■ 難民とはなにか

1997年12月22日


人間への愛、それこそは最も具体的かつ実践的な政治である。
(フリチョフ・ナンセン)

◆現代のパンドラの箱

 難民キャンプは現代のパンドラの箱である。それは、人類が世界に満ち、支配し、争うようになった結果もたらされた。

 その蓋を開けるものは、殺戮、殲滅、虐待、差別、侵害、そして飢餓、ありとあらゆる現在の恐怖を観るだろう。その昔、人類が神の火を盗み、様々な技術を持ちはじめたとき、ゼウスによって贈られたあの災いの箱には、少なくとも希望が盛り込まれていた。しかし、武力に取り憑かれた人類は、難民キャンプの希望の灯を消しさる寸前にまで追い込んでいる。今後は、深刻になりつつある食糧問題がこれに拍車をかけるだろうし、来世紀には、僕たち日本人からも難民が発生する可能性すらある。僕たちは、絶望のまま、難民があふれる21世紀を迎えようとしているのだろうか。

◆難民とはなにか

 難民とは、単に「可哀相な人」ではない。

 難民とは、ただ「飢え、流れ行く逃亡者」ではない。

 難民とは、まず「パスポートを持たぬ者」として始まる。

 パスポートは、いのちの次に大切なものである。日本人にはわかりづらいことであるが、世界的に通用する国籍証明書、すなわちパスポートは、生存上不可欠のものである。

 国籍が無ければ、たとえ裕福であろうと、名門大学の学位をいくつ持とうとも、家を借りることも、職を得ることもできない。彼らは、隠れてその日の糧を稼ぎながら、いつか不法滞在、就労者として捕縛され追放される日に怯える。そして、何もかもはぎ取れられ追放され、新たな国で、新たな不安の日々が始まるだけである。

 難民保護を、「飢える子らに日々の食事を与え、無知な大人たちに教育を授けること」と考えるとすれば大きな誤りである。この誤りは、寄付金を募るNGOらによるポルノ的な写真によって加速されたかもしれない。しかし、かのアインシュタインも、フロイトもユダヤ難民であった。旧ユーゴの難民にも、オリンピック選手、ベルリンフィルを目指す若者、大学教授がいた。そして、平和な、穏やかな家庭を築いていた普通の夫婦、そして子供たちが、突然の戦乱に国を逃れ出た。そんな風景がある。

 飢餓や貧困、迫害や拷問、このような人道的問題は、難民を考える出発点ではない。難民保護とは、世界が国家で埋め尽くされた時代の、国際法上の問題として始まる。

 それでは、まず、難民保護の生みの親とされるフリチョフ・ナンセンの足跡をたどりたい。

 フリチョフ・ナンセンは、1861年、現在のオスロ市であるクリスチャニアで生れた。彼は、20代はじめに動物学者として成功し、海洋学、地質学、人類学、社会学など、様々な学問分野に偉大な功績を残している。また、彼については、学問的追求のみならず、極地探検家としても名高い。初のグリーンランド横断者であり、北極探検中、救助されるまで1年以上を粗末な小屋で生き延びた経験もある。

 やがて、ナンセンは政治家に転身。1905年にノルウェーとスウェーデンの連合が決裂後、その手腕と国際的名声によって、ノルウェーを独立国家として国際的に承認されるよう活躍した。

 第一次大戦後の1921年、国際連盟は、ナンセンを難民高等弁務官に指名する。世界的な大戦は、多数の戦争捕虜と150万人の難民と避難民を世界に散在させていた。国際連盟は、彼をその調整役として期待したのである。以降、ナンセンは難民のためにその人生を捧げることになる。 「すべての難民に法的立場の認知を…」

 彼は、この実現のため「ナンセン・パスポート」を発行し、51ヶ国にそのパスポートを認めさせた。これは1922年だけで150万部発行されている。これにより、難民は収容されることなく、移動の自由が保証された。さらに、ナンセンは世界中の難民を探し、救出してまわった。その数200万。彼らは、ナンセン・パスポートにより学校に入学し、職場を探し、やがて帰化していったのである。

 ノーベル平和賞を受賞したナンセンは、1930年、オスロ市近郊の自宅で息をひきとった。彼の勇敢な人間愛は、難民問題と戦い続ける人々の胸に今も光る。冒頭のナンセンの言葉は、難民保護に献身した人に贈られるナンセン・メダルに刻まれている。

◆誰が難民なのか

 ナンセン・パスポートは、現在の「難民旅行証明書」に引き継がれている。そして、現代、国際社会は、このパスポートを手にした難民を積極的に保護してゆくという点でほぼ合意している。しかし、「難民」を正確に定義することは難しい。現在、多くの人々が、自分の国籍国を離れて生活している。迫害の恐怖から国を逃れた者、より良い環境を求めて移住しようとする者、政治亡命希望者、貧困から国を逃れた不法就労者など、様々なパターンがある。これらを、自然難民、経済難民、環境難民、政治難民、あるいは流民、避難民などと便宜的に呼び分けられているが、そのうちの誰が保護の対象として「難民旅行証明書」を発行すべき「難民」なのか、識別するのは極めて困難になってきている。

