■ 「通貨危機」が経済に問いかけたのは…

1998年03月15日


 ちょうど昨年の今ごろだったか、筆者はメインバンクを西日本銀行からサイアム商業銀行(タイ)に切り替える準備をしていた。利率もいいし、現地の代理店への振込みも楽になる。もちろん、成長するアジアの果実の切れ端でも齧らせていただけたらという意地汚い動機もあった。とにかく、あの頃は世界中が「東アジアの奇跡」といってもてはやし、アジアの世紀に出遅れるなと過熱気味であった。

 バンコク行きの準備をしていた2月、筆者は2つのまったく異なる報告書を手にして困惑した。ひとつは、通産省のアジア経済研究所の『1997年東アジア経済展望』(アジ研ワールドトレンド2月号)にある、「東アジア経済は1997年には早くも調整期を脱し、7.8%と堅実で持続可能な安定成長となろう」という総括。いまひとつは、大蔵省財政金融研究所の報告書『アジアをめぐる知の冒険』(読売新聞社)における、「最近のアジア経済の繁栄はすべて嘘であると考えている。どこかに大きな間違いがあると思う。数字の上ではそう読み取れるものが多少あるかもしれないが、アジアが隆々と経済発展することは、当分ありえない。」という発言であった。

 3月、少し不安をかかえたままバンコク入りし、銀行で口座開設の書式をもらったが、もう少し様子をみるつもりで、2週間ほどラオスをまわって戻ってきてみた。すると現地の新聞で、米民間格付会社による、タイ農民銀行とサイアム商業銀行の二行の信用格下げが報じられていた。それで、筆者は口座開設をよすことにして帰国したのだった。

 思えば、あれが97年アジアが見舞われた激震、「通貨危機」の序章だったのである。

◆「通貨危機」が残した課題

 97年7月1日の香港返還という歴史的イベントの翌日に、タイの通貨危機が始まり、瞬く間に東アジア全体 へと波及してしまった。96年末に比した97年11月末の対米レートは、円が11%の下落、シンガポールが12%、台湾が14%、韓国が28%、フィリピン24%、マレーシア28%とことごとく下落した、インドネシアとタイはとりわけ厳しく、それぞれ35%と37%の下落となっている。こうして、数字だけを根拠にした成長神話は崩れ去り、各国経済構造の欠陥が露呈された。そして、「やはりあれは奇跡にすぎなかった」という冷笑が残った。

 社会主義経済の崩壊が明らかになって以降、世界パラダイムは資本主義へと統一された。市場経済の地理的広がりと自由化の流れは疑いもなく奨励され、東アジア経済はその寵児となっていた。しかし、我々は、アジア経済の動向を観察するに際して、あまりに新古典派的なメカニズムとして経済現象を捉えすぎたのではないか。また、数学的才能にはたけるが、現場をないがしろにした経済学者や投機家らにふりまわされていたのではないか。今回の「通貨危機」が我々に残した課題とは、経済現象を、目的としての「効率」と共に、前提としての「文化」、規範としての「正義」という三次元で論ずるということである。すなわち、東アジアにおける経済文化としての権威主義的政治体制、集団主義的人間行動、同族主義的企業運営などといったものが、自由市場経済導入においてどのように振る舞うのか軽視されていたのではないか。西欧文化で熟成された数式モデルが、東アジアで直裁に解をもたらすと考えたのは早急であった。また、成長や開発が、スラムをいかにして増大させるのか、生態系を破壊するのかなど、エコロジカルな経済哲学が欠如していたのではないだろうか。

◆「奇跡」といわれた経済成長

 さて、ここ20年程度の東アジアの高度経済成長は、どのような理由で実現していたのだろうか。「奇跡」にも理由があるのが常である。そして、その答えは大きく3つ挙げることができる。

 もっとも重要な第1の答えは「安価な労働力」にある。東アジア諸国は、先進国の資本と技術にアクセスするため、相互に競争して経済政策の自由化を実施した。これは、先進諸国との間にあった賃金水準の格差が、さらなる利潤の動機として先進諸国の企業を多いに刺激した。よって、生産拠点の大規模な移転がおこり、それが貿易と国内総生産の急成長へとつながった。

