■ カンボジアレポート(4) 村落調査のはじまり

2000年12月1日


◆調査の目的

 以前から、カンボジアについての総合的な検証をする時期が来たのだと考えていた。カンボジア援助とは、日本の草の根レベルから政府レベルまでが、国際協力の名のもとに存分に力を注いだ、はじめての例である。関わった人々は、そこに多くの成功と失敗を記憶しているはずである。そして、気付かれぬまま、さらに多くの成功と失敗がカンボジアには眠っている。これらを早く収集し、掘り起こしてゆかなければ、風化は急速に進んでいる。あるいは、絡み合い複雑化し、ほぐせなくなりつつある。

 いま、世界は国際協力という新しいスタイルで結ばれつつある。そして、そのスタイルとは、国々の独自の特徴がよく反映されているべきではないだろうか。僕は、他国の国際協力をよく観察する必要は認めるが、あまり真似るのはよくないと思う。また、普遍的な万国共通の国際協力論を展開するのもどうかと思っている。むしろ、紡ぎ出された文化のような国際協力こそ、生きた援助であり、地に足がついた援助ではないだろうか。

 大手メディアの《事件的報道》やNGOによる寄付金を意識しがちな《悲劇的報告》を鵜呑みにするのではなく、カンボジアの状況を《村の生活》からひも解きながら、カンボジア援助の結果を検証してみたい。僕のこうした考えに共感してくれた仲間たちと、カンボジアの農村部をフィールドに村落調査がはじまったのだった。

◆調査対象の決定

 この調査は、ティンスララウという村をフィールドに、94年8月を第1回として続けられている。様々な形で国際保健研究会(現・国際保健通信)のメンバーたちが関わっており、お年寄りの話を聞いて回った者、水質検査に集中した者、村に井戸を掘りに行った者など、それぞれの活動は多岐にわたっている。また、僕自身は、村に住む帰還難民小児への面接を中心として、これまで6回、のべ68日間、この村を訪れてきている。

 ティンスララウ村とは、コンプンスプー県のプノムスロイ郡に属し、首都プノンペンから国道4号線沿いに南西約75キロに位置している。この4号線は、カンボジア最大の港を有するシアヌークビルとプノンペンを結ぶ幹線であり、多くの外国からの物資がこの4号線を通じて運ばれている。

 調査対象の村を選ぶうえで、なるべくカンボジアの平均的な農村になるよう配慮した。首都からの交通の便も、良すぎず、悪すぎない必要があった。良すぎると都市の経済の影響が強すぎる。悪すぎれば、僕たちが村に通えないし、トラブルに直面したとき避難できなくなる。

 もう一点、大切な条件があった、それは、村長が僕たちの目的を理解してくれて、そして了承してくれることである。そんなわけで僕は、カンボジアに20ある県のうちコンポンスプーという県にターゲットを絞り、6日間かけて14の村を歩き回って対象を探し歩いた。そして、たどり着いたのがティンスララウ村だったわけだ。

 このティンスララウ村の人口は、1994年の夏時点で約600人120世帯ぐらいだった。主要な産業は農業であるが、副業として国道を通るドライバー相手にフルーツや菓子類を売ることで生活の足しにしている世帯も多い。また、村には川がなく、生活用水は、村内の1000平米程の池、もしくは雨季の雨水に依存していた。この村の北と西にはすぐに200メートル程度の山地があり、そこは1995年ごろまではクメールルージュが出没する危険地域とされていた。

 こうした村の状況は、当時の僕の知識から、とても平均的なカンボジア農村だったし、今後の変化を見守るうえで適切なように思われた。それに村長は学生としての僕の目的をとてもよく理解してくれたし、村はずれにある寺院の僧侶たちも友好的だった。そんなわけで、僕はティンスララウ村で調査を開始することに決めたのだった。

 調査内容については、今後、少しずつ紹介していくつもりだが、その方法はとても単純なものである。とにかく、僕たちは戸別訪問をしながら話を聞いてまわったのだった。こうした訪問によって話を聞くことができたのは、94年には41世帯189名、95年には43世帯238名にものぼっている。

