■ 国際保健の原像と幻像(2) 熱帯医学の誕生

2000年8月25日


 19世紀中葉に生まれた近代医学の最大のターゲットは,コレラや黄熱,マラリアなどの国際感染症だった。そのような気風のなかで,国際感染症対策(あるいは国際保健)が各国内の保健行政や医学研究に大きな影響を及ぼしたことは容易に想像できる。NIHやCDCなどの有力機関を傘下とするアメリカの厚生省が,そもそも,外国帰りの船員たちを診療する船員病院(Marine Hospital Service)として設置されたという経緯だけでもそれは明らかだ。しかし,同時に国際保健の側でも,近代医学の発展なしには歩みを進めることはできなかった。

 国際保健の足がかりが,1851年の国際衛生会議(パリ)であったことはすでに述べた。1874年には幅広い地域にまたがる感染症を扱う常設国際機関の設置が提案されている。しかし,実際の動きは鈍く,その国際機関が作られたのは,なんと提案から33年後であった。異様なまでに遅い対応だが,実はこのブランクにこそ,国際保健と近代医学の関係を解くカギがある。

 子供の頃,ケガをしたときに母親から「バイキンが入らないよう消毒しなさい」と言われたことがあるだろう。このバイキン≠ニいう発想は,ごく自然に身についているはずだ。しかし,19世紀の半ばには,感染症の原因が病原体によるものとは分かっていなかった。明晰な一部の学者を除いて,感染症の原因は悪い空気=瘴気(しょうき)によるとされていたのだ。今では『風の谷のナウシカ』ぐらいにしか登場しない瘴気であるが,当時は医学界の大御所までがそれを信じていたのである。

 そのような状況を一気にくつがえすことになるのが,19世紀後半の細菌学である。1855年,パスツールはぶどう酒の腐敗が微生物によることを発見した。さらに,1873年には,コッホが感染症の原因が微生物であることを発見する。そして,1881年には,パスツールが炭疽病ワクチンの製造に成功している。その後も,結核菌,コレラ菌,赤痢菌など主な感染症の病原体が次々と発見され,ここに瘴気説は完全に葬り去られた。こうして「病原微生物学の黄金時代」と称される時代が幕を開けた。

 病原微生物学がもたらした業績は数多いが,臨床面における最大の成果は,病気が適切な消毒によって予防できることを示したことだった。バイキン≠ニいう発想,そして病気を治すだけでなく「予防する」という発想がどれほど多くの人々を病から遠ざけたか,その福音ははかり知れない。世界的な衛生対策という夢物語は,病原微生物学のおかげでついに実効的な戦略を語れるようになったのである。歴史を重ね合わせてみると,上で述べた「33年間のブランク」とは病原微生物学の黄金時代そのものであることに気づく。世界史のなかに産み落とされた国際保健は,近代医学という保護者の登場を待って歩みはじめたのだった。

 当然のことながら,病原体が特定されただけで感染症が減るわけではない。医科学的な知見をベースにした疾病対策をおこなう必要があるだろう。そして,こうした対策は,民衆への健康教育や大規模な衛生事業などが必要であり,これらは医科学というよりは,疾病を減らすための社会経済的なアプローチ(社会医学)に近い。感染症撲滅の理想に燃える医学者たちは,実験室を飛び出してフィールドへと向かったが,社会経済的なアプローチをおこなう以上は医科学的な知識だけではもはや足りない。顕微鏡を使う医科学と集団の健康を対象とする社会医学を融合した新しい学問分野が求められるようになった。こうして誕生したのが,「熱帯医学」である。

 今ふうに表現すれば,基礎医学と社会医学の学際領域として熱帯医学が脚光を浴びた,となるだろうか。公衆衛生と国際保健の世界的センターとして現在でも名を馳せる London School of Hygiene & Tropical Medicine の前身が設立されたのもこのころ(1897年)のことである。なお,この学校は当初,英国植民地医療局のバックアップ機関だった(またもや植民地!)。「33年間のブランク」を埋めるべく,世界の健康問題を扱う機関として「国際公衆衛生事務局」が設立されたのは,熱帯医学成立後の1907年だ。植民地も未知の病原体も熱帯地域に多かったから,熱帯医学は時代の寵児であったとさえ言える。

 さて,熱帯医学の相手は細菌だけではない。人間に病気をもたらす生物は,主なものでは細菌,ウイルス,真菌(かび),寄生虫の4つであり,真菌と寄生虫が細菌とともにターゲットとなった(19世紀にはウイルスはまだ発見されていなかった)。とりわけ注目されたのが寄生虫である。マラリアなど一部を除いて,寄生虫疾患が急性に人を死なせることは少ない。寄生して栄養を奪い,血行障害や通過障害を起こしつつ,じわじわと宿主を衰弱させる。この慢性的な性質が,患者やその周囲にとってはより問題となることがあった。

 たとえば,働き手がコレラであっという間に命を落とす場合に比べ,住血吸虫で何ヶ月も寝込むほうが,周囲の経済負担ははるかに大きい。働ける状態であっても,寄生虫によって不必要なカロリーが奪われるなどの理由で生活の意欲が失われることがある。最近の調査でも,ぎょう虫を持っている小学生はそうでない同級生に比べて学習成績が低いことが分かっている。当時の植民者にとっても,労働者の寄生虫疾患はないがしろにできないものだった。寄生虫は多くの植民地で「怠けの病原体」と呼ばれていたが,あながち間違いとも言えない。このような経済性・生産性に注目した議論は,現在の国際保健でも大きなトピックであるからだ。

 このようなコンテクストからすれば,近代的な意味で実施された世界初の国際保健医療協力が寄生虫対策プロジェクトであったことは自然なことだと言える。1916年,米国ロックフェラー財団は,スリランカにおいて鉤虫(十二指腸虫)の駆除計画に着手する。これが,宗教や植民政策と一応切り離して実施された最初の医療協力であり,人口調査や衛生調査,屎尿処理施設の設置などを含む大規模なものであった。こうして,熱帯医学は国際保健の中心となったのである。なお,「ロックフェラー・ミッション」と称されるこの医療協力においても,財団の内部文書で,「医療援助によって植民地住民の合衆国に対する敵意を静める」ことが目的として明記されている。宣撫思想,である。

 もちろん,このプロジェクトには,病気に困っている人を救おうという慈悲心のほかに,植民地労働者の労働効率を向上させたいという意図があったことは言うまでもない。微生物学の躍進と植民地の存在が熱帯医学を生み,さらに熱帯医学が国際医療協力を生み,その協力は植民地対策でもあったという歴史の連鎖は,国際保健の育ちそのものなのかもしれない。

【野田龍也・九州大学医学部学生】


関連年表
1851年 国際衛生会議が開催される(パリ)
1874年 国際保健にかかわる常設国際機関の設置が提案される
1855年 腐敗したぶどう酒より微生物が発見される(パスツール)
1873年 微生物と感染症の関連が明らかになる(コッホ)
1881年 炭疽病ワクチンが製造される(パスツール)
1897年 London School of Hygiene & Tropical Medicine の前身設立
1907年 国際公衆衛生事務局が設置される
1916年 最初のロックフェラー・ミッションが着手される




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