■ ネパールの医療施設見学より

1997年11月21日


 今夏、私は初めてネパールを訪れた。それまでネパールについては、ヒマラヤ山脈に抱えられた<山の国>というイメージしかなかった。しかし、自分の目でじかにこの国の人を見、町や村を歩き、そしていくつかの医療施設を見学して 、一つの言葉ではくくりきれない多様さを感じた。

 とりわけ印象に残っているのは、都市部の近代化された病院と、地方のヘルスセンターとの格差だった。このことについて感じたことを、前編では都市について、後編では地方について、できるだけありのままに述べてみたい。

 ネパールの首都カトマンズは、1400メートルの盆地に位置する。そこでは日本やインドの中古車からの排気ガス・クラクションの喧燥にあふれ。道いく人々も急ぎ足で都会風だ。ネパール全土2000万強の人口のうち、140万がこのカトマンズ盆地に暮らしており、地方に暮らす人々は、今でもカトマンズに出て行くことを「ネパールに行く」と言うらしい。

 トリブバン大学医学部 はそんな街の一角にある。広い敷地には随所に青々とした木々が茂り、落着いた煉瓦造りの建物が並んでいる。ここは国内屈指の高次医療機関であり、12の診療科と400床の病床を持っている。そして、国中から1日約850人の患者がやってくるのだ。

 朝の9時、受け付けはとても混雑していた。どの診察室も人が一杯で、診察中の医師のまわりをほかの患者が取り囲んでいる。プライバシーへの配慮が感じられなかった。

 患者はどの医師に診てもらうかを自分で決めることができる。だから、有名な医師に人気が集中するようだ。初診10ルピー、以後5ルピー。ただし薬代は別途。次回説明する村のヘルスセンターやポストでは、薬代込みで2ルピーだった。この差は、設備や技術の差に所以しているのだろうか。

 ちょっと不思議だったのは、病院にカルテを保存するシステムがなかったことだ。患者自身にカルテを手渡すのだが、どうも保管している人は希のようで、系統だった医療が実現できているのか少し不安を感じた。ただし、眼科では、日本の援助によって先進的な設備を備えており。コンピュータを使ってカルテの管理を始めていた。これが、なおさらギャップを感じさせて、援助のパワーを実感させられた。

 入院病棟では、患者の付き添いの人が多かった。付き添いの人が患者の食事を取ってしまうという困ったことが起こるそうだが、小児病棟では昼間にもかかわらず父親の姿が目立ち、さびしげな日本の病棟と比べると活気があっていいと思った。もうひとつ、日本との違いを強く感じたのは、ベットカバーやカーテンがエメラルドグリーンだったことだ。日本の病院の白やパステルカラーに慣れた私の目には少々奇異に感じた。

 皮膚科では毎週水曜日をハンセン病 の日と定めて、その日に集中的に診察・治療にあたっている。そういえば、カトマンズの道端で物乞いをする人々の中には、手や足の指が何本かない人もいた。その水曜日には、大体10人から15人のハンセン病患者がやってくるのだそうだ。私が見学に行った日は水曜日ではなかったが、たまたまハンセン病の疑いのある男性が検査にきていた。その検査に立ち合わせてもらった。それは私にとっては印象的だったので詳しく述べたい。

 男性は37歳、ネパールの南部に住んでいる。今日はわざわざバスでカトマンズのこの病院まで検査を受けに来たのだ。なにも検査はトリブバン病院に来ないとできないわけではない。事実、彼は地元の病院で検査を受けていてハンセン病だと診断されていた。が、彼にはそれが信じられなくて、この病院で再検査をしてもらおうと思ったのだ。彼は自分の勤めている工場で使用した酸のせいで皮膚がかゆくなったのだと主張し、ハンセン病であるということを認めようとしない。ドクターは「顔を見ただけでもハンセン病だと分かるよ。」と言う。確かに目は赤く、耳たぶは腫れている。腕には紅斑もある。

 検査は、様々な道具を用いて行われた。試験管の1本は水を入れ、もう1本にはお湯を入れ、それを手、腹、足に当てて温度の違いが認知できるかどうか。また虫ピンで皮膚を刺激して痛みを感じるかどうか。綿で皮膚を撫でて感じるかどうか。彼の反応はいずれも鈍かった。そして耳たぶから皮膚を少しとり、菌がいるかどうかマイクロスコープで見る。それを覗かしてもらうと非常にたくさんの菌がいた。彼はやはりハンセン病だったのだ。