 ただし、僕たちは、ただひたすらにデータ収集に専念するのではなく、村民との会話のなかから浮かび上がってくる「生の情報」を大切にするように心掛けたつもりである。そのため、訪問中は調査に無関係な会話も大いになされている。実際、1世帯の訪問に1時間から2時間をかけてきている。

◆村人との出会い

 ところで、このような正体不明の僕たちの存在を、村の人々はあたたかく迎えてくれた。実際、これは驚くべきことだった。

 「カンボジア人は援助漬けで、外国人から物をもらうことばかり考えている」、こんな論評をよく耳にする。僕は、プノンペンでの経験から、すでにこうした見解を否定していたが、それでも、何の援助も期待できない外国人が、村の中をうろつけば、いつでもマージナルな存在とみなされて当然である。しかし、ひとりよがりと思われるかもしれないが、率直な僕の印象では、村人は僕たちとの会話を楽しんでいた。村人には、異世界からの来客を気楽に楽しむ余裕があった。

 ただし、村に入った当初は、少し状況が違っていたのは事実である。少なからぬ村人が僕を警戒していたし、僕も大いに緊張しており、気楽な来客には程遠かった。僕はそれを通訳の説明不足と決めつけ、通訳をしてくれていたタウラック(プノンペン大学の学生)とは喧嘩ばかりしていた。

 タウラックはタウラックで、村人が僕たちをポル・ポト派に売るのではないかと不安がっていた。そして、僕がちょっと人気のないところに行こうとすると、「これまでの例からしても、真っ先に殺されるのは通訳なんだ!」と怒り出す始末。もっとも、調査を開始した94年7月ごろ、このころは外国人がよく標的にされていた時期だった。僕たちがいたのはコンポンスプー県だったが、僕たちが入る直前に3人の外国人が、ここでポル・ポト派兵士に拉致され、やがて殺されていた。もちろん、通訳も殺害されている。また、僕たちが村が面している国道4号線上でも、今度は政府軍の銃撃を受けて外国人1名が死亡していた。さらに僕たちが活動している最中に、3人の外国人が今度はカンポット県で拉致され、彼らと通訳の遺体が見つかっていた。確かに、この調査活動には少なからぬリスクがあった。通訳を買って出てくれていたタウラックに、危険を押し付けるわけにはいかず、不穏な動きがあるたびに、僕たちは調査を早めに切り上げて村をでて安全な地域に避難しなければならなかった。

 そんなわけで、僕は調査の前途を悲観していたのだった。ところが、意外な形で解決を導く事件が村で起きた。数日にわたっていた激しい下痢と、極度の緊張から、僕が村で倒れてしまったのだ。その時の村人の親切は忘れることができない。村のセンさんらは、僕を家の中に運び入れ、おかゆを作ってくれるなど看病してくれた。僕もその時ばかりは気力も失せ、しどけなくしていた。ところが、これ以来、村人たちと僕との関係が非常に好転したのだった。どうも、村じゅうに「あのうろうろしていた若者が倒れた」とのニュースが広まっていたらしく、行く先々で、笑いながら「休んでいきなさい」と声がかかる。僕も、無理をせず調査を続けていきたかったので、その言葉に甘えて、家の主たちとゆっくり世間話をするようになった。そして、なぜか¢コ人たちはポル・ポト派の動向をよく知っていて、「明日は来ないほうがいいよ」などとアドバイスしてくれるようになったのだった(実際、忠告された翌日、村内で政府軍とポル・ポト派の銃撃戦が展開されたこともあった)。

 調査を続けることができたのは、こうした偶然により、僕なりの村での位置づけができたこと、そして、何よりも村人のこうした気さくさにあったことを、僕は忘れずに記しておきたい。

 できることなら、何らかの形で少しでもカンボジアの復興に役立ちたいと思うのだが、僕たちの活動は援助活動ではなく、学習行為であるため、何らかの協力へと直接つながりそうにもない。ただ、僕たちの試行錯誤の体験と、そうしてつかんだ情報を、なるだけ多くの人々に伝えることが、これからの僕たちに与えられた役割なのではないかと考えている。

 次回から、具体的な村の話題へと進めてゆきたい。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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