■ 行基にみるNGOの原風景

1996年05月15日


 阪神・淡路大震災に始まった95年は、ボランティア、NGOという言葉が、現実的な意味をもって広がった年でもある。以来、ボランティアについては、その担い手を「宗教的背景をもつ人々や一部の専門職である」という認識から、加えて、若者・学生、そして主婦、定年退職者へと広められた。もちろん、企業などの構成員でも参加しやすくなるよう、準備を進めようという動きもあった。また、NGOについても、その内外での活動がよく報道されており、関心と期待が寄せられるばかりでなく、ボランタリズムの中継点として様々な人材も集まりるようになってきた。そして、NGOとは何なのか、NGOの役割とは何かについて再検討がはじめられている。

 NGOを考えるとき、西洋の系譜からはじめてしまうことが多い。しかし、日本社会のなかでNGOが立場を模索しているいま、単に西洋NGO の経験を踏襲しても、市民組織として定着してゆけるか不安を感じる。たとえば、僕は西洋と日本のボランタリズムの原動力に違いがあると感じている。西洋のボランティア活動の長い歴史を振り返れば、そのほとんどの先頭に宗教団体が立っていたことがわかる。特に国際協力の分野は、キリスト教会、伝道会によるものが多い。これらが慈善活動と呼ばれていたように、こうした活動のモチベーションとは慈善、もしくは奉仕の精神であり、いまも西洋NGOの根幹を支えている。

 ところが、79年のインドシナ難民大量流出を契機に設立され、いま日本のNGOの中核をなしている団体の多くが、活動内容を西洋NGOのコピーとしたにせよ、そのモチベーションには、相互幇助と協力を掲げてきた。もちろん、西洋、東洋を問わずNGOはいま、その活動をグローバルな社会変革運動の一部と位置づける方向にあるが、そのモチベーションはというと、僕の印象では、それぞれのお国柄がいまも表れている。やはり、日本には日本的なNGOのスタイルが確立されてゆく必要があるのではないだろうか。ここでは、日本独自のNGOの系譜をひもとき、日本的なNGOとは何かを考え直してみたい。

 日本の社会事業、農村開発がNGOを主体として活発にすすめられたのは、国家の体制がまだ不十分で、地方では民間の組織、つまりNGOの力に頼らざるをえなかった古代から中世にかけてである。これらNGOの指導者とは、そうした社会事業に参加することを勧め、資金を提供するよう勧めて歩いた勧進聖、たとえば空海、空也、行円、重源、叡尊、忍性、そして一遍らである。彼らの活動は、橋を架けたり、道を通したり、あるいは港湾整備や灌漑施設の整備、さらには布施屋という浮浪者救済の宿泊所の建設など、本来国家が果たすべき役割を、代行し補充したものであった。そして、彼ら勧進聖たちの草分けとして、東大寺大仏を造立したことでも有名な行基がある。

 行基は西暦668年の生まれ、飛鳥から奈良時代にかけて生きた僧である。『天平十三年記』によると、彼の指導による社会事業は、橋6ヶ所、道1ヶ所、池15ヶ所、水路10ヶ所、港2ヶ所、堀4ヶ所、布施屋9ヶ所とある。このような、彼のNGO活動の幅広さは、彼の人間的魅力もあったろうが、勧進という独特の手法に支えられていたようである。勧進 とは、公共設備をつくる意義を民衆にわかりやすく説明し、そのための労働力や資金を提供するよう促すことである。そして、彼自身、また彼に付き従った数千人ともいわれる人々(土木工事の技術者や信徒)にとって、勧進とは利他行の社会的実践であり、そこには病人、貧者を救済してゆくことで自らも救われてゆくという大乗思想が根幹にあった。ところで、梅原猛は、この大乗思想が今でも日本に生きていて、それが日本の道徳となり、日本の経済発展を支えてきた、と述べているが、現代日本のボランタリズムの原動力としてもまた、この思想が私たちのなかにあるのではないだろうか。

 僕が行基の活動に注目し、ここで取り上げようとしているのは、彼のNGO戦略にある。彼の進歩的な戦略は今なお、大いに分析に値する。それは、行基の活動のなかに現代NGOが模索している、民衆中心の開発ビジョンと持続性が既に見出されるからでもある。

 行基が活躍した時代背景は、どのようなものだったのだろうか。

 行基が歴史書に登場するのは、717年のことである。同年の『続日本紀』には、

 小僧の行基とその弟子たちは、街の道路に乱れでて、みだりに罪福を説き、徒党を組んで、指に火をともして焚き、臂の皮をはいで経をうつしたりして、家々の門を訪ね、あてにならないことを説き、食物以外のものを乞い、偽って聖の道であると称して人民を妖惑し、そのために僧侶も俗人も乱れ騒ぎ、それぞれの階層の人民は生業を捨てている。