 世界銀行による『東アジアの奇跡』(93年)では、タイやマレーシア、インドネシアの成長は、外資を導入した「輸出加工区」における輸出志向政策にあったと結論づけている。そして、その外資を利用する秘密には、 過剰なまでの優遇政策があった。たとえばタイでは投資委員会の指揮の下、バンコク周辺の6県における工業団地などで、@資本の100%外資所有を認可し、A輸入関税を減免(とりわけ輸出加工区では、機械類、原材料にかかる輸入関税を免除)し、さらには輸出のとき、B法人税を3年間免税したのである。こうした、東アジア独特の外国直接投資の導入戦略は、マレーシアのペナンにおける「自由貿易区」や中国の広東省深汕での「経済特区」など、各国で次々にとられていった。こうした産業育成戦略は、戦後日本の経緯 とは若干異なるが、権威主義的政治体制を背景とした政府の選択的介入による「優遇政策」という点では共通している。

 この外資導入は、地方に多量の農民がいる限り、彼らを製造業部門に導き入れることで続けることができた。地方の基礎教育を実現させれば、農民はさらに有効な潜在的労働資本へと成長する。しかし、同時に、農村人口の都市流入はスラムを形成し、都市と農村の経済格差は、国家の重大な不安材料へと成長していった。

 第2の東アジアの高度経済成長要因は、85年9月のG5・プラザ合意から始まった円高ドル安の継続である。85年9月に1ドル237円だった円ドルレートが、86年末には162円、87年末129円へと急速な円高をしめした。この円高は、日本製品と競合する製品を輸出していたNIES諸国を勝利させたばかりではなく、日本の企業が円高によるコスト高で、東アジアに生産基地を移転させることにつながった。

 第3の要因に、原油を中心とする一次産品価格が大幅に下落したことがある。とりわけ原油については、86年に1バーレル27ドルから14ドルへと半減している。これは、重化学工業化を進めていたNIES諸国を成功させ、一方で、原油、ゴム、スズといった一次産品の輸出収入をもとに、国内産業を育成させようとしていたASEAN諸国の開発戦略を、外国直接投資導入へと転換させ、結果、急速な経済成長を実現させている。

 引き続き90年代中葉まで、東アジアには順風が吹いていた。円高が進み、95年4月には80円をついに切るまでに至った。東アジアは着実に輸出を伸ばし、日本では「価格破壊」というキャッチフレーズで、強い円で安価な東アジア製品が大量に輸入されはじめた。

 95年末から96年初頭にかけてのパソコンブームは、WINDOWS95の発売が火をつけたものである。これは、パソコン生産世界一の台湾、半導体を主要輸出品目とする韓国やマレーシア、ディスクドライブのシンガポールをして、産業の高度化、ハイテク化に自信を深めさせることになる。それから、いま一つ、フィリピンではソフトウェア開発がかなり進んだ。これは英語を理解することに加えて、フィリピン人の特性として数学や統計学に強いと言われていることにも関係しているかもしれない。

◆「崩壊」へのシグナル

 しかし、投資ブームを基礎とした経済成長には、いずれ限界が待ち受けている。巨額の外資を受け入れてきた東アジアの弱点には、@資本の逃げ足の速さ、A受入国の経済規模 に不釣り合いなほどの資金量の出入り、B他国の経済的あおりを受けやすい、ということがある。さらに、弱点、というより重大な手抜かりがあった。海外から直接投資がくるということで、輸入が増えて経常収支が赤字で推移し続けていても構わず、政府が安穏としてしまっていたことである。国内的に見たマクロ経済運営は良かったのかもしれなかったが、基礎体力を養う長期的な視野が欠如していた。

 もともと東アジアの国内貯蓄率は、非常に高いが、投資はそれを上回るレベルで、つまり国によって差はあるが、おおよそ国内総生産の30%近くの投資率で行われた。そうして生れた投資貯蓄ギャップが、2つの不安定要因を育てていた。1つ目は、すでにマネージャー、エンジニアなど人材不足があったにもかかわらず、相変わらず生産的な投資にまわり続け、過剰な生産能力が東アジアに形成されてしまったこと。2つ目は、これら投資の一部が、株式・不動産取引への投機へと流れ、バブル経済を作り上げていったことである。とりわけ、商業銀行は大衆から集めた預金と金利の安い海外からの短期資金とを、同族が経営する不動産会社などに融資した。資金は転がされ、実需に基づかない信用が次々と創造され、それがまた過剰投資を呼びよせていた。そこには、借り手企業の経営を厳格に監視するという、ケインズ経済学が期待した銀行の姿はなかった。金融の自由化が受入れた経済のグローバリズムの下で、中世以来、伝統的に育まれていた東アジアの経済文化である華人ネットワークがそのまま持続していたということである。

