歴 代 代 表 挨 拶

1970〜1972年代表世話人 喜多村道男(帝京大学医学部附属溝口病院)
1974〜1977年代表世話人 星野 光雄(道躰クリニック梶原)
1980年代表世話人  福喜多博義(国立がんセンター東病院)
1981年代表世話人 新尾泰男(昭和大学藤が丘病院)
1984年代表世話人 橋本廣信(慈恵会医科大学附属柏病院)
1987・1988年代表世話人 大場泰幸(東京都済生会中央病院)
1989・1990年代表世話人 金谷信一(東京女子医科大学病院)
1991〜1992年代表世話人 三宮敏和(慶應義塾大学病院)
1993〜1994年代表世話人 中込俊雄(東邦大学医学部附属大森病院)
1995〜1996年代表世話人 宍戸敏彦(稲城市立病院)
1997〜1999年代表世話人 飯田恭人(東京大学医学部附属病院)


    いしずい   きざはし
 30年の礎と新世紀への階

1970・1972年代表世話人 喜多村道男(帝京大学医学部附属溝口病院)
 この研究会が多くの人々に捧えられ、そして多くの人々もまたこの研究会によって支えられ、幾星霜を重ね30周年を迎えたことは素晴らしいことで嬉しい限りです。
 ここでは、第1回核医学技術研究会のいわば前夜物語りのようなことを書き残す機会としたいと思います。
小生、41年前に虎の門病院に勤務しました、地下2階のコバルト治療操作室の傍らでパチパチと音をたててカーボン紙を挟んだドットスキャンの用紙に打点するにぎやかな1台の機械が動いていました。もう1台は理研の甲状腺摂取率を測るキラキラと数字の電球がめまぐるしく点滅する機械でした。肝と甲状腺シンチグラフィと摂取率を細々と行っていました。
 その頃、願いがかなってアイソトープ室に配属になったのがこの道に分け入った最初となります。
まもなく、日本無線の雨蛙みたいな緑色のシンチスキャナ装置の導入・トリオソルブという全く放射線部門にとって異質のインビトロ検査の登場・内分泌の先生がラジオイムノアッセイの創始者の一人Barson先生を迎えて成長ホルモンの測定デモ、そして内外の内分泌医やそこの研究室の技術者の出入りも多くなり楽しい日々でした。未だ99mTcは登場せず113mInのミルキングをしていた頃で鉛を溶かしてpH調整などの試薬を半自動で添加する装置を試作して発表した記憶があります。
 この頃、専任の山崎統四郎先生が夕方になるとシンチグラムの入った袋を長身の小脇に抱えて安河内浩先生たちがやっていた東大病院での勉強会にせっせと出かけておりました。そして翌日には必ず、どこそこの装置はこんなことが出来る、シンチグラムに氏名や撮像条件を記載するラベルを考えたとか、申込書や袋はこんなものでトリオソルブの伝票はこんなものを使っているぞ、うちではできないかといった沢山のお土産を持ち帰ってきました。なにしろどこの病院でどんな技術者がどんな装置を使っているか全く横の連絡のとりようのないころでした。山崎先生のいそいそと出かけられる後ろ姿と技術者同士でも何とか横の連絡のとれるような会が欲しいという思いが重なりました。
 ある日勉強会に出席の先生方の施設名と技術者の名前をお願いしました。かくして数施設のリストをつくることができました。ちょうどこの頃に山崎先生と先輩の栗原慎一郎技師が東京女子医大で核医学を開設するということで虎の門を後にしました、前後して後輩の関守雄君が順天堂大へ勤務替えされ泉英世君が加わりました。
 当時、コバルト治療・アイソトープ室の事務員として鈴木さんというお嬢さんがおり、思い切って会の開催通知葉書を6、7枚ほど清書してもらいました。「RI検査に携わっているもの同士の横の繋がりを持ちたいと思います」といった案内葉書を送付したのは1970年(昭和45年)3月30日付けでした。そして後に第1回東京核医学技術研究会と呼ばれるようになった4月6日月曜日午後6時を迎えることになります。前日に福田隆部長に翌日の挨拶をお願いし、なにを話し合うかなど司会原稿を何度も見直しした第1回核技研前日の記憶が蘇ります。 ここにお名前を書かせて頂いた方々以外に中山清室長、大久保明彦室長、後輩の竹部英紀君、放医研の土屋武彦先生、内分泌の鎮目和男先生と研究室の皆さんなどが研究会発足時に深く関わり、特に大久保先輩の功績は忘れてはならない方です。
 それにしてもあれから30年、前半は現場で文字通り寝食を忘れ、その次には技師長の立場で関与し、そして後進の教育現場で教務部長の立場で核医学技術に関わって来ました。よく頑張っちゃったな、核医学ありがとう。最後に30年の礎を2000年代への階となるような新たな心構えと英知を期待したい。


