Massie Ikeda:someiyoshino

売れっ子と大家

毎年,花の季節になると,私は時代を超えたある激しい戦いを思い出す.

花見の季節になると,西行が庵を結んでいる静かな嵯峨野が騒々しくなる.それを嫌って西行は歌う.”花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける”すると老人の面をつけた花の精が現れて答える.”憂き世と見るも山と見るも ただその人の心にあり 非情無心の草木の 花に憂き世の咎はあらじ”(能 ”西行桜”より)

花の精は明らかに世阿弥自身である.彼は西行を痛烈に皮肉っている.こうなるともう,西行も大俗人である.

西行は堂々たる大家である.芭蕉は彼にひれ伏し,秋成は彼のことを,迷える崇徳上皇を叱り飛ばして退散させる大聖人として扱っている.江戸時代でさえそうだったのだ.いわんや室町の世においておや.しかし,その時世阿弥は今をときめく売れっ子だった.生きる時代がたとえ違おうとも,売れっ子が大家に向かって,猛烈な嫉妬心を抱くのは,世の常である.

ウォルト・ディズニープロダクションは物真似しか作れなかった.彼は手塚 治を妬む才能がなかったので,素直にライオンの出てくる漫画映画を作って軍門に下ったのである.ジョン・スタージェスが”荒野の七人”で黒澤 明に私淑したのと同じ事である.北野 武はどうするだろうか.彼がこのページを読んで挑発に乗ってくれることを望むのは私だけではなかろう.

ルビコン川の向こうへ