■ 国際保健への招待(1)  僕とカンボジアと国際保健

1999年6月15日


 カンボジアに滞在しているとき、一番食べたくなるのは、なぜかフルーツゼリーだった。

 3度目の訪問は1ヵ月におよぶので、これまでの経験を活かして、僕は3個のフルーツゼリーを持っていくことにした。週に一度ずつのごちそう。ささやかな計画だった。

 あのころはまだ荒れ果てたオリンピックスタジアムの前に、サンカーホテルという瀟洒(しょうしゃ)な、そして家庭的なホテルがあり、僕はそこを定宿としていた。調査を終えて、村から汗だくになって帰ってくると、僕を担当している客室係のノームが、僕をロビーのソファに座らせ、ジャスミン茶を入れてくれる。

 ノームは、不器用だが、とても熱心に働く子で、彼女なりにではあったが、僕の朝の言いつけを夕方までにしっかりこなしてくれた。彼女は、ネズミの出入りする穴をふさぎ、ござを買ってきて部屋に敷きつめ、さらに、部屋に入るときには靴を脱ぐという奇妙な風習を受け入れた。

 ただし、僕がある朝、天井にいくつも張られたクモの巣を、すべて撤去しておくように、と命じたときだけは少し違った。

 この時ばかりは、彼女は猛烈に反対した。どうも、クモの巣は蚊を捕らえてくれるので、僕の健康のために必要だ、というのが彼女の言い分だった。しかし、僕は寝ている間に、つつっと落下してくるクモが、我慢ならなくなっていたので、もう一度、強く命令してから村へと出発した。結局のところ、クモの巣はそのままで、僕も何も言わないことにしたのだったが...

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 そんな生活が2週間も続き、村での調査も軌道に乗って、ホテルのスタッフたちとも僕はうちとけていった。

 また、僕のクメール語も少しだけ上達し、ノームと僕は互いのことを少しずつ知りはじめた。ノームが16歳であること。父親はクメールルージュに殺され、母親は病気でいること。彼女ひとりで、その母と弟の生活を支えていること。僕が日本という遠い東の国から来ていること。僕の両親は敗戦という不幸のなかで育ったが、その子供世代はとても幸せであるということ。あるいは、「トウキョウトッキョキョカキョク」と上手に言えれば、日本人が喜んでくれるということとか。そんなことを僕たちは、しどろもどろに語り合っていた。

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 さて、その日はいてつく太陽も容赦なく、なぜかいつもの叩き付けるようなスコールが午後にもやってこなかった。僕は、今日こそ、あのフルーツゼリーを食べるべき日に違いあるまいと、勇んで村から帰ってきた。ノームにジャスミン茶を部屋へ持ってくるように命じ、僕は部屋に入るなり冷蔵庫を開けた。ちょっと気が遠くなった。2つあるはずのフルーツゼリーが、1つに減っている。すぐに心当たった。犯人は明白である。先日、ノームがそのフルーツゼリーを手にとって、僕に、これは何なのか、どんな味なのか、としつこく聞いていたからだ。しかも、僕は意地悪くも、世界で最も美味なるデザートだと自慢していた。 僕はベッドに座ってノームを待った。やがて、ジャスミン茶を持って彼女はやってきた。ノームは僕のコップにお茶を注ぎ、僕も彼女にお茶を勧めた。ただ、その間、僕はずっと彼女の目を見つめ続けていた。かしこい娘だ。すぐに彼女の顔は真っ赤になって、うつむいたまま、しばらく硬直していたが、やがてポソリとつぶやいた。「ニャムニャム(たべちゃった)」。僕は大笑いした。とにかく、その口ぶりがおかしくてたまらなかった。目が点になっているノームに、僕は笑いながら、「うまかったか?」と聞いた。彼女は、さらに耳の先まで真っ赤にして、「おいしかった!」と叫んだ。今度は、ふたりで大笑いした。ずっとふたりで笑いつづけた。僕はカンボジアに来てよかったと思った。そして、国際保健をやってみようと決断した。ノームのいるカンボジアの幸せを、一緒に追いかけてみたいと確信した。

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 カンボジアとも、そしてノームとも、本当にうちとけてきたと思えるようになった頃、僕は赤痢になった。目にみえて血便が出ている。たぶん、村人が勧めてくれた水菓子が原因なのだろう。

 僕は、地域医療に従事していたネパール人医師ナラヤン先生からORSをもらって、部屋にこもって闘病生活に入った。水分補給さえ続けていれば自然治癒する、という話を信じることにした。ホテルのスタッフにも、ノーム以外部屋に入らないように指示した。ノームにも、おかゆを日に3度、運んでくる以外には部屋に入らないよう指示した。人にうつして、ホテルに広がるのが恐かった。