 本会往来人士 ─知性・感性・人間性─
1974・1977年代表世話人 星野 光雄(道躰クリニック梶原)

 或る工学者は、"研究とは、誰もができる事をやり誰もがやってないのを見出すこと、独創とは蓋然性の先見"、等と述べていた。私がX線校の学生だった昭和30年代の前半、高橋信次教授(当時名古屋大学)の発案を追試するため、回転椅子に乗せられX線照射を受けた。いわゆる回転横断撮影法である。この論理は後年、ECT・XCTへ応用されて現在のSPECT法やXCT法の先駆けとなり、超音波法やMRI法等との技術互換を経て画像診断花盛りの今日を到来させた。
 さて本会に付き取り分け気憶鮮明なのは、自分が代表世話人ないしその代行作業期の光景である。最初の用務は、科技庁放射線安全課長と面談しての講師派遣(s49.6)依頼だった。アロカ社で行った液シン装置・燃焼装置講習会の時(s49.9 )、日曜の早朝だったに拘らず社長自らが出社し挨拶された。東京放射線誌に広報して開催した遠藤俊夫講師(現千里救急救命センタ−)による超音波画像構成法(s52.10)の時は、旧虎の門病院の3階講堂が満杯となる未曾有の大盛況で、本会の存在価値を高からしめた。一方、例えばこの翌月に珍事があった。安斎育郎先生(当時東大放健管教室)によるMIRD法の理論・応用法やICRP勧告Pub.26等の講演会を、11・12月に3週連続し開催する筈だった。その第一日目、人はその日も多数集まり定刻をはるか過ぎても講師は来ない。電話したとき初日を一週後と感違いし、講師は越ケ谷の自宅で風呂に浸かっていた。なおこの講演依頼で東大へ出向いたとき私を出迎えた妙齢の教室員二人は、後に深く交わる草間朋子(現大分看大学長)・小西恵美子(現信州看大)の両氏であった。また佐々木康人助教授に第2回国際画像会議への出席結果を講演(s54.4)願うため聖マリ大を訪れた時、前本会々員の榊徳市副部長が行う懇切な仲介に助けられた。
 ほか本会と関係深い活動に付いては、福喜多博義氏や関守雄氏などが、この昭和54年 4月から放射線技術学会側メンバ−とし日本放射線機器工業会と合同のJIS・IEC委員会への参加を開始すると共に、本会関係者多数が同年11月開催の核医学技術者全国連絡協議会(日本核医学技術学会の前々母体)に出席下さった。そしてこの翌年、木下富士美氏が提唱の東京・千葉合同核技研を鴨川市にて行い、翌々56年には新尾泰男氏が、関東地区合同核技研へと拡大し奥多摩にて開催した。また首都圏・関東のこれら動向や人間交流は東京でのインビトロ勉強会開催機運を盛り上げ、本会と兄弟会であるインビトロ部会を昭和56年 5月に再興せしめた。
 最後に一言。本会創設者の一人でその後の本会を中心的に先導した人士に、栗原慎一郎氏(前東女医大)がいる。氏は信条から代表世話人を引受けはしなかったが、本会に対し代表世話人以上に貢献あった時期を筆者は忘れることができない。それは多分、本会活動は関係者全員に共通する彼の様な知性・感性・人間性に支えられ、昔も今も成立していると考えてるからに違いない。