 そして、東アジアの輸入で、電気製品、衣料、化粧品など高級消費財が急増しはじめた。まさにバブル気分は市民レベルにまで熟成されつつあった。

◆「資本主義」がまねく葛藤

 ファーイースタン・エコノミック・リビュー誌が「アジアはおかしいぞ」という特集をしたのが96年10月31日号であった。その頃から、欧米の投機筋は東アジア経済の構造解析に着手し、@大幅な経常赤字、A実質実効為替レートの増価、B改善されない生産性、そして、Cバブル投資の崩壊など、経済ファンダメンタルズの問題点が次々に洗い出されていった。

 東アジアの高度経済成長は、固定為替相場制による信頼感から、海外直接投資を獲得して達成された。しかし、その維持のために国内金融政策が制限され、流入資金が財・サービスに流れればインフレを、不動産・株式に流れればバブルを引き起こしてゆくことに対応できずにいた。「経済ファンダメンタルズの悪化を為替で調整するタイミングを逸した」というのが、東アジア通貨危機の一般理論なのではないか。

 翌97年2月頃から、投機筋がバーツ売りを仕掛けはじめた。タイ中央銀行はバーツ買いで応戦、通貨不安が勃発した。世界に通貨危機をはっきりと予告したのは、翌97年3月の米民間格付会社による、タイ大手2銀行の格下げであった。米スタンダード・アンド・プアーズ社(S&P)は米ムーディーズ社とならぶ信用格付け機関であるが、同社が、タイファーマーズ銀行とサイアムコマーシャル銀行の2行の信用格下げを発表したのである。同月27日、朝日新聞も「変調目立つタイ経済」という記事で、貯蓄投資ギャップのツケが表面化したと報じた。

 タイは、固定相場制を維持すべく、通貨防衛のため外貨をどんどん放出した。しかし、400億ドルあった外貨準備は7月に限界に達し、バーツは大暴落、同時にマレーシア、インドネシアなど東アジア各国の通貨も下落。メディアはいっせいに「投機家が東アジアに勝利した」と報じた。この屈辱的敗北に、たとえばマレーシアのマハティール首相が、「ビルマのアセアン加盟を承認したことの報復として、欧米はジョージ・ソロス らを使い通貨攻撃を仕掛けてきた」と述べたり、インドネシアのウスマン法相が、「投機家に対し、最高刑が死刑である国家転覆罪を適用する考えがある」などと、投機家を非難する発言が目立っている。しかし、投機家は確かに引き金を引いたが、通貨危機の根拠を創ったわけではないことを忘れてはならない。金融メカニズムの問題点は、投機家が動き出す前から存在していたのである。資本移動により富を搾取し、生産と労働を嘲笑うかのような投機家の行動は、資本主義の大きな問題点であるのは確かだ。だが、投機家非難は何ら解決とはならない。資本主義経済下で国家を運営する覚悟ならば、東アジア諸国の指導者は自らの経済的弱点を検討し、資本主義の荒波に耐えうるよう船を再建しなければならない。

◆「再建」の方向性

 東アジア経済の再建を考えるうえで注意しておくべきことがある。それは、当たり前のことだが「アジアは一様でない」ということ。同じ時期に経済成長を成し遂げ、そして危機に直面しているが、アジアの多様性は、こうした経済現象の裏にも必ずある。

 たとえば、昨年夏、筆者はタイから台湾へと続けて旅したのだが、そこで「屋台」という最末端の経済活動について、興味深い違いを見たような気がした。

 バンコクのパッポン通りといえば売春街として有名だが、そこには同時に屋台がごった返すように並んでいる 。ここを歩きながらまず気がつくことは、そこでは何ら生産的な活動がなされていないということだ。売られている品々、Tシャツ、ナイフ、食器、あるいはビデオソフトなど、すべて商品が右から左へと流れているばかりで、商人たちはといえば、食事をしながらおしゃべりに熱中しているか、せいぜい客に法外な値段をふっかけているぐらいである。乱暴を承知で言えば、あの通りで創造的な仕事をしているのは、哀れみを演出している物乞いぐらいではないか。

 一方、台北の屋台街は、単調なパッポンのそれと比べて活気に満ち、少しずつ趣向の異なる商品が並んでいる。Tシャツひとつ取っても、名前を刺繍してくれたりするなど、商品に価値を付加する努力が見られた。下賎な話で申し訳ないが、筆者がとりわけ注目したのはビデオソフトである。おそらく日本製アダルトビデオの流出物であろうが、商店主によって、きちんと中国語のタイトルがマジックで上書きされていた。

 端的に言えば、タイの屋台は商業であり、台湾の屋台は産業であったと説明できるかもしれない。そして、こうした経済活動への姿勢は、国家レベルにもよく反映されていると思う。タイであれば、生産工程を下請けにたらい回しにしながら、資本を外部に依存するという危うさが屋台にも見て取れる。おそらく、台湾はそれほど危険な状態にはなく、工業化の段階が途上にあるだけで、さらに進めばリバース・エンジニアリングを脱し、日本型の内部労働市場へと容易に移行できるのではないか。

