■ カンボジアレポート(3) NGOの来た道

2000年9月20日


◆NGOって何だろう?

 NGO。Non-Governmental Organization の略。日本語には非政府組織≠ニ訳される。

 しかし、これだけではサッパリ分からない。「非政府」なら、宗教団体だってNGOということになるのだろうか? なにしろ、日本は政教分離の国である。では、私立大学はどうなんだろう? 早稲田大学はNGOなのだろうか? ちょっと待てよ。企業だって「非政府」だ。ということは、マイクロソフト社もNGOということになってしまう。

 実のところ、この疑問は、いくつかのNGO活動に関わりながらも、僕にとって漠然として付きまとっていた。最近になって、NGOという言葉は、当たり前のように語られているが、どうもピンと来ていない人が多いのではないだろうか。

 そこで、僕がカンボジアに関わりはじめた頃の昔話を少し離れて、ちょっとNGOという言葉の意味を整理しておこうと思う。

◆NGOは国連憲章にはじまった

 NGOという言葉が、国際舞台で認知されるようになったのには、実は『国際連合憲章』によるところが大きい。第二次世界大戦の終結を目前に控えた1945年6月に調印された国連憲章の第71条には、次のような手続規定が定められている。


 経済社会理事会は、その権限内にある事項に関係のある非政府組織(non- governmental organizations)と協議するために、適当な取極めを行うことができる。この取極めは、国際団体(international organizations)との間に、また、適当な場合には、関係のある国際連合加盟国と協議した後に国内団体(national organizations)との間に行うことができる。

 経済社会理事会とは、安全保障理事会と並ぶ、国連の大きな理事会のひとつである。その主要な活動は、国際的な経済、社会、文化、教育、保健、人権などの問題に関して、調査や意見交換、調整などをすることとなっている。とりわけ、終戦間際の当時としては、戦禍にまかれた各地の復興が国連にとっての主要なテーマであり、また、ユダヤをはじめとした難民問題を解決することが、国家の枠組みを超えた重要な課題となっていた。

 国連というのは、加盟国政府を単位として成立しているが、いまだ対立の溝深く、利害関係を調整したり、国際的なルールを取り決めたりするには不安定な状況にあった。また、途上国のなかには、植民地政府と独立組織との対立が継続しているところも少なくなかった。

 つまり、経済社会理事会が取り組もうとしていた、社会、保健、人権、そして教育などの問題を早急に解決してゆくためには、どうしても民間団体の協力なしには進められないという現実があったのである。

 国連憲章第71条とは、こうした情勢を受けて経済社会理事会が、一定の審査を経て非政府組織(Non-Governmental Organization)を承認・登録し、オブザーバーや発言の機会を保障したものなのである。

 そして今でも、正式な意味でのNGO≠ニは、経済社会理事会に承認された団体(現在820余)を指している。ただ、この国連における呼び慣わしを、様々な政府主体の国際会議(たとえば地球サミットやAPEC、WTO総会など)が採用するようになり、一般には「会議に参加資格のある政府以外のもの」というような意味になってきているようだ。

◆NGOをめぐる日本的感覚

 さて、ここまではNGO≠めぐる国際感覚。一方、なぜか日本では「NGOとは国際ボランティア団体」という意味合いが強くなっている。

 この感覚のギャップが、リオデジャネイロの地球サミット(1992年)で面白い形で表出していた。日本の経団連が同会議にNGOとして参加していたのだが、日本の市民団体の間で「経団連がどうしてNGOなんだ!」と話題になったのである。

 前節を読んでいただいている読者には、もうお分かりだと思うが、経団連も立派なNGOである。ただ、日本人の感覚にそぐわなかったことは事実であろうが...

 誤解がないように付け加えるが、別に僕はここで、日本人の国際感覚のなさを糾弾しようとしている訳ではない。日本には日本の国際協力のセンスがあっていいと僕は思っているし、欧米のNGOを見習って積極的に国際会議に出席して、日本のNGOも政府と交渉する能力を磨くべきだとも思っていない。まあ、そのようなNGOもあっていいとは思うけれど、日本的な「現地で泥と汗にまみれる」ようなNGOだって、ロマンチックでいいんじゃないだろうか。

 ただ、この日本的なNGOとは、「いったいどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか」、このことは、もう少し追及しておいた方がいいのかもしれない。

◆NGOの黎明期 −戦後の復興−

 日本のNGOが会議参加型としてでなく、現地実践型を中心として成長してきた背景には、まずもって「敗戦」がある。社会経済理事会が、第二次世界大戦の混乱を収拾するためNGOとの対話を進めようとしていた時期、GHQによる占領下にあった日本は国連に加盟すらできていなかった。そして、日本国内は戦災で荒廃し、孤児にあふれ、満州など旧植民地からの帰還難民たちで混乱していた。また、終戦直後の不作などにより食糧が極度に不足し、伝染病が蔓延するなど、栄養・衛生状態も最悪の状態の中で、人々はぎりぎりの生活を余儀なくされていた。そう、日本の市民組織が国際会議で発言するなど、とても考えられない時代であった。