 「いったい彼はこれからどうなるのだろう」と私は不安になった。療養所に入らなければならないのか、そうだとしたら大黒柱を失った家族の生活はどうなるのか。ところが、そんな私の心配も杞憂に過ぎないようだった。医師によると、この男性の場合外傷がないので入院する必要もないし、仕事も続けていくことができるということである。また、薬代は政府とWHOが負担してくれ、地元の医療センターで受け取れるのだという。しかも、薬(スルフォン系薬剤とリファンシン系薬剤の併用)を飲んでいたら2年以内に通常は完治するそうだ。それを聞いて私は少し安心できた。と同時に、いまでは薬で治療可能な病に対して、「即療養所」としか思い浮かばなかった自分が恥ずかしかった。

 さて、近代的なトリブバン病院に圧倒された私は、「地域に密着した医療は?」というわけで、首都カトマンズからバスに揺られて 2時間、ドゥリケルという町に行った。

 ドゥリケルはカトマンズから南東に32キロ、標高1524メートル、ヒマラヤの展望台として知られている。周囲を青々とした山に囲まれ、その斜面には棚田が広がる。町には小さな寺院が点在する。赤茶色の煉瓦の家、小道にはヤギ、そしてその横をニワトリが駆けている、ノスタルジックな町。

 そのドゥリケルにあった診療所の建物は、まるで小屋のようだった。かろうじて看板が掲げてあるのでヘルスセンターだと分かった。このヘルスセンターでは、感染症(結核・寄生虫・ハンセン病など)のための別棟も設けてあり、ここの診察室のベット、機械の一部はJICAから送られたものだった。

 診察は9時から2時までで、私はお昼過ぎに見学させていただいたのだが、その時には10人以上の患者が診察を待っていた。ここでは診察と薬のみで、入院は無し。一回の診察代は2ルピ−(薬代込みで)である。前回紹介したカトマンズの大学病院が初診10ルピーだったことを考えれば、地方の医療費はかなり安いと言えるだろう。ただし、たった1人の医師が、1日に70人から80人の患者を診ていて、医師は本当に忙しそうだった。彼の話によると、このようにヘルスセンターに派遣されている医師は、現在のところ全土に35名いて、首都から遠いほど給料は高くなるのだという。ちなみに彼の給料は、月4000ルピー、日本円にして1万円弱である。それでも、やはり日本と同様、医師は地方を敬遠しているということだった。

 さらに、私はトレッキングをしながらジョムソン(標高2736メートル)という地域へ向かった。カトマンズから北西に約200キロに位置し、これより北は秘境として知られるムスタン王国である。

 ジョムソンは雨期でも雨がほとんど降らない。山に緑は少なく、岩肌がむき出しの部分も多い。また山の頂は淡く雪化粧をしている。そこまでは飛行機(20人乗りの小型のもの)が飛んでいて低地部から人や物資が運ばれてくる。そこから先の村々には飛行機は飛ばない、また車の通れるような道もない。荒涼とした山道を人間や馬の足を頼りにしてひたすら進むのだ。空が、雲が、近い。

 この辺りは昔はチベットとインドを結ぶ交易路として潤っていた。文化的にもチベットに近い。住んでいる人々はチベット系のタカリ族で、その日本人のような顔立ちに親近感を覚えた。

 そのジョムソンで、まず私はトゥクチェ・ヘルスポスト を見学した。このヘルスポストには1ヶ月に40人くらいしか患者は来ないそうだ。5人もの常勤スタッフがいるということだったが、私が行ったときには2人が休みを取っていていなかった。どうやら、あまり機能していなさそうな施設である。次に訪問したムスタン地域病院も似たり寄ったりである。

 こんな話を聞いた。「馬から落ちて大きなたんこぶができたので、地域病院に行ったところ、『あなたはどうして欲しいのですか』と聞かれただけで他に処置をしてくれなかった。あそこは信用ならん。」

 ここジョムソンでは、病院というものが定着していないような印象を受けた。同じ山岳地域でも、病院が機能していたり、していなかったりするのは印象的なことだった。ジョムソンは山がちの地形で、患者が発生しても病院まで運ぶのが大変だったからかもしれない。あるいは、健康教育が不十分なのかもしれない。スタッフのやる気の問題なのかもしれないが、実は、医薬品が不足していて、やりたくても満足な医療が提供できないからなのかもしれない。実際に地域医療を目の当たりにして、プライマリ・ヘルスケア の目指していることの難しさ、複雑さを実感した。

 また、都市部と山間部での医療の設備・スタッフの能力が明らかに違った点も印象的だった。またハンセン病も西部という開発の遅れた地区にいまだに多い。

 こうした地域格差は、突き詰めてゆくと結局のところ新生代のプレート運動の産物なのかもしれない。とすれば、これらはネパールにとって宿命的なものともいえる。トレッキングの山中に転がっていた古生代の化石アンモナイトは、そんな新生代の苦悩を知らないのだろうけど。

【小田梨恵・山口大学医学部学生】


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