 時の流れるままに
1980年代表世話人  福喜多博義(国立がんセンター東病院)

 謡曲の中にはよく「人生50年」と謡われています。まだまだ未熟者ですが、昔で言えば私などは人生を全うしたことになるのでしょうか。そこで東京核技研30周年を記念して、過去に代表世話人を務めた一人として四方山話でもさせて頂きます。卒業後たまたまRI検査に配属され、核医学という分野にのめり込んでしまった者の話です。その当時はシンチスキャナーを用いて検査が行われていた。画像はカーボン紙に打点され、その上に体輪郭をマジックで描くといった、今から思うと随分職人芸的な仕事でした。顔の輪郭を上手にスケッチできれば、綺麗なシンチグラムということになる。またそれが本当に見えるから滑稽である。しかし、そんな仕事でもいろいろなアイデアが思い浮かぶものである。今では1スポット5分程度で終わる検査がシンチスキャナーでは30分以上かかってしまう。これをどうにか早くできないものだろうかと考え技術学会に初めて発表した。これが学会に足を踏み入れた第一歩である。そのうち上司の池田(退官)さんや高崎(故人)さんに連れられて、東京核技研の栗原(東京女子医大)さん、萩原(故人、日大板橋)さん、そして多くの研究会の諸先輩と知り合い、すっかり研究会の一員になってしまった。私の性格はとうも行動に移すのが遅いらしくて星野(元東邦大大橋)さんや喜多村(帝京大)さん、関(故人、元埼玉医大)さんにいつも叱咤され激励されていたことを思い起こします。その後、我々の世代が中心となり研究会を運営するようになってからは、佐藤(日大光が丘)さん、橋本(東京慈恵大柏)さん、新尾(昭和大藤が丘)さん、金谷(東京女子医大)さんらと共に東京核技研を育ててきた思いがあります。各施設のガンマカメラの性能を同一ファントムで測定したり、会員研究発表を開催したり、各施設からデータを持ち寄り討論するとか、何かと在り来たりの研究会に追われていたように思われますが、それが人と人との繋がりと輪を広げることになったのだろうと思います。最近は千葉核技研が主となり、東京核技研へ足を運ぶ回数がめっきり減ってしまいましたが、毎月頂く電子メールでの案内を見ながら、以前にも増して活動が盛んであることを推して知ることができます。今後とも東京核技研が発展されますと共に若手の技師の育成に努められますことを祈っています。


 東京核医学技術研究会の30周年を迎えて
1981年代表世話人 新尾泰男(昭和大学藤が丘病院)