 しかし、途上国としての日本は貴重な経験を積みはじめていた。

 たとえば、母子愛育会。家庭の主婦らによって構成されていたこの民間の全国組織は、まだまだ機能不全であった保健所と住民の間に立って健診や保健指導の協力を行なうなど、いわゆる「地域ぐるみの活動」を各地で展開した。

 あるいは、この時代の医学生たち。少なからぬ彼らは駅前にテントを張り、無料検診を自発的に実施して回っていたという。また、夏休みなどの長期休暇では、レントゲンなど医療機材をリヤカーに積み、農村での検診活動を推進していた。

 おそらく例を挙げればきりがないだろう。とにかく、「復興」の二文字のため、多くの市民が行政と共に行動を開始していたのである。そして、マラリアや赤痢、コレラなどの伝染病が撲滅され、農村における開発と増産が軌道に乗り、教育制度が速やかに再生していった。

 これは実は、日本の国際協力へむけての胎動でもあった。1960年代前後に起こった日本のNGOたち(日本キリスト教海外医療協力会、オイスカ、風の学校など)は、こうした経験をもとに、アジアへと足を踏み出していった。

 傾向として、日本のNGOが現地実践型なのは、当事者としての実践経験が日本国内で豊富だったからではないだろうか。そして、行政との交渉を好まず、どちらかと言えば距離を置きたがるのは、GHQの記憶があるからではないかと僕は感じている。

◆NGOの発展期 −インドシナ難民救援−

 日本のNGOが爆発的に増加したのは1970年代であった。ベトナム戦争とそれに引き続くカンボジア内戦により、当時、多くの難民たちがタイへと流れ込んだ。このインドシナ難民支援のため、シャンティ(旧・曹洞宗ボランティア会)、幼い難民を考える会、アジア医師連絡協議会(AMDA)などなど、とにかく沢山のNGOが設立されたのである。

 このシリーズの第1回で登場した日本国際ボランティアセンター(JVC)もまた、インドシナ難民救援を目的として設立された団体のひとつだった。この団体の設立と発展の経緯は、現在の日本におけるNGOを象徴していると思うので、少し詳しく説明してみよう。

 1980年2月、JVCはバンコクで産声をあげた。当初の日本名は「日本奉仕センター」。バンコク日本人会のなかに設立された。

 JVCがバンコクで誕生したのには、当時の時代背景に理由がある。まず、多くの日本人にとって、国際協力などという概念はほとんどなかった。そして、インドシナ難民についてニュースで耳にしても、そのことに何か自分ができるなどと想像だにしていなかったし、仮に何かしようと考えても、何ができるかについての情報は皆無であった。

 しかし、一方、バンコク在住の日本人の中には、「カンボジア難民がタイに逃げ込んだ」という身近さがあったようであり、多くの欧米のNGOがバンコクにオフィスを構えたということが、彼らの問題意識を大いに喚起したようである。

 そうして設立されたJVCは、当初、在タイの主婦ボランティアをはじめ、インド・アフリカ帰りの日本人ヒッピーたちでごったがえしたという。とにかく、最初の一年に、主にバンコク滞在中に噂を耳にした日本人たちが、それこそ中高生からお年寄りまで千人以上訪れたという。

 そんな状況で、JVCオフィスは、欧米NGOなどから収集した求人票を、壁一面に貼り付け、どの難民キャンプで、どのような技能が求められているかについて紹介していたのである。

 やがて、JVCは独自のプロジェクトをタイ・カンボジア国境付近で、受け持つようになり、欧米NGOの下受けから脱却を果たす。さらに、1982年からは、帰還した難民たちを支援するため、カンボジア国内でもプロジェクトを持つようになっていった。

 こうしてJVCは、当初の緊急救援から、より長期的な支援へと活動の幅を広げていった。現在、カンボジアをはじめとする東南アジア諸国のほか、エチオピアや南アフリカ、パレスチナなどでも活動を展開している。その会員数は約1750人。活動規模は約4億円にまで成長している。

◆井の中の蛙

 再び、話を1994年に戻そう。つまり、僕が2度目にカンボジアを訪れたときのことだ。

 このときJVCは、もうすでに日本を代表するNGOのひとつとして、国際的にも認知されていたし、それ以外にも多くの日本のNGOがプノンペンで活躍していた。

 僕はNGOのことなど、何ひとつ知らずにカンボジアの土を踏んだわけだったが、プノンペンの街角でよく目を凝らしてみれば、実に多くの日本のNGOのオフィスの看板が目にとまったし、さっそうと日本のNGOのロゴをたなびかす四輪駆動車が走り回っていることに気がつかされたものだった。

 英語書籍をプノンペン大学に寄贈するという僕なりの国際協力を終えてみて、僕の関心は、カンボジアそのものよりもむしろNGO活動へと移っていった。それは、ホテル近くのバーで知り合った、あるカンボジア人との会話がきっかけだった。これはぜひ、書き記しておかなければならない。

