■ 裏返された貧困の風景

1996年12月1日


 先月(1996年11月)30日より2日間、神戸大学医学部において、「日本国際保健医療学生フォーラム第一回全国大会」が開催された。同大会には、各大学の学生サークルや、AMDA、SHAREなどNGOの学生団体ら25団体が参加し、参加総数213名の大規模な会議であった。同大会の主旨は、要約すると、「会おう、話そう、つなげてみよう」という、活動の裾野を広げてゆこうとするもの。及び、「学生として何ができるか」という行動方針の検討であった。

 この会議に筆者も参加し、80分間の分科会を担当し発言してきた。ここでは、自らへの反省を込めつつ、同大会についての個人的な見解をまとめておきたい。

◆集うことは成長につながるのか?

 国際保健に関わる学生組織は活性化し、そのネットワークを広げようとしている。しかし、このネットワーク作りそのものに、筆者はある種の不安を覚えている。

 その不安とは、各サークルや個人をつなげ裾野を広げていこうという主旨への若干の不安。それはビジョンのない大衆が迎合することへの不安に似たものである。まず、国内での報告会などに足しげく参加してまわり、仲間を募っている医学生の大半は、「何ができるか」わからず集う烏合の学生たちなのではないかという不安に筆者はとらわれる。本当に「何ができるか」気がつき、動きだしている学生たちはこうした組織化の必要を感じないのではなかろうか。そして、組織作りにばかり専念する学生たちの大半は「何ができるか」示されたにせよ、そもそも行動するつもりがないのではないか。真剣に考えれば、ささやかでも「何ができるか」ぐらい気がつくというものだが。

 カンボジアを旅しながら、筆者は行動する多くの学生たちに出会ってきた。病院の短期ボランティアを繰り返す学生、井戸を作ろうとする学生、調査研究を通して将来への準備を進める学生、これらはいずれも行動という学習活動であり、彼らが現地の役に立っているかどうか怪しげだったが、その熱意は確かにカンボジア人に伝わっていたものと思う。そして、学生大会に参加するような余裕は、時間的にも、経済的にも彼らにはなかった。

「え? 子供たちが死んでるって?」
「そりゃー大変だね」
「まあまあ一杯」
「さあ、かんぱーい」

 学生大会後の宴会で、ある学生が「関心がありながらも活動のきっかけをつかめずにいる学生を巻き込むのが、大会の重要な役割のひとつなんだ」と筆者にクレームをつけた。筆者が「大会に参加するよう手取り足取り世話することもない」と発言していたからだろう。聞けば彼は連絡係として、大変な努力を払っていたのだという。彼の労力に敬意を表するが、筆者の意見にも耳を傾けてほしい。 国際保健医療協力に本当に関心がある学生なら、彼がどこにでもアクセスできる環境が日本にはある。NGOの入会案内や講演会、スタディーツアー。さらに、政府や自治体、メディア、企業らが主催する企画も全国各地で目白押しだ。この情報化社会で孤立している学生などいないはずだ。

◆集わなくても行動できる

 いや、本当にやる気があるのなら、本人はすでに動きをとっている。

 筆者にはAさんというユニークな友人がいる。彼は高校時代から国際協力をやりたくて、アルバイトをしながら貯金をしていた。高校を出てすぐカンボジアの土地を買い、小さいが2棟ある小学校を建て、さらにアルバイトを続けながら教員の月給(80ドル)を送金していたのである。

 数年前、彼は学校に保健室を作ろうと考え、どこかで知ったようで筆者を訪ねてきた。限界を感じた彼が、はじめて集うことを考えたようである。筆者には筆者の経験があったので、フィールドとしている村を案内しながら、筆者なりにカンボジアの保健問題を解説し、また保健室を作ったあとの村に与える影響評価の方法を助言したのだった。先日、Aさんと再会したとき、彼はいま、その小学校運営を自治体に移行させるため折衝中だと言ってた。そして、また新たな小学校を建設するのだということである。

 学生の活動は、役に立つ必要などない。筆者はそう考えている。これは、試行錯誤の学びの過程である。そして、この試行錯誤に多様性の鍵がある。学生が横並びにNGO見学に行ったり、東南アジアの医学生をもてなしたりしても、もちろんそのような活動もありうるだろうが、黎明期の国際保健は沈殿するだけである。そして、いまの学生組織には、これを加速させる要素を筆者は感じている。

 Aさんを、「カンボジア小学校教員の月給分を割いてでも参加したい」と思わせる組織へと成長してほしいとは言わないが、高校生のときのAさんの熱いまっすぐな気持ちを、学生組織に誘うことで横へ向けさせるようなことはしてほしくない。

◆貴重な芽をつまないこと

 徒党を組まずとも、何かができることの可能性を多くの学生が教えてくれているはずだ。もちろん、やる気のある学生でも、動き出せずに四苦八苦している学生も確かにいるだろう。しかし、その葛藤こそが学びの過程であり、明日の国際保健の糧となる。これを、何かをするふりをして集っている凡庸な学生の中へと引き込んでしまうのは、きわめて可哀相だ。最悪の場合、芽を摘んでしまいかねない。 日本の国際保健協力は黎明期である。そして、日本の医学生も新時代へ向けて摸索中である。まだまだ、確かなことなど何ひとつなく、医学生は何も知らないに等しい。そのような集まりに新入生を呼びつけて先輩面をされては、たまったものではない。もっと色々な体験を経てから、結果をもちより「自省」すればいいのではないだろうか。いまは何にもしていないのだから「自省不能」は当たり前である。もし、「自分は何にもやってない!」と自省している学生がいるとすれば、「お前もいいかげん思春期ぬけろよ」という話になる。

 確かに、人類はたぐいまれなる知性と団結を誇るが故に、いまの栄光を手にしたのだと言える。ただし、やはり歴史が示す通り、ビジョンのない人々に力をもたせることほど危険なことはないのである。政治腐敗は公民意識のない大衆から発生する。科学技術による社会の混乱は理想を見失った技術屋が扇動している。しかも、彼らは行動する者、真実を語る者を敵視し、孤立させることに専念する。そして、貪欲に仲間を募り、怠惰と凋落の饗宴へと誘い込むのだ。筆者は、ネットワーク化されつつある医学生組織がそうならないことを強く願っている。 そのための方法はただひとつ。各々が行動を開始し、「何をしてきたか」を話し合い、検討の場にすること。

 話し合うことに意義はない。行動してはじめて可能性が垣間見える。飢える子らを、嘆き苦しむ犠牲者らをダシに集うこと、酒をくみ交わすこと。そういう事もあるかもしれない。しかし、それで満足するとすれば、これほど卑劣な行為はない。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


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