「もしもあの時…」

 あの時の忌まわしい事故は、何か一つでも違っていたならば起ることは、無

かったかもしれません。


 3年前の12月のある日、私は忘れることのできない二つの顔を見ることになり

ました。12時を過ぎた頃、「60歳代男性、屋根からの転落事故」との救急指令で

出動しました。現場に到着すると中年の男性がコンクリートの床にうつぶせに倒

れており、頭と顔に出血が見られました。観察の結果、すでに心肺停止状態で、

すぐに心肺蘇生法を開始しました。


 この事故は、住宅2階部分の外壁パネル張替工事で、パネルをトラックから1階

の屋根へ受渡しする作業中に、風にあおられて屋根の上にいた作業員が転落した

ものです。この日は、時折雪混じりの強い風が吹く日でした。その一瞬の風が起

こした事故だったのです。


 車内収容後、心臓マッサージを続けながら男性の顔を見ると、非常にけわしい

表情をしており、私は「怖い顔をした人だなあ」と思ってしまいました。機関員

だった私はその後、病院へと救急車を走らせ病院到着するまで男性の顔を見るこ

とはありませんでした。


 病院到着後、救急室でしばらく処置が続けられましたが、心臓も呼吸も動き出

すことはありませんでした。関係者からの連絡を受け、駆け付けた家族も病院に

到着しており、医師の「ご家族に入ってもらいましょう」の言葉で処置は終了

し、何本ものチュープなどが外されました。助けることが出来なかった虚しさの

雰囲気の中で、あらためて男性の表情を見ると、まだけわしい顔をしていまし

た。


 少しの時間が経ち、最愛の家族と無言の対面をしている男性を見て私は自分の

目を疑いました。それは男性の顔が穏やかで優しいさっきとは別人のような顔を

していたからです。このとき初めて亡くなった人にも表情があることを知りまし

た。


 消防署への帰り道、私は救急車を運転しながらも男性の表情が頭から離れませ

んでした。もしかするとあの怖い顔は亡くなることへの侮しさの表情だったかも

知れません。あのとき強風が吹いていなければ、吹雪が無く作業がはかどってい

たならば、この事故は起きなかったかもしれず、ほんの少しの忌まわしい偶然が

重なっておきた事故で、最愛の人と別れることとなった男性とその家族の悲しみ

は、計り知れるものではありません。


 あれから3年が過ぎ何人もの心肺停止患者を般送してきましたが、そのたぴにあ

のときの男性の顔が思い出されます。これからも失われるはずの無い命を一人で

も助けたいという思いを忘れずに救急活動をしていきたいと思います。

秋田消防署 救急隊

保坂寛

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