■ 国際保健の原像と幻像(1) すべては宗教と植民地から始まった

2000年7月13日


 ものごとの流れをつかむために,私はまず歴史をひもとくことにしている。例えば,国際保健と呼ばれる分野を理解し,これから進むであろう方向性を探るとき,この分野が過去200年間どのような変遷をたどったかを知るように努力する。ひとりの人間を知るときと同じく,学問もまた,その生い立ちや家庭環境を抜きにして本性を理解することは難しい。

 さらに重要なことは,常に発展しているように見える近代学問体系のなかにも,ちょっとした不運や怠慢により忘れ去られてしまった知恵があるという事実である。これを発掘することで,経験や学識のない若者でもそれなりの知的装備を得ることができるのではないだろうか。国際保健を覆うあいまいなヒューマニズムの雲をすこしだけ離れ,歴史の丘から国際保健を見下ろすことで,この連載を始めたい。


 国際保健は,ながらく(海外)医療援助と呼ばれてきた。医療援助を「健康問題を抱えた海外の地域における保健医療活動(援助者が見返りを得ようとしたかどうかは問わない)」と取りあえず定義すれば,世界最初の医療援助は何だろうか。現在ではいたるところで行われている医療援助にも,必ずはじまりがあったはずである。はっきりとした証拠は得られないものの,文献を調べた結果,「聖ヨハネ騎士団」によるエルサレム病院(11世紀)が,史上初またはそれに近い組織的で継続的な医療援助活動だと考えられた。第一次十字軍から生まれ育ったこの騎士団は,ロードス島攻防戦などで歴史に名をとどめているが,その日常業務は医療活動だったのだ。戦時には「キリスト教世界の盾」としてイスラム教徒と戦い,平時には,エルサレム巡礼に訪れた旅人たちに医療を施した。聖ヨハネ騎士団はマルタ騎士団とも呼ばれており,現在でも医療系NGOとして活発に活動を続けている。その後,17世紀の初頭には,イエズス会の宣教師たちが南米でキニーネを用いてマラリア治療を行っている。宗教者によるこれらの活動は,(たとえ布教という意図があったにせよ)医療援助の歴史的な基礎を築いたと言える。これから数百年にわたり,医療援助は常に宗教とともに歩み,その枠から外れることはなかった。

 宗教による医療援助が始まってはるか後の18世紀終りに,イギリスに新しい近代産業社会が登場する。産業革命である。この結果,国際市場の需給バランスが激変し,製品輸出国であったインドは,綿やアヘンなどの原材料輸出国に変化した。欧米諸国から見たインドの必要性はますます大きくなり,多くの欧米人がアジアを訪れるようになった。

 19世紀に入ると,ロシアや合衆国を含む欧米諸国はコレラの大流行にたびたび見舞われた(コレラパンデミック)。この致死率75%の感染症は,人々が忘れつつあったペストの恐怖を再現し,コレラは感染症研究の中心となった。ところが,コレラは感染症としては歴史が浅く,流行して初めて注目された。実は,コレラの出身地は東インドにあるガンジス川下流域であり,植民地からの帰国者に運ばれて欧米へ侵入したのである。こうして,輸入感染症が歴史の舞台に踊り出たのだった。

 このころ,感染症へ風変わりなアプローチを行ったのがイギリスの医師スノーである。1855年,スノーは,患者発生地図を用いた合理的推測によって,ロンドンで大流行していた感染症の源が上水ポンプであることを証明し,そこの水を使わせないことによって感染症の拡大を食い止めた。生物学からではなく,集団調査と統計的推測で病気を防ぐスノーの手法は,まったく新しい発想であり,近代的な意味で,人類は初めて病気の予防に成功した。こうして科学的な推測を用いる「公衆衛生学」が一応の成立を見たのだった。なお,スノーが追跡した感染症はコレラであった。国際感染症が近代医学を発展させるひとつのきっかけとなったわけである。

 逆に,公衆衛生学を国際的に応用する試みも生まれた。その代表例として,「国際衛生会議」(1851年)がある。この会議は,植民地経営に携わる宗主国が中心となり,海外住民の疾病対策(黄熱やマラリアなど)や海外から輸入される疾病への対策を協議するために開かれたものである。この会議で,感染症を予防する公衆衛生政策の有効性が確認されるとともに,「感染症は国境を越えて地球的に管理されなければならない」とのコンセンサスが得られた。また,感染症対策の国際協力が初めて取り上げられた。面白いことに,これらのテーマは今ある国際保健のそれとまったく同じであり,世界規模の国際保健はこの会議で始まったと考えてよい。

 やや気取った物言いをすると,国際感染症コレラが近代医学を発展させ,発展した医学が国際保健を生んだ。西洋近代医学と国際保健とは,お互いの黎明期に影響を及ぼし合っていたのだった。

 ところで,国際公衆衛生運動のねらいは,輸入感染症を防ぐほかに2つ挙げられる。ひとつは,植民地の生産性を著しく低下させている数々の疾病を抑えることで,宗主国の利益を増やすことである。例えば,マラリアに罹患した労働者1人が3日間寝込むだけで,経営者は今の貨幣価値で数万円を失う。病気を防ぐほうがコストははるかに小さい。もうひとつは,「未開の恵まれない」住民への施しである。宗主国として住民の不満を和らげるためにも,また,「高等」な人種の責務(ノーブレス・オブリージュ)としても,医療という恵みを与えてやる必要があった。

 少しばかりの皮肉を込めて指摘するならば,植民地主義下で国際公衆衛生運動を支えた3本柱(輸入感染症予防,経済効果,施し)は,現在の国際保健においてもそのまま主要な役割を占めている。ものごとの本質は,やはり歴史に照らし合わせることで明るく浮かび上がるように思う。

 植民地主義が国際公衆衛生運動を生んだ事実は,現在の国際保健活動家にとっては気分の良い歴史ではないかもしれない。しかし,プライマリヘルスケア(PHC)を提唱したWHOの実務的なコアがオランダにあったことを考えると,途上国へ介入した伝統の重みは軽視できないものだとつくづく感じさせられる。思い起こしてみよう。現在,国際保健のセンターとなっている国々は,すべて本格的な植民地支配を経験しているのだ。一方,日本の植民地支配は歴史が短く,住民との(ある程度の)共存が根付くほどではなかった。日本に国際保健がいまいち定着しない理由のひとつを歴史の違いに求めることは,それほど不合理なこととも思えないのである。

【野田龍也・九州大学医学部学生】


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