地縁

欧州の中でも最辺境の地に属するスコットランドで,医学の国際会議が開催される稀なビジネスチャンスを逃すまいとした旅行業者が市内の主要ホテルを 全部抑えてしまった結果,宿ぐらいなんとかなるさと鷹揚に構えていた私が確保できたのは,徒歩15分でたどり着く最寄の駅からさらに電車で2駅と,毎日の 会場通いが,スコットランド特有の雨続きの天候をたっぷり味わいながらの適度な運動になる宿だった.

人口60万のグラスゴー郊外にあるこの宿が提供してくれた環境は,毎日の適度な運動と,今までの学会出張では決して得られなかった絶対的 な静けさに加え,12畳より少し広いかもしれないぐらいの居間兼寝室と,バスルームと,電子レンジとオーブンを備えた台所だった.何事にも倹約を迫られる スコットランドでは,自炊(self-catering)の宿は,普遍的な存在である.たとえスコットランドに行ったことがなくても,長期滞在者のための 同様な施設が日本の都市部にもたくさんあることをご存知の方も多いだろう.

英国の宿の定番,Bed & Breakfastで提供される朝食は,もちろんそれを楽しむ時間と,その朝食の後に出かける場所での時間への期待を付帯した上で,実は私の大好物なのだ けれど,一方で,英国式夕食問題,つまり,値段が張るレストランか,持ち帰り(それもフィッシュアンドチップス・中華・ピザの類に限られる)の両極端の店 しかない環境で,気軽に外食ができるところがない悩みを回避するために,買出し先の種類と場所,営業時間を正確に把握しておくことを要求されはするもの の,グラスゴーのような都市であっても,自炊の魅力は捨てがたい.

私は,旅先での料理を楽しむ趣味を知らない.ましてやここはグラスゴーなのだ.ハイランド西海岸でならめぐり合える確率の高い良質な海の 幸は望むべくもない.時差ぼけと小難しい議論の両方で疲れた後,例によって雨のそぼ降る,あるいは土砂降りの中,料理の内容と値段で悩みながら慣れない街 中をうろつくのは真っ平ごめんだ.それよりも何よりも,早く自分の部屋に帰って,電子レンジで暖めればOKのラザニアをつまみに,ギネスならぬマーフィー をを飲みながらBBCのニュースを見る時間を確保できなければ,何のためにはるばる地球を半周して来たんだかわかりゃしない.

ネットへの常時接続環境のある宿は,業者が全部抑えてくれたおかげで,私の部屋を含めて,この宿では,通信手段といえば,電話のモジュ ラージャックだけ.ダイヤルアップで最低限のメールのやりとりだけで済まそうという動機づけが強く働く分,ディスプレーから離れ,長椅子に座って,越し方 行く末を考える時,私にとってこの宿は古寺となる.

貧困,言葉の壁,研究の行き詰まり・・・・グラスゴーでいい思いばかりしていたわけではない.苦しんだこと,嫌なことほど忘れやすい加齢現象をrecall biasと呼び替える,齢五十を過ぎた身に都合のいいような屁理屈を応用すれば,学会出張も巡礼行と呼び替えることができるだろう.

グラスゴーばかりではない,信州上田,東房総,上越・・・・どこでも命のやりとりを伴う仕事ゆえ,決していい思い出ばかりではなかった.今 のあなたと同様,逃散・出奔を考えない日はなかった.そんな土地でも,年月を経て再訪すれば,それがそのまま巡礼行となる,そんな地縁の財産が少しずつ増 えてくるのが,年を取ることの数少ない利点の一つだと考えられる図々しさに,仮に嫌気がさしたとても,どんどん年だけは取っていく.

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