■ 健康概念とWHO憲章 〜世界中を健康に!〜

1997年12月15日


 WHOが保健医療分野に果たした役割は巨大である。その活動がもたらした影響はたいへんに大きく、ここで論じるまでもない。さらに、WHOとその関連機関が創出したいくつかの理念は、保健医療、あるいは国際保健を支える最大のイデオロギーと言って良い。強力なイデオロギーは、口先だけのスローガンと違い大きな行動変容をもたらす。

 WHOが健康概念に関して作った理念のうち、特に重要なものは3つある。ひとつは、1946年に採択された「WHO憲章 序文」、ふたつめは1978年の「プライマリヘルスケアに関するアルマ・アタ宣言」、最後は1986年の「ヘルスプロモーションに関するオタワ憲章」である。ここでは、人類が求めるべき健康を定義づけたWHO憲章前文を取り上げる。

世界保健機関憲章 前文(1946)
 健康とは、単に疾病や虚弱がないことではなく、身体的、精神的、社会的に完全に満足のいく状態を指す。健康は人間の基本的権利であり、到達可能な限りの高度な健康水準を達成することは、全ての人間の基本的権利のひとつである。

 非常に有名な健康の定義である。一般的に考えられている、病気がない状態としての健康ではなく、精神的社会的な状況にも注目した点で当時は画期的であったと思われる。個人を社会的なコンテクストからもとらえようとする文化人類学的な視点は、以後の宣言には頻繁に登場する(cf.オタワ憲章)。

 また、個人の健康の実現を社会の責任として明記し、「個人の健康権」とでもいうべきものを提唱している。健康が人権の一つとして取り入れられたわけだ。その意味でもこの憲章は影響が大きかった。例えば日本国憲法25条は、健康実現を「国民の権利・国の義務」として定めている。これは、25条作成に関わったGHQ幹部がWHO憲章に近い立場にあったためではないかと推測される。ともかく、大戦後に制定された各国の憲法には、「健康権」が取り入れられているところが多い。大戦前には、そのような憲法を持つ国はソビエト連邦一国だったことを考えると、WHOという一種の理想機関が世界の保健行政に与えた影響の大きさが理解できるだろう。

 ただ、この健康概念は理想的すぎて現実にどのような状態を指すのかが明確でなく、次の3つの問題点が指摘されている。

 まず、病気を持ちつつも健康な状態の存在を否定している。例えば「障害を持った人の健康」である。このような「健康」は本当に存在し得ないのだろうか?

 次に、現実に適用困難な定義ゆえに、かえって医療従事者に軽視された側面があると思われる。その結果、医療者の健康概念が旧態依然としたもの(「病気を治せば健康になる」など)に留まっているとは言えないだろうか?

 問題点の3つめは一番重要である。WHOという権威ある機関が「健康」を簡明に定義づけたため、この定義が一部の医療保健関係者にドグマッチックに信奉され、言葉を連呼するだけで健康を理解した気になってしまうことはないだろうか?実際、保健に関する多くの日本語教材・文献は「健康」についてWHO基準を大きく取り扱っているが、それ以外の健康概念の存在に深く言及したものは少ない。「健康とは何か」を考えないまま技術論的な健康増進に終始する保健教育・行政は、本当に保健サービスの必要な層に恩恵を与えることはないだろう。

 理想主義的で単純な健康のイメージは、「幸福」と同一視されるので、保健医療と幸福の追求を同じものと見なす思想(保健医療の絶対化)を導くかもしれない。

【野田龍也・九州大学医学部学生】


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