萩原和男先生の思いで

  慶応大学 阿部欣二

 萩原先生と最初に親しくお話しさせて頂いたのは第10回日本核医学技術学会が東大で金尾会長のもと開催されることが決まった時、実行委員長を仰せつかった関係で先生に総会顧問をお願いに伺った時でした。実はこの数年前、東京で開催された日本放射線技術学会総会に於いて核医学関連の宿題報告をされておりこのご発表を拝聴し先生のご学識、お人柄は既にその時察知しておりましたが、日大板橋病院のアイソトープ室での初対面でさらに肌で実感することができました。お仕事中で多忙でおられたにも拘わらず、満面に笑みを湛えて温かい肉厚な両手でしっかりと握手をいただいたことが昨日のように思い出されます。その後の永い交誼の中で先生は温厚なご性格の中にも正否を見据える確たる心の眼を持ち決してご自分の信念を安易な妥協で曲げられない強靱さをお持ちであることをしばしば認識させられました。また、先生の単なる心根の優しさだけではない懐の大きさ深さというものに私は常々畏敬の念を持っておりました。先生が旅立たれて早一年が経とうとしています。ご趣味の一つでありましたゴルフも先生の名を冠した「萩原杯コンペ」として10数回を重ね毎回盛況を呈してきたこと、ご他界後も「萩の会」として、この会を継承していこうという有志の意向も一重に先生への強い思慕の顕れだと思います。

 あれほどお元気だった先生がご体調を崩されたのはお亡くなりになる一年ほど前ではなかったかと思います。毎年欠かさず参加されていた関西の「テクノロ会ゴルフコンペ」にも参加されず健康に留意されて自重されているのではないかと案じていました。昨年、東京核技研の納会を東大で行った時、いつになくお元気がなく、またどことなくお疲れのご様子だったことが気にかかっていたのを憶えています。しかし、そのあと大阪で催されました金尾先生のご定年退職パーティにはご出席になり関東勢を代表され祝辞を述べて頂いたのがお倒れになる20日ほど前で私がお目にかかったのがこの時が最後でした。この時もあまりお元気がなくお顔の色にも冴えがなかったことが気になっていました。先生は以前から学会の理事会等で大阪に出向されるときは殆ど単独行動をとられていて帰京されるときも私たちとは一緒でないことが多かったのですが、今思うとこの最後の機会になってしまった大阪からの帰京に際して是非ご一緒して車中で諸々のお話がしたかったと大変残念に思います。東京核技研では萩原先生、喜多村先生と私が顧問として在任させていただいた関係でよく池袋のホテル・メトロポリタンの喫茶室で三人で会の運営、本部との対応などについてデスカッションしたのを懐かしく想起します。そしてこうした会合でのあと通常軽く一杯となるのが普通なのですが時間を決めての話し合いが終わるとさっと解散するのが常でした。こんな所にも萩原先生の都会的スマートさが顕れていて好感を持っていました。もっともコーヒー代は殆ど先生に出して頂いたと記憶してます。核医学技術学会を含め先生のご功績は多岐に亘って数限りなくあり、アカデミックな面もさることながら、もっとも大きなご功績は後輩諸氏への多大なる薫陶と指導にあったのではないかと思います。温厚なご性格と悠揚迫らざる大人(タイジン)の風格は絶大なる信頼感を何人からも寄せられ、指導を受ける者すべてに安堵感を与えると同時に学識の高さにも尊敬を受けておられました。先生亡き今、核医学診療も他の医療分野と同様厳しい変革の時期にさしかかってきています。先生の薫陶を受けた者たちは今こそ一致して核医学検査技術のよりよい発展と向上を期さなければならないと考えます。そしてこれこそが先生の鎮魂へのなによりの餞であると思います。



Indexへ戻る