タダならぬ当事者感・明日は我が身なリアリティ
この期に及んでもワクチン接種に邁進しているお医者様達に欠けているのが,この当事者感です。大切な人をワクチンで失った人だけではありません。そのワクチンの副作用で休むことなどできないのに、同調圧力ゆえに職場接種を受けざるを得ない人もそうです,いやワクチンと関係なくたって,ワクチンよりももっと大切なこと,そう、働く場所,住処どころか,暮らしの糧を得る手段までも失った人々。同調圧力に晒されて自分の子がワクチンを回避できない保護者,そして近い将来子どもにワクチンを打たせたことを悔やむ保護者。そういった人々の感情が,これから津波のように自分達を襲う。もしそうなったらどうしよう。その危機を回避するためには自分は今からどうすればいいのか?そうして今此処にある危機が目の前にあっても,「明日は我が身」なリアリティ,「タダならぬ当事者感」がこれっぽっちも生じない当事者。それがこの期に及んでもワクチン接種に邁進しているお医者様達の姿なのです。
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きっと、この2つの事件は、犯人というよりは、そのニュースを聞いた医師(精神科医と訪問診療医)にとって共通する「タダならぬ当事者感」があるのだと思います。つまり、この事件を知った多くの医師が「今回はたまたま自分じゃなかっただけ。明日は我が身」と感じたからでしょう。ニュースの内容詳細を聞いて、私も似たような感覚になってきました。この「明日は我が身」なリアリティはどこから来るのでしょうか?
ふじみ野事件において、殺人を犯した人は私たち臨床医にとってそれほど極端に珍しい人ではありません。母一人子一人の閉じた生活の中で、あまり周囲のコミュニティと接点がない親子。そして、親がだんだん脆弱になっていく中で、子は何としても親に生きていてほしい、ずっと一緒にいたいと願っている。その願いが時に医療への過剰な要求となったり、医療が提供できる限界を受け入れきれずに医療者に対して強い怒りの感情が向いてしまう。こうしたケースには長年臨床をやっていれば遭遇します。この「ずっと母親にそばで生きててほしい」という感情は、深く母親のことを愛しているのかもしれないし、激しい共依存状態になっているのかもしれないし、あるいは年金によって生活が何とか成立している資源としての命綱なのかもしれません。その感情の正体は当事者にすら分からないでしょう。(尾藤誠司 多くの医師が「明日は我が身」と感じた理由 日経メディカル 2022/02/02 より抜粋)
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