 月日の経つのは早いもので、10周年、20周年の記念事業を行ったのが、つい昨日のことのように思えてしまいます。私が東京核医学技術研究会の存在を知ったのが、昭和48年、核医学検査に関わって間もない頃でした。しかし、なかなか参加できず、参加し始めたのは49〜50年頃であったと思います。今回、記憶を辿るために、本棚にしまっておいた当時の資料を引きずり出してみました。それぞれの資料を読み返したとき、様々なことが走馬燈のように思い浮かび、あんな事があった。こんな事も、....。まず10周年の記念誌をめくって見ました。シンチスキャナからガンマカメラへの移行期、更にSPECTがRCTの名前で出始めた時期の10年間でした。まさしく知識・情報に飢え勉強会の感が強い時期でした。198-Au,131-I,203-Hg等から99mTcに移行していた時期でもあり、ガンマカメラの利用の仕方、管理台帳の記入の仕方、抄読会と研究会と言うよりも勉強会の意味あいが強い印象を受けていました。でも、それが必要でした。昭和49〜50年頃は核医学関連の本が少なく、自分たちの検査方法で良いのか自信もなく、情報に飢えていました。そのため、研究会の後、見知らぬ人に教えを請い、食らいつき知識を仕入れていました。当初から50年代半?ばまでin vivo,in vitro共に共存した会でした。RIAの正常値の考え方やQ.Cについて学び、X-CT,Echo,PET,RCT(SPECT),NMR(MRI)等、新しいモダリティの息吹を感じたのは50年から56年頃でした。いつも参加される方は一部で、テーマにより参加人数は可成り変動していました。100名以上参加したときもあれば、10〜20名程度と低迷した時期もあり、いつの間にか私も常連になり、企画について頭の悩ませたこともありました。今でも忘れないのが、虎ノ門病院で実施したとき、夏の暑い頃、病院関連3名、業者3名のみの参加者、泣きたくなるほど寂しい会だったこともありました。昭和56年6月20日の土日にかけ、奥多摩で開催した第2回関東地区核医学技術研究会も懐かしい思い出です。前年に千葉がんセンターの木下氏が千葉の太海で行われた第1回に引き続いて行われたもので、関東地区のいろいろな核医学の施設、機器メーカー、医薬品メーカーの方々が泊まり掛けで集い、夜を徹して口角泡をとばし、討論の輪があちこちに咲いていました。その中で上座に座り存在感を示していたのが右近氏(DRL),故・龍池氏(当時島津、後にGE-YMS)でした。当時のドン?、若い人に指示を出し、杯・コップを手に夜を取り仕切っていたのを思い出しました。その頃から日本核医学技術研究会の産声が聞こえ始め、活動が始まり、星野光雄先生(当時・東邦大大橋)の元で核医学技術の編集委員会が発足しました。暗中模索の雑誌編集を行い、JIS・IEC委員会でのガンマカメラの測定法をまとめていた時期と重なり、毎回のように夜遅くまで会議、討論、お酒....、体力・気力とも充実していたからこそお付き合い出来た?のではと今でも思っています。その中で、星野先生と長谷川武先生(当時・市立川崎病院)にお酒の席で、飲み物・食べ物を残すことをしかられました。「酒の一滴は血の一滴だ。残すことはお百姓さんに申し訳ないと思え!」今でも、この言葉は強く、自分への戒めと心に刻んでおります。まだまだ、お伝えしたいことがたくさんありますが、キリがありません。いろいろなことを学び、教えて戴いた我が東京核技研は永遠です。まだまだ、生涯お付き合いをさせて戴きます。


 東京核医学技術研究会の30周年に添えて
        1984年代表世話人 橋本廣信(慈恵会医科大学附属柏病院)

 私がはじめて東京核医学技術研究会に参加させて頂いたのは、昭和55年の秋であったと思う。当時、私は核医学検査に携わって4年目であり、81mKrボ?ラスガスを用いた肺換気検査のコンピュ?タ処理ソフトの検討をしていた頃で、研究会の世話人であった国立ガンセンタ?の福喜多氏に、「肺のコンピュ?タ処理について」話して頂けませんかとの誘われて参加する様になったのが最初だと思います。その頃は他施設の会員との情報交換の場として、なごやかな中にも熱のこもった討論を交わされていたことを思い出します。
 なお、私が昭和59年4月から1年間世話人代表をさせて頂き、世話人と会員の協力を得ていろいろ面で勉強できたこと、同じ業種の仲間ができ、大変嬉しく思っています。
 当時は、慶応大学病院の会議室を使用させて頂き、交通便もよく遠距離から参加される方には、良かった思われた。 1年間と短い間であったが、私が先輩の流れを継続して、次の方に引き継いで貰うために、最も気になっていた事は、講演テ?マの選定及び会員の参加人数等の運営問題であり、如何に当時の最先端技術情報を提供できるかと苦心した。  
 私自身最近は、千葉に転勤なった事もあり、出席することも少なくなって残念と思っている。 なお、その後の運営体制も整備され、対外的な諸問題も年毎に少しずつ解決されながら、ここ30周年を迎えたことは、この間の関係者のご努力に対し最大の敬意を表します。また、近年の世話人も大幅に変わり、研究会運営及び情報交換の場としての開催、他県の研究会との交流会等も盛んになり参加人数も増加しているとのことは喜ばしいこと思います。
 いずれにしても、近年特に、核医学検査装置及びデ?タ処理ソフト等が急速に発展していく中で、これを駆使する会員を中心とした情報交換のあることは、今後の医療の進歩に大きく貢献できることであり、東京核医学技術研究会の弛まぬ発展を心より祈るものである。


