■ カンボジアレポート(1) 無目的の漂泊物語

2000年6月26日


 なぜ、カンボジアなのか?

 この質問を、これまで何十回されただろう。そのたびに僕は考え込み、いろいろな答えをしてきた。

「カンボジア内戦での殺戮と破壊は、徹底して全てを無にしてしまったから」
「カンボジア難民の帰還は、かつてない規模で進められ、国連と各国のNGOが協調してそれにあたったという点でも、人類にとって貴重な体験だったから」
「カンボジア内戦は、民族間や、宗教間の対立によるものではなかったので、日本人の私にはかかわりやすいものだから」
「日本から往復6万円で行けるほど身近な所だから」
「カンボジア内戦のはじまった1970年3月18日は、私の生まれた日だから」

 しかし、どの答えも適当な理屈にはなるにせよ、「なぜ?」と聞かれて考え出した解答にすぎない。実は、僕はこう見えても三国一の小心者なので、『自分でもわかっていない』ことを相手に悟られるのが恐ろしかったのである。でも、いまから思えば、どこでもよかったのだと思う。

 21歳のとき(もう9年も前のことだ)、大学に入学したての僕は、ユーゴスラビアに行こうと考えた。当時、ユーゴは民主化蜂起の象徴的な場所だった。僕たちはブラウン管を通して、冷戦が終結し民族紛争の時代がやってきたことに、気がつきはじめていたのだった。

 だからこそ、世界が大きく動いているときに、東京の雑踏にまぎれているのは、たまらなくいやだった。日本の若者にとって、齢を重ねるということは、そのまま人生の可能性を狭めるということを意味していた。だから、成人したての僕には事件が必要だった。僕の場合、それを激動する東欧に求めた。息詰まりそうな自分の日常を破壊してくれる、そんなパワーを感じたからだった。

 ところが、東欧行きの航空券を手配して、はじめての海外渡航の準備をしている間にも、ユーゴ情勢は悪化していった。6月には、クロアチアとスロベニア両国が独立を一方的に宣言し、8月に入ると内戦は泥沼化していった。9月、僕がギリシャのアテネに降り立ったとき、もう残されていたのは、しっぽを巻いて観光旅行に出かけることぐらいだった。帰りの飛行機のなかで、僕は自分の発想の甘さと、それに劣らぬくらいの無謀さを恥じていた。

 帰国して、つまらない大学の講義と試験に追われ、そんな青春が当たり前のように思えはじめた頃のことだ。新聞の国際面に「パリ国際会議が再開されカンボジアの和平が実現しそうだ」という報道があった。カンボジアは1970年以来、度重なるクーデターと外圧によって、壮烈な虐殺をともなう内戦を継続していたのだという。ところが、パリで、内戦に関わってきた4派が集まって和平合意に調印したため、カンボジアはついに新時代を迎えるということだ。

 その記事を目にして、僕はふたたび心が揺さぶられはじめるのを感じていた。そして、僕はその衝動に逆らえなかった。

 まったく無節操な話である。正直言って、問題意識とか理念など僕はもちあわせていなかった。それどころか、「なぜ」とか、「なにをしに」などというものも、僕にはひとかけらもなかった。あの頃の僕はといえば、飽食時代の申し子が、ただ貪欲に世界を覗き見ているようなものだったのかもしれない。

◆カンボジアへ

 ユーゴの反省もあって、僕は慎重にことをすすめた。まず、現地とつながりを作っておかなければならない。それに、ビザだって必要だ。

 そこで、僕はカンボジアの教育大臣に手紙を書いた。自分がカンボジア和平を待ち望んでいたこと、そして、将来、日本とカンボジアの友好に僕がどれほど期待しているか、そんなことを思いっきり熱く手紙に叩き込んだ。

 返事はまもなく来た。「プノンペン大学留学という名目でビザを発行するから、ぜひ来てくれ」という内容だった。大袈裟でも何でもなく、手紙を手にした僕は、ほんとうに躍り上がって喜んだ。僕の僕による人生がはじまるんだ。何の根拠もないが、そんな思いが僕の心のなかで湧き上がっていた。

