■ 日本NGOの将来について

1997年11月15日


1980年代NGO創生の時代
1990年代NGO認知の時代
2000年代NGO淘汰の時代

 現代日本のNGOは、ほぼ1980年代に、カンボジア難民支援を契機として始まった。そして、NGOはブームとなった。国際支援活動は、常に賞賛され、その失敗すらも美談とされてきた。つまり、それを試みるだけで先駆的とされたのである。1990年代とは、NGOが社会に認知されるための時代といえよう。

 しかし、人間とは、持ち上げるだけ持ち上げておいて、それが身近なところでも散見され、取りたてて驚くほどのことでもないことに気が付いたとき、その感情は嫉妬に変わるものである。大衆は、極めて些細な失敗や不正にすらも過敏に反応し、あげつらうだろう。2000年代とは、そのような嵐の時代となるかもしれない。

 最初にNGOが受ける非難は、会計の不明朗さであろう。現在、どの団体でも、企業ほどは会計に力点を置かず運営されている。寄付金や助成金の用途は、確かに不明朗で、架空の物資が購入されたり、人件費が水増しされたりしている例は珍しくない。幸い、多くが第三世界の出来事ゆえ、日本まで漏れ伝わることはなく、仮に誰か日本人がその事実を押さえたにせよ、彼はそれが仕方のないことであることを理解する立場の人間であり、事実はそっとふせられている。ジャーナリストであっても、第三世界の特派員は、NGOのよき理解者であることが多い。

 こうした不明朗会計が存在する責任は、NGOだけにあるわけではない。 外務省の草の根無償資金協力、郵政省の国際ボランティア貯金、いずれも単年度会計をとっており、しかも事前にプロジェクトを立案し予算を組むことを前提としている。ところが、この前提はNGOの活動スタイルと著しくかけ離れている。未知の世界で、日々、試行錯誤を繰り返しているNGOにとって、プロジェクト方針の変更など日常茶飯事である。そうした団体に、一年間分の予算を提出しろなどというのは、土台無理な話ではないか。4月に開始されたプロジェクトが、5月に行き詰まり、6月に撤退を余儀なくされるようなことすらある。このとき、財団などから、そのプロジェクトについて1年間分の経費をすでにもらっていた場合、NGOはどうすればいいのだろうか。糞真面目な話なら、返すべきだろうが、新たに開始されたプロジェクトの運営資金として流用したとしても、仕方ないのではないか。この点は、読者それぞれの判断に任せておこう。ただ、こうした場合、たとえば、購入予定だった1万枚の蚊帳が、井戸掘りの人件費として消えるように、会計上は間違いなく不正が残るのである。これを、なにも知らぬ大衆が発見したとき、彼らはいつまでも黙っていてはくれないだろう。

 次に、NGOが試されるのは、彼らの活動の公正さである。大衆は、この点をあまり気にしないかもしれないが、一部のインテリ階層は過敏に反応しうる。つまり、NGOの活動対象に選り好みはないか、NGOの活動によって差別されている人々はいないか、特に活動による恩恵が一部の人だけに集中してしまったような場合、これは容易に非難される材料となる。批判する人たちは、結果だけをみて論じることができるが、される側のNGOは、それを活動開始前に予測して、公平になるよう配慮しておかなければならない。このような活動評価を事前に行なえているNGOは、まだまだ少数である。NGOは、調査能力をいまから磨いておく必要があるのではないだろうか。

 最後にNGOが問われるのは、その効率性、持続性である。これは主に対象となる地域の政府、機関、そして国際機関、また日本政府、助成金を提供する財団など、組織レベルからチェックが入るようになるだろう。いわば、NGOの目的遂行能力が問われるわけである。この点については、各々NGOが、これからどれだけ外部の意見に耳を傾けながら活動を展開し、経験を積み上げてゆけるかにあるだろう。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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