 今後の東アジア諸国に共通しているのは、多くの国が変動相場制への以降を余儀なくされることだが、この自由化経済に適応するための環境整備、つまり経済ファンダメンタルズの改善と経済システムの構築は、経済発展の進度と形態、そして文化的背景によって異なると考えるべきだ。

 台湾が国際競争力をもった工業化をとげるためには、科学技術水準の向上がカギとなるだろう。しかし、台湾の研究開発、とりわけ民間部門はまだまだ立ち遅れており、科学技術政策の重要性が高まっている。台湾が得意とするICなどの電子産業は、日本の通産省にあたる経済部管轄下の工業技術研究院の研究成果に他ならない。だが、こうした高度な技術開発をするだけの動機も、資金力も民間部門には備わっていないのが台湾の実状である。今後、台湾の産業界が多様性を得て、複合的に、相乗的に経済発展を目指すなら、民間による研究開発を促すような政策をとってゆく必要があるだろう。そして、次に台湾が必要とするのは、こうした民間の創意工夫を評価し、積極的に輸入してくれる国、つまり80年代のアメリカが日本に果たしたようなグローバル・マーケットである。言うまでもなく、その役割が求められているのは「経済大国」としての日本である。

 もう一点、今後も続くであろう急速な重化学工業化は、土地が狭く、人口密度の高い台湾の環境を急激に悪化させるだろう。ここで、同様の経験を持つ日本の知見を台湾に伝えることが期待される。環境破壊には著しい不可逆性があり、市場メカニズムに任せながらの「試行錯誤」は非効率になる可能性が高い。産業公害への対策や、地域開発についての行政サイドへの経験を移転させるばかりではなく、NGOの育成など環境行政への市民の積極的な参加を促しつつ、アジア的風土での社会的合意の形成法など、伝えるべき経験が日本には蓄積されているはずである。

 一方、タイに求められるのは、国内における人材の育成であろう。基礎教育からOJT まで通じて技能形成できるよう、労働者レベルでの技術移転を日本が提供してゆくことが期待される。すでに近隣諸国と比して先進化しているタイにとって、労働集約型産業は競争力を失う一方である。資本集約型産業への再配置と、これを支える労働の質がタイ経済の目指すべき道である。そのためにも、通貨危機でも決して破壊されることのない人材こそが、積極的に導入されるべき資本であった。

 また、スラムの問題も健全な産業都市を形成するうえで大きな課題である。都市機能の分散も重要だが、人権への配慮を無視した強引な政策は、更なる国内不安を駆り立てるばかりであろう。

◆「日本」に求められていること

 ここでは対照的な2国の例にとどめたが、東アジア諸国の経済再建において、これまで示してきたように日本の役割が極めて大きいことでは共通している。

 東アジア諸国の通貨下落により、輸出は急回復できる状態にある。しかし、それが、輸出を順調に伸ばしている中国から削り取る形であれば、それがまた次の東アジア不安の材料になりかねない。アジア全体が再び成長軌道に乗るためには、国内に多少の血が流れることを黙視しながら、日本が率先して東アジア工業製品のアブソーバー役を引き受けることが求められる。しかし、日本の東アジアからの輸入は、円建てでもほとんど伸びておらず、おそらくドル建てではマイナスとなっているのが現状である。

 東アジアの安価な労働力を利用し、そして都合が悪くなると撤退するという経済合理主義ではなく、東アジアの経済的な意味での守護者たらんとするグローバル・ケインズ主義を理解できるのか、21世紀初頭の日本人に突きつけられた経済課題である。

 そのダイナミズムの渦中にあってアジアの多様性をどう維持するのか、いかに尊重できるのか、これを経済そのものの再吟味を加えながら議論してゆかなければならないのではないだろうか。東アジア諸国は、大なり小なり経済大国としての日本をモデルに成長を遂げてきている。日本には、これまでの経験とその反省を踏まえて、落ち着いた分析と提案で貢献する責任がある。そしてそこには、独自の経済路線を摸索しようとしているアジアの姿があってもいいのではないか。多様性をむしろ活かし、地域の価値を花開かせる。そんな経済構想を日本がつくってゆくことを期待したい。

 経済成長という目的と平行して、今後は共生を意識した経済社会を形成してゆかなければならない。つまり、「長期的な調和と安定の土台として、経済はいかに振る舞えるか」これが経済に問われているということだ。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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