 翌年(92年)の10月2日、僕はカンボジアの土を踏んだ。折しも、その日、自衛隊の海上輸送部隊がコンポンソム港に入港していた。

 空港には迎えの車が来ていて、僕はまっすぐ教育省へ向かった。そして、教育大臣の部屋へと通された。忙しい合間をぬっての面会だったはずだが、彼は長々と歓迎の言葉を述べ、僕に「日本とカンボジアの学生交流の礎(いしずえ)となってほしい」と述べたようだった。ようだった≠ニいうのは、当時の僕には英語がほとんど通じなかったからだ。とにかく僕は“friendship”という単語に、大きく肯くのが精一杯だった。

 でも、あのときの僕には、実のところ、ほとんど語学力など不要だった。言葉で得られる情報よりも、たくさんの衝撃が僕に押し寄せてきていたからだ。はじめて見る茅葺きの掘っ立て小屋、唸るような音を響かせて大量に飛び回るマーケットの蝿、明らかにサイズの合わない軍服を引きずっている少年兵、ピカピカに磨き上げられた国連軍のジープ、ダンボール箱のなかの手足を切り落とされた幼児、最新のモードを伝えるアメリカの雑誌とそれを売る半裸の少女。僕がはじめて見たカンボジアは、世界中の様々なものが一気に詰め込まれたるつぼ≠フようなものだった。

◆僕なりのやり方

 もっぱら僕は、プノンペンの街をぶらぶらと散策して過ごしていた。ただ、教育省がプログラムしてくれていたこともあって、いくつかの中学・高校と、大学を見学することができた。教育現場もまた物不足が明らかだった。剥がれかけ、板がむき出しの黒板、学生たちはガリ版刷りの教科書を回し読みしている。ノートを持っていない学生も珍しくなかった。

 プノンペン大学を訪問したとき、副学長ピット・チャムナンさんは、僕にこんなことを訴えた(ようだった)。

「図書館に英語の本がほとんど無いのです。鎖国主義をとったポル・ポト時代に、すべて焼却されてしまいましたから。その後のヘン・サムリン時代は、冷戦の東側でしたから、ロシア語が第1外国語で、英語教育はほぼ停止していました。いま、国連の暫定統治下で、プノンペン大学の第1外国語を何にするか議論されています。カンボジアの将来を考えれば、英語になるのが一番のはずなんですが、フランス語にするようにという外圧がかかっていて困っています。フランス政府からは、どんどんフランス語の教材が援助で送られてくるのですが、英語の教材はさっぱりですね。このまま第1外国語がフランス語になってしまえば、フランス植民地時代に逆戻りですよ」

 世間知らずの僕にも、その裏にある力学は容易に想像できた。国連暫定統治機構(UNTAC)の代表は明石康さんだが、その実質的主要勢力はフランスである。次いで、カナダ、オーストラリア、オランダ、日本などが勢力を有している(アメリカはベトナム戦争のトラウマがあって軍を派遣していなかった)。なぜ、こうした国々が関わっているかといえば、それはカンボジアを将来の市場と見なしているからだ。カンボジア南方には未開発の海底油田が、北方には豊富な木材がある。それに、隣国タイがコメ輸出の世界第1位であることを考えれば、いまは飢餓に悩むこの国だって、きっと広い平野を活かして立派な穀物輸出国に成長するに違いない。国際政治において援助≠ニ投資≠ヘ同義語なのだ。

 もし、プノンペン大学の第1外国語がフランス語になれば、何が起きるだろう。官僚たちのほとんどがフランス語を話すようになり、その留学経験も植民地時代のようにパリに集中するに違いない。こうなれば誰が困るか、UNTACに参加する国のうちどの国を排除できるか。20歳そこそこの僕にだって解る問題だった。つまり、それは日本だ。

 いったい日本政府は何を考えているのだろう。商社は事態の深刻さを理解しているのだろうか。僕は、日本の商社のうち、唯一事務所を開設していたN社のプノンペン事務所を訪問して、K所長にその思いを伝えた。

 Kさんの対応は極めて迅速だった。僕のそれまでのイメージでは、日本の商社というのは腰が重く、プロジェクトひとつとっても、企画から実施までには、気が遠くなるような時間が要するものだというものだった。しかし、それはN社に関するかぎり誤りだった。K所長は早速、僕と一緒にピット・チャムナンさんに会いに行き、英語のLL教室とビデオ教材一式を援助できることを説明し、その手続きの仕方について説明したのだった。