 東京核技研30周年をお祝いして
1987、1988年代表世話人 大場泰幸(東京都済生会中央病院)

 東京核医学技術研究会が30周年を迎えられるとのことで,ひと言お祝いと想い出を述べさせて頂きます.
 この研究会が発足してもう30年も経過したのかと思うと,つくづく自分も歳を感じてしまいます.現在も飯田代表世話人,平瀬副代表世話人を中心とした世話人の方々が活発に活動をされており,心強く感じています.
 私も,昭和63年と平成元年の2年間代表世話人をさせて貰いました.会場は慶應大学病院ガンセンター3階会議室をお借りして,毎月開催いたしました.夜遅くまで熱心に参加して頂いた方や,お忙しい日程での講演を引き受けて頂いた講師の先生方などが思い浮かんできます.また,研究会終了後の飲み屋でのディスカッションも検査の仕方や内容について深く追求することが出来たり,後日分からないことで電話して聞いたり出来る友人ができて,第2会場とも呼ばれ好評でした. 
 この10年間で数多くの放射性医薬品が発売され,また,画像診断装置も精度が向上して,より詳しく画像診断ができるようになりました.しかし,国民医療費30兆円問題もあり今後の厚生省の動向に目が離せない状況にあります.
 更に,この研究会が益々発展されますことをお願いするとともに,ひとつの節目として目出たく30周年を迎えられたことをお喜び申し上げます.


 『輪廻転生』
1989・1990年代表世話人 金谷信一(東京女子医科大学病院)

 私が代表世話人を引き継いだのは、平成元年4月から平成3年3月までの2年間でした。はじめは諸先輩方の背中を見ながら学び、また実際にこの会を企画し運営する立場から、そして世話人会から離れて、今では時間があれば、なるべく東大の会場に足を運んでいる現状です。こんな中、東京核医学技術研究会を眺めて思うことは、輪廻転生(りんねてんしょう)という言葉です。30周年を迎えるにあたり、多くの世話人が入れ替わり核技研を盛り上げて来ています。世話人会のメンバーは替れども、精神は引き継がれて今日に至っています。このことが、輪廻転生と重なり合うのです。
 全国には、地方会としての核医学技術研究会が多くあり、技師のみでなく職種を超えた多様な形態で運営されています。研究会によっては、限られた技師のみで幹事を長く努めている地区も有るように聞きます。それは安定しているとの見方もできますが、一方で後継者を育てていないとの評価もできます。東京核技研は、代々入れ替わりの指導者によって乗り切り、結果的には多くの指導者を育成しています。このことは地方会としてのあるべき姿勢を確実に固めているし、全国組織へと発展している思います。地方会の充実があって始めて全国組織の支援ができます。日本放射線技術学会、日本核医学技術学会ともに、東京核技研から育った人材の貢献度は、とても高いものがあります。
 現在の執行体制は、個人の代表者世話人はもとより、回りの幹事の結束力にも支えられ、組織的な運営がうまく機能していると思います。中でも、研究会のテープおこしは大変な作業だと察しますが、個人の勉強と、記録を残す大切さは将来の財産として、これからも頑張って戴きたく思います。
 最後に、東京核技研で学んだノウハウを布石として、医療に活かされることを希望します。


 更なる飛躍を!!

