだろうかと考えたり していました。けれども、アジアの現実はまったく想像を超えたものでした。 それは、「思っていたよりずっと貧しかった」とか、「貧しさの厳しさを知ら なかった」ということではなく、「貧しさ」という尺度自体を、私がもってい なかったということでもあります。

 「カンボジアは貧しい」と言われます。国際的な分類でも「LLDC(最貧 国)」なんだそうです。でも、いったいカンボジアの何が貧しいというのでしょ うか? 「日本に比べればお金がない」。たしかにそうです。でも、それが貧 しさなんでしょうか?

 カンボジアは内戦に苦しんだ国だということです。けれども、私の見た限り ではカンボジアの人たちは、驚くほどの速さで生活を再開し、笑顔をみせるよ うになっていました。いや、「この生活の楽しみ方は天才だ!」と思うことす らありました。いったい、この国は援助なんて必要としているんでしょうか?

 私がこのことを高山先輩に訴えたとき、先輩は「人間はそう簡単に絶望など しないんだよ。何かを思い描こうとしている。そのイメージをいかに助産する か? それが国際協力なんだねぇ」とボソリと答えてくれました。私には謎の 多い言葉でしたが、「あぁ、援助というのは、豊かさとか貧しさとか関係ない んだな。豊かな人でも助けを必要とすることはあるし、それを貧しい人が助け ることもあるだろうし... 」と何か足がかりとなったような気がしたのです。 とにかく、国際協力を貧富の格差で考えるのは的外れだったのかもしれません。

 さて、日本に帰ってきたら、いままで普通に生活していたのに、すっごい綺 麗なんだと気がつきました。「まな板を除菌しましょう」なんてコマーシャル が流れています。変な話です。なんでまな板は白くないといけないんでしょう か? いままで気がつかなかった当たり前のことに、疑問が湧き出しました。 あと、とりわけ感じてしまうのが、トイレがとっても綺麗ということ。いまの 私なら、自信を持ってトイレでだって生活できます。

 集団でいれば、なんでもエスカレートするんでしょう。モノは新しい方がい い、綺麗な方がいいとか、日本は突っ走っているようです。内に内にと、自分 たちの世界だけに目を向けて、どんどん突っ走っているかのようです。疑問が 生まれないんですね。でも、いったん国を越えて違うところに行くと、実は違 う価値があることに気が付かされます。国が違うというのは、それだけで凄い パワーなんです。相手も変化するし、自分も変化します。そのエネルギーが旅 にはあるようです。

 もちろん、お金があるのは嬉しいし、それが一番だと思います。それを否定 して旅をするのではなく、そういうありのままの自分と旅先との違いを原動力 にしてこそ、いろんなことが始められるのではないでしょうか。あえて、貧乏 を装う旅行をしていては、表面的な適応に満足してしまって、違いが見えなく なるような気がします。一生、そうするつもりでないのなら、日本に使える貯 金があるのなら、もっと恥ずかしがらずに恐れずに豊かな自分を受け入れたほ うがいいと思うのです。

 国際協力だってそうなのかもしれません。違いがあるからこそできるんです。 相手の国に溶け込んで、相手の国の価値を自分の価値にするのではなく、自分 の価値と相手の国との価値との違いを直視することが行動の源になるはずだと 思いました。

 いま、私は「豊かなのっていいな」とまず思っています。そして次に、「豊 かさってなに」と考えはじめています。

【小笠原ちか・山口大学医学部学生】


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