 この企業戦士≠フ逞しさを垣間見たことは、僕を刺激して余りあるものがあった。そして、僕もまた、「よし、僕にできることがあったらやってみよう。いや、やれることを探してやるぞ!」と決意させたのだった。

◆行動のはじまり

 翌年(93年)の夏、僕はふたたびカンボジアへと飛び立った。僕が集めた300冊の英語教材は、もう現地に届いているはずだ。

 思えば、僕のやり方は、とても単純なものだった。

 大学の教養課程では、副読本を使った英語教育が中心である。ところが、試験が終われば、こうした副読本はゴミ箱行き、運がよくても本棚の隅で埃をかぶっているのが関の山である。

 そこで僕は、いくつかの教室にダンボール箱を置いて「試験が終わって、いらなくなった副読本をカンボジアに送りましょう」と張り紙をしたのだ。結果は上々だった。僕の部屋は、みるみる英語書籍のつまったダンボール箱で埋もれはじめたのだ。なかには同じ本がたくさんあったが、それはプノンペン大学の授業で再利用する上で好都合なはずだった。

 さて、次の問題は、「これをいかにしてカンボジアへ届けるか」ということである。国際宅急便に見積もってもらうと、この量では18万円との回答だった。とても僕に出せる金額ではない。

 頭を抱えながらテレビを見ていたときのことだ、「カンボジアで活動している自衛隊員のため、家族からの差し入れを載せた巡洋艦が出航しました」というニュースが流れていた。単純思考こそが、若さの武器であろう。「なんだ、自衛隊に頼めばいいじゃん!」と、僕はひらめいていた。

 すぐに防衛庁に電話して事情を説明した。防衛庁といえば、とびっきり硬派の役所というイメージがあったが、思いのほか親身に話を聞いてくれた。そして、「法的にそれが可能かどうか分かりませんが、出来ることがありましたら全力で協力いたします。明日、こちらから電話を差し上げますので、待っていただけますか?」と答えてくれた。

◆NGOとの遭遇

 翌日、当然ながら防衛庁の回答は、僕を落胆させるものだったが、彼らは希望をつないでくれることを忘れてはいなかった。

「NGOというのをご存知ですか?」
「エヌジーオー、ですか? 知りません」

 僕が知らないのも当然で、その当時は、国際協力を民間で展開しようとしているNGO(非政府組織)など、ほとんど市民権を得てはいなかった。

「あなたのような活動をですね、もっと組織的にされている団体があるのです。カンボジアでは、日本国際ボランティアセンター(JVC)というのが積極的な活動をしていますよ」
「へえ、そうなんですか?」

 自分以外にも、そういう活動をしている人間がいることに驚くとともに、それが大規模だと聞いて、正直なところ、僕はやや憮然とした。

「それで、そのJVCという団体と、私のダンボール箱とどのような関係があるのですか?」
「JVCさんはですね、ときどき船便で物資をカンボジアに送っているのです。もし、コンテナに余裕があれば、それに載せてもらえるかもしれません。ぜひ、連絡を取り合ってみてください。電話番号は・・・」

 これが、僕とNGOとの最初の出会いだった。JVCはこころよく僕の申し出を受け入れてくれ、カンボジアの現地スタッフが手伝ってくれることを約束してくれたのだった。

 こうして僕は、この世に国際協力なる分野があることを知り、カンボジアという国とともに、その奇妙な国際交流の世界へと引き込まれていった。そう、これが僕とカンボジア、そして国際協力のなれそめ物語≠ナある。

 いま、英語が第1外国語となったプノンペン大学の図書館には、英語書籍が大学らしく溢れ返っている。僕がしたことは、ほんとに些細なことだったし、何かの役に立ったわけでもないだろう。でも、手彫りで《Cambodian-Japanese Student's Friendship Assosiation》と押印された、あの時の副読本だって、探せば図書館の片隅にいまも並んでいる。それだけでも、僕の青春にとっては充分すぎるほどの「事件の痕跡」なのである。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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