「なるほど、君はそうして私の国に貢献してくれたわけだね。で、次はどうする」
「次、といいますと?」
「もう帰るだけかい?」

 30代半ばと思われる顔だち。それでいて、彼の顔には多くのしわが刻まれていた。無表情に放たれた男の質問に、僕は戸惑った。

「また、来ますよ。できることを探しにですね」
「ふむ。ビジネスをはじめる気はないのかい」
「あー、それは無いですね。僕がしたいのは協力なんです」

 男は、少し鼻で笑った。あるいは、そのように僕が感じただけかもしれない。カンボジア人は、めったに人を鼻で笑ったりはしないものだ。ともかく、彼は、次にこう言い放ったのだった。

「じゃあ、もう来なくていいよ。君のような人間はたくさんだね」

 20年生きてきて、この言葉ほど動揺させられたものはなかった。なぜなら、僕はカンボジアでは、実にちやほやとされて来たのだ。「よく来てくれた」「ありがとう」「また来てくれ」「若いのに優れた行動力だ」。カンボジアは僕にとって気分の良い場所のはずだった。それが突然、「もう来るな」だ。これが動揺せずにいられようか...

 僕は、このまま会話を終わらせてなるものかと、男の目をじっと見た。立ち去らない。立ち去らせない。次の言葉を待ちつづけた。

「いま、カンボジアで急成長している企業を知っているかい?」

 男は、生ぬるいウィスキーをちびりとやってから、独り言のようにつぶやいた。

「さあ?」と僕。考えたことも無かった。
「ビール会社とタバコ会社さ... その意味がわかるか?」
「・・・」
「それ以外は全部援助だ。産業が成長できるはずがない。つぶされてんだよ」

 今度は、頭をガンと殴られたような思いだった。つまり、一、二の三と揺さぶられたあと、壁に叩きつけられたわけだ。もう充分だった。僕は立ち上がりこう言った。

「僕は... また来なければならなくなりましたね」

 そして、宿に帰り、僕は死んだように眠った。

◆カンボジアは広い

 翌朝、僕はプノンペンの中央市場を訪れてみた。

 様々な日用品がそこでは売られている。たとえば、ノート。値段を聞けば、1冊500リエルだという。つまり10円ぐらいだ。

 たしかに不思議なことだった。日本からは文房具が、それこそ怒涛のように援助されはじめていた。どうして、誰も彼もが日本の高価なノートを援助しているのだろう。なぜ、この市場で買ってから配らないのだろう。10倍の子供たちに行き渡るはずではないか。それに、カンボジアのノート工場も回転が良くなるし、小売業者の儲けにもなる。日本から援助物資を送ることは、そうした産業の発展を阻害することになるかもしれないが、逆にこちらで買い求めれば、産業の回転を促進することになるだろう。僕は経済にまったく疎かったが、それぐらいのことは容易に想像できた。

「たぶん下調べをしていないのだろうな」

 僕はそう思った。ここに文房具があることを知らないんじゃないだろうか。「カンボジアには何もない」。メディアのかきたてる悲惨さを鵜呑みにして、この国に本当に文房具が不足しているのか、本当に家庭に文房具を買う能力がないのかを調べていないのだ。下調べなしの援助は、カンボジアの経済的自立を阻害し、国民の消費をビールやタバコなど、援助と無関係の企業へと向かわせているのかもしれない。

 もうひとつ、気になり始めたのは、援助がプノンペンに集中してしまっている点だ。プノンペンなら手軽に手渡しができて、また、笑顔にも接したいのはわかるが、これは地方との格差を拡大してしまった。ノートだけならともかく、実際には、あらゆるプレゼントがプノンペンの子供たちを中心に贈られはじめている。首都と地方の格差は、カンボジアの不安定要因である。たとえば、ポルポトを支援した農民たちの不満が、都市生活者の豊かさにあったことを思い出す必要がある。

 これらは検証しておくべき問題ではないだろうか。日本のNGOは、現地実践型でカンボジアで活発に援助活動を開始している。果たしてそれは、総体として≠ヌのような影響をこの国に及ぼそうとしているのだろう。

 NGO活動がプロジェクトを推進している村や、病院の入院患者にとって効果的であることに僕も異論はない。けれども、その恩恵に与っている人々は、カンボジア人のなかではごく一部にすぎない。では、大半の、他のカンボジア人たちにはどのような影響があるのだろうか。あるいは、どのように感じているのだろうか。

 カンボジア2回目の訪問を終えて、こんな疑問が湧き上がってきた。そこで僕は、客観的にNGOを観察してみようと考えた。それも日本人である僕の目で直接見るのではなく、カンボジア人の目を通して。つまり、スタディーツアーのようにNGOの活動現場を見学してまわるのではなく、そことは関りのあまりないカンボジア人の話を聞いてまわろうと思ったのである。NGOの活動地など、この広いカンボジアにおいて、ほとんど点≠ノしか過ぎないではないか。その点≠セけを見学していて、カンボジアの今を理解したり、NGOの評価などできるはずがない。

「そうだ、来年は村へ行こう。NGOの手が届かぬ村へ... 」

【高山義浩・山口大学医学部学生】


記事の目次へ    |   トップページへ
国際保健通信の記事・写真の無断転載を禁じます。