 この闘病は3日で終わったが、長い長い3日間だった。一日に十数回、大量の水様便が出る。高熱が出ていて、朝、目を覚ますと、シーツがぐっしょりと濡れている。どんなにORSを注ぎ込んでも、すぐに体から出ていってしまう。死ぬのが恐いと思った。

 昼夜、僕が眺めていたのは、クモの巣だった。一日中、観察していると、クモにも人生ドラマがあることを知る。いじめられている新入りも、やがてはたくましく巣を張り、年老いたクモを食い殺す。巣の形はめまぐるしく変化してゆく。そこが、白い箱のような日本の病室だったとしたら、僕は発狂していたかもしれない。なるほど、クモの巣はこの部屋に欠かせない。ノームの話は本当だった。

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 やがて、病も全快して、久しぶりに村を訪れてから帰ってくると、ホテルのスタッフたちが、ヒロの快気祝いにディスコに行こうと相談していた。なんと、全員分のお金をオーナーが置いていったのだと言うのである。これを断る手はないだろう。僕たちは、バイクに3人、4人と乗り込んで、大騒ぎをしながら、「太平洋夜総会」へとくりだした。

 しこたまビールを飲み、ひたすら笑った。中国語とクメール語が入り乱れる。僕も負けじと日本語でしゃべりつづけた。そして、また笑った。

 ノームは、僕にクメールダンスを親切に手ほどきしてくれた。ディスコと言っても、カンボジアでは、みんなで盆踊りのように練り歩くのだ。カンボジアに小室哲也ははやらない。日本人といえば、時折、中島みゆきが流されるぐらいだ。やがて、チークタイムになった。ノームは僕のところにとんできて、手を引っ張った。しかし、僕は首を横に振りつづけてしまった。それが、ショックだったらしく、彼女は泣き出してしまったが、僕は酔った頭で頑固になっていた。ホテルのスタッフたちは、僕を押し出そうとしたが、うぶな高校生のように、頑として動こうとはしなかった。たぶん、僕はノームに恋をしていたのだろう。

・・・

 帰国する数日前、村から帰ってくると、僕のビデオカメラが部屋からなくなっていた。ホテル中が大騒ぎになり、オーナーと話している僕のところにノームが駆け込んできて、僕にすがりついた。「しまった」と思った。たしかに、真っ先に疑われるのは彼女に違いない。黙っていれば良かったのかとも思ったが、すでに遅い。オーナーは大変な剣幕で、ノームを含め、疑わしい者すべてを一室に監禁し、長時間の尋問を開始してしまった。結局、ひとりの少女が、僕の留守中に忍び込み、盗んだのだということが判明し、すぐに出身の村へと帰されてしまった。

 僕はノームでなかったことにほっとしたが、それでも後味の悪い事件で、僕は自分の無防備さを恥じた。

 オーナーが僕の部屋にやってきて、ビデオカメラは、すでに盗品市場で売られてしまっていて取り戻せないとわびた。そして、そのかわり、僕の1ヶ月分の宿泊費200ドルを帳消しにさせてほしいと頭を下げた。びっくりした僕は、盗難保険に入っているのだから、心配しないでほしいと説明したが、カンボジア人の誠実さには本当に胸が熱くなった。

 帰国の日、僕はタクシーに乗りながら、スタッフ全員の見送りを受けた。目を赤くしてくれているノームを呼び寄せ、僕は耳元でこうささやいた。

「冷蔵庫に残っている最後のフルーツゼリーは君へのプレゼントだよ。」

 キザな言葉だが、これが僕の国際保健の原点となってしまった。

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 この話には、後日談がある。

 翌年、僕がプノンペンの空港を訪れると、改築されていて、免税店までオープンしていた。ツンとすました制服の店員に、「馬子にも衣装だな」と感心しながら、店内を見回すと、なんと、僕のビデオカメラが一番上の棚に飾られているではないか。店員を呼んで、取ってもらい、丹念に調べた。間違いない。僕のビデオカメラだ。店員は何も知らずにニコニコして、「スペシャルプライスでございます。」と僕に勧める。そこで、僕は、「ケースと説明書はどこにありますか?」と聞いてみた。と、店員、「ございません。ですからスペシャルプライスとさせていただいてます」。「あたりまえだよ、僕が持ってんだからね」。キョトンとしている店員に、ビデオカメラを返して店を出た。不思議なめぐり合わせだ。だから、カンボジアは面白い。

 ただし、僕とノームが再び会うことはなかったのだが...

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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