 難民の認定は、国際条約の積み重ねの上にある。近代国家に近い存在が、紀元前1500年頃、近東地域で生れ始めた頃から、難民の歴史、難民庇護の歴史は始まっている。

ヒッタイト王の宣言
 難民に関しては、我は以下を誓う。すなわち、貴殿の領土から我が領土へ難民が来た場合、彼は貴殿の領土に戻されることはないであろう。ヒッタイトの領土から難民を追い返すのは、正しいことではない。

 しかし、近代までのこうした宣言は、難民の保護を「国家の権利」として主張したものであって、「国家の義務」として第三国に要求したものではなかった。それゆえ、必ずしも「難民」を明確に定義しておく必要もなかったといえる。しかし、1933年の「難民の国際的地位に関する条約」が、初めて一般的な難民の保護を国家に求めて登場した。これは、第二次世界大戦後、UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所)が難民の保護にあたるとともに、1951年の「難民の地位に関する条約」(通称、難民条約)に引き継がれ、1967年「難民の地位に関する議定書」の締結でより強化された。これは、「難民」として認定された者の保護を、締約国に義務づけた国際条約である。

1951年の「難民の地位に関する条約」
1967年の「難民の地位に関する議定書」

第1条【「難民」の定義】
A(2) 人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができない者またはそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まない者、(1967年の議定書第1条(2)によって修正)

 この条約は、都合よく解釈されてきた「難民」の概念について一応の基準を設け、難民の人権保護と、難民問題解決のための国際協力を発展させた。しかし、「迫害の恐怖」を難民の発生源とする基準はあまりに狭く、様々な要因から、本当の保護を必要としている人々の実情をつかみきれてはいなかった。

 1960年代半ばから、独立戦争や内乱などのため、アフリカにおいて、大量の難民が発生した。これに対応して、OAU(アフリカ統一機構)は、1969年、独自の難民条約を採択している。

アフリカにおける難民問題の特殊な側面を規定するアフリカ統一機構条約
第1条【「難民」の定義】
1. [1951年「難民条約」の第1条1A(2)の定義]
2. 「難民」とはまた、外部からの侵略、占領、外国の支配または出身国もしくは国籍国の一部もしくは全体における公の秩序を著しく乱す事件の故に出身国または国籍国外に避難所を求めるため常居所地を去ることを余儀なくされた者にも適用される。

 この条約では「迫害の恐怖」という言葉を用いず、個人の状況はともあれ、社会不安による避難を認めている。これはアフリカの動乱を背景に故国を失った人々を含めるためであった。 このように、避難形態の変化と、難民について国際社会の理解が進むにつれて、国際条約は実態に沿った変化を遂げてゆく。次の条約は、1969年、コスタリカで開かれた米州人権特別会議において署名されたものである。

米州人権条約(コスタリカ・サンホセ条約)
第22条
(2) あらゆる人は自国を含むいずれの国をも自由に去る権利を有する。
(5) 何人も自己がその国民である国家の領域から追放されたり、入国する権利を奪われることはない。
(7) あらゆる人は、政治犯罪または関連普通犯罪で追求されている場合、国家の立法及び国際条約に従って、国外領域で庇護を求めかつ与えられる権利を有する。
(8) 外国人は、自己の出身国であるなしにかかわらず、その国において生命または身体の自由を享有する自己の権利がその人種、国籍、宗教、社会的地位または政治上の意見を理由に侵害される危険にさらされている場合には、いかなる場合にも、その国へ向けて出国強制または送還することはできない。

 この条約では、いわゆる政治難民の保護を認めている。もちろん、この背景に緊迫する東西冷戦があったことは言うまでもない。 次の宣言は、1984年、コロンビアで開かれた「中米、メキシコ及びパナマにおける難民の国際的保護に関する専門家会議−法的人道的問題」と題する会議で採択された。これは、これまで築かれてきた難民についての国際合意の集大成ともいえる。そして、法的拘束力は持たないものの、中米地域の難民政策の基礎となり、多くの国の国内法に受容されている。

難民に関するカルタヘナ宣言
結論3
 中米地域における大規模な難民の移動から得た経験を考慮して、OAU条約(第1条第2項)の先例及び米州人権委員会の報告で採用された原則に留意しながら、適切である限り、またこの地域の事情に照らして、難民の概念の拡大を考える必要がある。したがって、この地域で適用するために勧告すべき難民の定義または概念は、1951年の「条約」及び1967年の「議定書」の要素を含むだけでなく、一般化された暴力、外国からの侵喀、国内紛争、大規模な人権侵害または公の秩序を著しく乱すその他の事情によって、生命、安全または自由を脅かされたために自国から逃れた人々をも難民に含めるものである。

◆主体はどこにあるのか

 難民キャンプとは、客体が内にあり、主体が外にある不思議な世界だ。難民問題とは、常に私たち自身に向けられている。ここで、もし「自助努力」という言葉を難民問題にふりむけるとするならば、行動すべきは難民なのではなく、私たち自身だということに気がつく。

 今後、私たちが準備しておくべき難民問題の焦点は、次の2点が考えれる。

 まず、貧困から国を逃れてくる人々、つまり経済難民をどのように認めてゆくのか。これは、具体的な線引きが難しいところである。そして、新たに、災害や環境破壊などにより常居所を立ち去らざるを得なくなくなった人々、つまり環境難民の保護が焦点になりつつある。発展途上国の工業化とともに、この問題は顕在しはじめる可能性があり、将来的には温暖化による海面上昇による難民発生についても真剣に議論する時期が来るであろう。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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