1991?1992年代表世話人 三宮敏和(慶應義塾大学病院)
昨年の納会が丁度300回、そして本年が研究会発足から30年と自分の歩んできた技師道(24年)を重ねてみても頭が下がる思いである。発足当時、世話人の先生は大変ご苦労なさったでしょうが、発足の目的は30年を迎えた現在でも、歴代の世話人によって受け継がれていると思います。私なりの思い入れで解釈すると、目的とは「何も解らなくとも自由に参加し、心を寄せて語り合おう。その中できっと何か得るものがある」と。
1991〜1992年の2年間、代表世話人を勤めさせて頂きましたが、諸先輩のご理解、ご指導のもと、自分なりに斬新な運営が行えたように思います。勿論、世話人諸兄の多大な協力と犠牲なくしては会が成り立ちません。
当時を振り返りますと研究会終了後には世話人会を行わない。
一緒に連れてきた後輩を連れて、みんなで飲みに行くこと。(コミニュケーション)
年間を通して、定例会内容を企画運営すること。(教育の一貫性)
納涼会、納会の開催。(親睦)
他県との共同開催。(広い視野での繋がり)
年間活動報告。(記録)
他にも幾つかありますが、最も世話人の諸兄にご苦労を掛けたのが年間活動報告である。この場をお借りして改めてお礼を言いたい。
作成に当たっては、ラジカセを購入し、講演の全てをテープ起こしして頂いた。大変な作業である。製本も手作りで行った。
現在では年毎に立派な「活動報告」が、納会時に参加者全員に手渡されている。
30周年を迎え、歴史ある当研究会が益々ご発展することを祈念いたします。


「東京核技研と私」ー30周年記念を迎えてー
1993・1994年代表世話人 中込俊雄(東邦大学医学部附属大森病院)

 私事で恐縮ですが、私が診療放射線技師として東邦大学医学部附属大森病院に就職し、早20数年が経とうとしております。当初より核医学検査部門での専従職員でありましたので、東京核技研との関わりは、当時から非常につながりのの高いものがありました。
 就職当初から、まだ右も左も分らない小生を風薫る5月のある土曜日の午後でした。当時まだ副技師長だった小堺に、勉強会へ参加するからと言われ、新宿にある鉄道病院(現JR東京総合病院?)に無理やり連れられたのが、勉強会に参加する始まりでした。仕事を終えて同級生との約束に後髪を引かれる思いで勉強会に参加したのを今でもハッキリと覚えています。内容は、放射線管理に関する勉強会であった様に思います。(これが東京核技研であったかどうかは定かではありません。)しかし、そうこうしているうちに、慶応大学病院がんセンター3階での東京の勉強会に参加し始めたのは、やはり20数年前の同じ時期でした。当時、中心になって会を運営していたのは、若手(当時)の福喜多氏や新尾氏の様だったと思います。その当時より東京核技研の世話人は若手が中心でありました。しかし、後見人として喜多村氏や星野氏、栗原氏など多くの諸先輩方が同席していたことは言う迄もありませ。それ以来、多くの諸先輩型が世話人として或いは代表世話人として、勉強会に各々の個性を発揮して来たのです。
 私が世話人を引き受けた中でも一番印象に残っているのは、三宮氏が代表世話人を引き受けられた頃であります。それ以前は、勉強会と言う大変硬いイメージで、各世話人がきちんとした勉強会を運営し、参加者に満足してもらえる様に唯淡々と行っていたように思います。しかし、彼三宮氏は違いました。勉強会はきっちりとした内容で運営したのですが、三宮氏の斬新な発想のもとで、勉強会に大きく風穴を開けたのです。それまでは、勉強会終了と共に流れ解散のようになっていましたが、三宮代表の求心力もとに、出来るだけ多くの参加者と胸襟を開くように反省会を開いたのであります。それ以来、この良き風習は現在の代表世話人である飯田氏へと脈々と受け継がれているのです。
 東京核技研のより一層の発展を願うと共に、若い多くの世話人方へ感謝致します。


東京核医学技術研究会とともに
1995・1996年代表世話人 宍戸敏彦(稲城市立病院)