 との記述があり、すでに行基がNGOを組織していたことがうかがえる。日本史が好きだった人ならすぐに気がつくことだろうが、この時代とは、皇位継承をめぐる反目から政情不安となり、貴族は土地私有をめぐって画策するなど、国家の統制が失われつつある時代であった。また、慶雲年間の704年から、全国的な飢饉や疫病が広まり、さらに日照りにより人々は苦しめられていた。これらの不安を一挙に解決しようと、政府は平城京遷都(710年)を断行するが、その造営は過酷を極め、諸国から徴発された力役の民は疲弊し、平城京の周辺や地方に通じる交通路には逃亡した浮浪者があふれ、人々はより一層苦しめられることになった。行基は、このような悲惨な時代に政府に変わって、人々の救済に乗り出すのだった。

 さきほどの『続日本紀』の記述を、僕なりに解釈し直してみよう。

 行基とその弟子たちは、辻々に立ち、他利行の実践を説いている。大勢を引き連れ、なかには、占いを生業とする者、肉食をし皮をまとっている者もいるが、皆、仏道に帰依している。家々の門を訪ね、社会事業を勧め、そのための金銭や労働力の提供を呼びかけ、これを救済の道と信じている。そして、僧侶も、職人も、農民も、団結して土木事業に参加している。

 このような、行基のNGO戦略に、僕は3つの特徴を見出している。

 まず、行基は、信頼を失墜した政府の権威をまったく帯びず、民衆の中へ積極的に入って行った。このように、僧侶が民衆の中にあえて身をおく姿勢は、鎌倉仏教のさきがけともいえる。親鸞らがそうであったように、行基もまた、尊敬と蔑視の狭間にゆれていたとおもわれる。僕は、聖と呼ばれつつも、ぼろをまとい、皮を剥いで肉食をする河原者・坂の者 を大勢付き従え、各地を放浪する行基の姿を思い浮かべる。彼はまさしくアウトローそのものであったろう。行基はアウトローとして、何がこの村に必要なのかを客観的に判断し、情報と技術を提供するだけであった。村人の協力、つまり寄進と労働力提供なしには行基の事業は成立し得なかったからである。そして、政府の権威をかりず、またコミュニティー内部からでもない彼の提案は、村人により純粋に議論される。そこには、何の遠慮も、内部でのかけひきも必要とはしない。やがて、最終的に村人自身によって是非が判断されるだろう。

 行基が、アウトローだったからこそ成し得た社会事業もある。それは、路や橋など、コミュニティーとコミュニティーを結ぶ施設である。これらについて、コミュニティー内部から作る動きを期待するのは難しい。通常は権力が民衆に強制的に作らせるが、政府が不完全なとき、アウトローこそが、複数のコミュニティーを渡り歩き、説得する役割を担うのである。放浪するアウトローは、これらによってコミュニティーを活性化し、交易などのニーズを創出できるメリットもある。つまり、路や橋は、アウトローにとって生きる手段でもあるのだ。

 当初、行基は政府の権威を帯びなかったとはいえ、彼は政府の動きを常に見据えていた。そして、やがて政府をも巻き込み、連携するようになる。これが、行基のNGO戦略にみる第2の特徴である。

 栄原永遠男は、資料的検討によって、行基の水田開発は、三世一身法 が出された翌年からみられるとの結論を得ている。これは、行基が政府を無視して我が道を行くのではなく、その方針に気を配っていたことを示唆している。つまり、行基は、政治が民衆に与える影響をよく計算して、運動の照準を定めていたものと思われる。このような行基の姿勢こそが、やがて政府を禁圧者から協力者へと変化させていったのだろう。

 742年、聖武天皇は、行基に為奈野の荒れ地を与え、救孤独園とすることを許している。救孤独園とは、身寄りのない人 の収容施設である。この事実は、すでに政府が、社会的矛盾の調整をNGOとしての行基に頼っており、行基も国家権力を利用して土地を手にするなど、相互に共存するようになっていることを示している。しかし、行基の活動は、あくまで国家機能、もしくはコミュニティー自身が果たすべき機能の代行であった。全国規模での展開は、1つのNGOでは難しい。その意義を国家が気づき、民衆が理解する必要があったのである。

 そこで、行基の第3のNGO戦略の意味がみえてくる。

 行基は、単なる奉仕や、慈善のボランティアではなかった。彼の活動には、歴史的背景から生ずる必然があった。それを行基は、国家に、大衆にわかりやすく説明したのである。

「もし、あなたが幸せになりたいのならば、まわりの人も幸せにしなければならない。なぜなら、全ての人は因縁でつながっており、あなた1人が幸せになることなど不可能だからだ」

 僕は、行基のメッセージが、大乗思想として日本思想史のなかで育まれ、いまも日本人のボランタリズムの根幹にあると考えている。そして、すなわちそれは日本のNGOの基本理念でもあるということだ。もし、日本のNGOの活動にしっくり来ない部分を僕たちが感じるならば、それは、この基本理念の上に、そっくり西洋型の活動形態をのっけようとしているからではなかろうか。日本人に民主主義が身につかないのは、理念から熟成させた経験がないからだと言う人がいる。もし、その通りならば、NGO活動についても同じことを繰り返そうとしているのかもしれない 。

【高山義浩・山口大学医学部学生】


記事の目次へ    |   トップページへ
国際保健通信の記事・写真の無断転載を禁じます。