■ 国際保健の原像と幻像(3) 被援助国としての日本

2000年9月28日


 西暦2000年現在,日本は苦しみの中にある人を助けたいという純粋な慈善から,また国際社会で相応の役割を果たすために,保健医療分野で海外への援助を活発に行っている。医療系学生による途上国への見学も盛んだ。これらは,つまり日本が公衆衛生分野で先進的な立場に立っていることを表している。少なくとも,医療に携わる人間はおおむねそう考えている。しかし,すべての大人がかつては子どもであったように,日本も途上国だった時代がある。そして,それはそれほど遠い昔のことではない。前回までは欧米各国の医療援助の歴史を探ったが,今回からは視点を母国・日本に移してみよう。

 日本と近代的医療援助の関係としては,幕末期や明治時代の医学交流をその嚆矢として挙げることができる。もちろん,いくら当時の日本が途上国だったとは言え,ポンペやベルツといった優秀な医学教育者の活躍を「医療援助」と呼ぶのには抵抗があるだろう。「無知な日本人が欧米に知的な援助をほどこされた」と想像することへの抵抗である。もちろん,そのような感情は私たちが日本人だから生まれるのかもしれない。ヨーロッパで病原微生物学が花開きつつあったエキサイティングな時期に,遠く離れた極東へ派遣される彼らの心が凱旋気分ではなかったことは資料からも明らかだし,途上国の未熟な医学に貢献しようとする啓蒙精神を背負っていたことも間違いない。現在海外へ医療協力に派遣される日本人学者が,途上国派遣に対する及び腰はともかくとして,途上国への啓蒙精神を強く持っていることを考えれば,幕末・明治期の「お雇い外国人教師」も彼らの視点からは援助行為であっただろう。

 今も昔も,援助される側が被援助意識を持っているいないに関係なく,援助する側にその気分があれば医療援助と呼ばれる。よって,彼らの活躍を近代的医療援助の始まりとするのは,決して無理な話ではない。無理と思うならば,それはかつての日本と現在の途上国を異なる基準で判断していることになる。

 閑話休題。ポンペは幕末の1857年にオランダ海軍2等軍医として28歳で来日し,長崎に「医学伝習所」を開いた。西洋医学を初めて系統的に多くの日本人に教えた。教え子には,司馬凌海,戸塚文海,佐々木東洋,長与専斎など,明治期の日本医学界をリードする俊才が含まれ,ポンペは近代西洋医学教育の父と称されている。ベルツについてはその功績に異を唱える人はいないだろう。東京帝国大学医科大学で26年間にわたって内科学,産婦人科学などを教え,さらに寄生虫病,公衆衛生,温泉医学などについての研究もあわせて行った。1905年に帰国した後も,本国の熱帯医学会会長や人類学会東洋部会長などを歴任するなど,医療援助に関するキャリアを積んでいる。幕末から明治初期にかけて日本で医学教育に携わった外国人としては,シーボルトやスクリバも著名である。彼らによる「医療援助」は,漢方を医学の表舞台から退場させ,わずか半世紀で近代医学を根付かせた点で,その影響はとてつもなく大きかった。

 何より注目すべきは,日本の医学を作り直すにあたり,当時の日本政府が医師団ではなく医学教育者を招いたことである。現在の医療援助でも,医療者が現地入りして病人を手当てするタイプのものが依然として脚光を浴びている。130年も前に,直接に医療を注入するよりは自国人医師の養成を優先する政策を採用したことは先見の明があったと言うべきではないか。もちろん,それは医学界だけの話ではなく,社会全般にわたって初等・高等教育が重視され,文明開化が推進されたわけであるし,その手法には問題点もあった。しかし,教育を重視した結果としてアジア初の先進国入りを果たした明治期の日本には,それなりの評価を与えるべきだろう。

 このようにして始まった日本の医学であるが,留学経験者を頂点とする医局講座制が明治中期までには完成し,日本人の手による医学研究・教育が行われるようになる。その後,北里柴三郎や志賀潔,鈴木梅太郎などの傑出した研究者が出るが,いずれも医療援助とは関連が薄い。唯一,ロックフェラー研究所の花形研究者であった野口英世がアフリカで黄熱の研究に従事したことが目を引くが,彼は基礎医学者であって,「医療援助者」と呼ぶには若干のためらいがある。そのようなわけで,史書に残るレベルで言えば,明治中期から大正にかけて,日本と医療援助の関わりはなくなった。明治中期以後,日本は援助を必要とする途上国の地平から急速に離陸し,欧米由来の知識を燃料とする自立飛行に移ったのだった。

 それでも,被援助国としての日本の歴史は終わったわけではなかった。医科学の分野では目覚ましい業績を積み重ねた医学界も,その業績を広く民衆に還元するシステム作り-公衆衛生-では出遅れていた。その結果,欧米からの2度目の医療援助は,公衆衛生の分野で実施されることになる。それが行われたのは,日中戦争が泥沼化した1935年,実施したのは米国ロックフェラ−財団であった。

 近代的な意味で実施された世界初の医療援助が,この財団によるスリランカでのプロジェクト(1916年)であったことは既に述べた。財団は設立当初から公衆衛生を重視しており,このころ財団の招きで米国を訪れた東京帝国大学教授の長與又郎は,公衆衛生に関する教育機関の設立を財団に要請した。日本政府との交渉が不調に終わったためこの計画は中断したが,1930年になると,日本側からの再度の要請により実現へ向けて動き始めた。満州事変や国際連盟からの脱退など,日本の孤立化が鮮明になってゆく時代であったが,財団は計画を進め,1935年に「保健館」が東京市京橋区に完成した。この保健館は,公衆衛生技術者の教育訓練及び公衆衛生に関する調査研究を目的としており,設立の背景には,戦争の激化により,体力の向上,出産の奨励,乳幼児死亡の低下,結核予防といった公衆衛生面からのサポートが急務であったことなどがある。

 そのわずか2年後に,内務省は「保健所法」を公布し,保健館を中心とする地域保健拠点の整備に乗り出す。さらに翌年には保健館は「公衆衛生院」と名前を変え,日本唯一の公衆衛生専門の教育機関として今に至っている。こうやって振り返ると,日本の保健所は医療援助の産物だったことがわかる。現在,保健所は地域保健の総合拠点として位置付けられているものの,公布時の保健所法は保健所を「国民ノ体位向上セシムル為地方ニ於イテ保健上必要ナル指導ヲ為ス所」と定義し,戦時体制下の国民統制色を強く体現した機関だった。

 私はこれまで,国際保健や公衆衛生の発展には戦争や植民地政策が深く関わっていると指摘してきた。日本の近代医学の骨格が先進国から来た医師たちによって形作られた事実,さらに日本の国内保健の原型が世界最大の医療援助団体であるロックフェラー財団によって整えられ,設立の動機が戦争遂行にあったという事実,この2つのエピソードは幾度となく繰り返されてきた同様の歴史の一端に過ぎない。人々の健康支援を前面に出した公衆衛生学(国際保健を含む)は,その目的から言っても,大多数の民衆を対象とするその方法論から言っても,国益や民衆の統制といった国家主義的色彩を完全にぬぐい去ることは難しかったし,これからも同様であろう。

【野田龍也・九州大学医学部学生】


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