 私が東京核医学技術研究会に初めて参加したのは昭和60年、佐藤さんが代表をされている時でした。初参加で質問され、何も答えられなっかたことや「パソコンを用いた患者管理」を発表したことを覚えています。この年の11月の納会で研究会の発起人のひとりでもある埼玉医大の故関守雄さんにはじめてお会いしました。当時、私は埼玉の病院に勤務しておりましたのでその後、関さんを通して種々なことを教えて頂いた事を昨日のように思い出します。時が経つのははやいもので関さんの十回忌を行うとの案内が届いています。
 昭和62年から大場さんが代表となり世話人のひとりとして参加するようになりました。世話人といっても課題を与えられ研究会で発表することが主でした。今年の春、こどもが中学生になり部屋がほしいと言われ、自分の部屋の明け渡しのため整理していたところ「心臓核医学検査の紹介」という大場さんの代表時代にまとめた小冊子が出てきて、懐かしく読み返しました。
 代表が金谷さん、三宮さん、中込さん、と続きこの間に世話人の世代交代が行われなした。また、定例会に加え年間活動報告書の作成、ファミリーキャンプ等新しい企画が加わり現在の研究会の型が作られました。
 平成7年より2年間、「見て、聞いて、参加する(質問する)」をモットーとして、代表を務めさせて頂きました。平成元年より核医学から離れていましたので不安もありましたが、当時の世話人の方々、O Bの方々に支えていただき、何とか無事に終えることができました。遅ればせながら、お礼申し上げます。又、ご講演頂いた先生方、ご協力頂いたメーカーの方々にもお礼申し上げます。
 平成7年12月2日納会時にご講演頂いた慈恵医大川上憲司先生が平成9年3月に亡くなられました。顧問として研究会の面倒をみていただいた日大板橋病院萩原和男さんが平成10年1月11日に亡くなられましたことは誠に悲しいことでした。あらためてご冥福をお祈りいたします。
 東京核医学技術研究会に十数年携わり、おおぜいの方々と知り合えたことが私にとって最大のよろこびです。
 今後も東京核医学技術研究会が代表をはじめ、世話人のご努力により回を重ねて行くことを願い、微力ながら協力していければと思っております。


赤い糸に惹かれ、結ばれて!
1997・1999年代表世話人 飯田恭人(東京大学医学部附属病院)
私が核医学に携わったのは、今から十数年前、部内のローテーションにて仕方なく、核医学に回されたのが、始まりです。初めは被曝や新しい装置に不安が一杯で、しかも、その頃、右肩習慣性脱臼にて手術を受けざるを得なくなり、左腕だけで、ガンマカメラを操作したのを記憶してます。その頃の核医学の主任技師が阿部で、優しく色々なことを教えていただきました。勤務時間も定時には帰していただき、阿部自身は夜遅くまでカメラの前でコツコツと何やら勉強しておりました。そんな姿を見ながら、私も核医学にいつの間にか、赤い糸に惹かれるように、のめり込んでしまいました。そのうち、慶応大学で行われていた、この研究会に連れていかれ、色々な方が様々な研究を行っているのを知り、もっと核医学を知りたくて、毎回参加するようになりました。1990年の頃、女子医大の金谷氏が世話人をお辞めになる頃、世話人を仰せつかり、会の運営に携わり初めました。そして多くの素晴らしい仲間たちと結ばれました。
 現在、代表世話人という立場に立たせていただき、去年、定例会通算300回、今年が30周年記念とたいへん名誉な次期の代表をやらせていただき、非常に嬉しく、感謝しております。
また、現世話人の方々も素晴らしい人たちで、この3年間、色々なアイデアを出していただき、研究会を運営しております。そのひとつが、毛利元就の三本の矢をイメージした、ロゴマークです。即ち「臨床学」、「薬学」、「装置技術」及び、「人」、「智恵」、「技術」を意味し、それを束ねている輪はそれらの【和】を表します。
もう一つが、http://square.umin.ac.jp/TNMTのホームページです。今までの研究会の歩みが、どなたでもご覧になれ、そこから、関連の事柄にリンクし、又研究会の案内や定例会のテープ起こしもして、随時、載せようと、企画しました。これも優秀なスタッフに恵まれ、また、皆さま方のご支援による賜です。
これからも東京核医学技術研究会は、様々な方々の集まる場を提供してゆき、核医学に関するあらゆる技術、そしてそれに携わる人たちの和を作り、人類の健康に貢献して行きたいと思います。これからもよりいっそう、核医学技術発展のために、ご指導とご鞭撻を賜りたいと思います。


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