無駄に生きる

1秒もムダに生きない」という本を送っていただいたので通読した。書いた本人は出版社主導の題名を気に入っていないらしい。面白いとか、面白くないとか、ここで書評を展開するつもりはない。ただ、著者に、そここで共感できるところはある。

これまでたくさんの本を書いている著者のことだ。ロラン・バルトの言うところの「作者の死」については嫌と言うほどわかっている。つまり自分が伝えたいメッセージと読者の受け取るメッセージのすれ違いはわかりすぎるほどわかっている。だから、この本でも、読者のことより、自分のことを優先している。つまり、自分のこれまでやってきたことを書き出して、自分の頭の中を整理し、後の自分の成長の糧にしようとしている。そういうところに共感できる。共感できるからこそ、書評(みたいなもの)はここまでで留めて置く。以下は書評とは関係なく。著者が気に入らない題名を巡っての考察である。

「自分は1秒もムダに生きていない」と確信している人は、この本を買う可能性が極めて低い。しかし、そういう人は極めて少数派であろう。そう推測した光文社の企画担当が、「1秒もムダに生きない」という題名を考えた。

この題名の背後に隠されている、「お前は無駄に生きているだろう」という恫喝を販促に利用したというわけだ。この種の販促は抜群の費用対効果を示す。対象者が極めて広範であるにも関わらず、全く費用がかからない。ほぼ完全無欠に思えるこの販促に盲点はあるのだろうか?

まあ、別にベストセラーを妬んで嫌がらせを言うつもりはない。こんなオタクコラムに落書きしたところで、売れ行きに影響があるわけがない。「自分は1秒もムダに生きていない」と私自身が確信しているわけでも全然無い。ただ、好んでこんな落書きを繰り返しているのだから、無駄に生きることの確信犯として十分な資格はあるかもしれない。だから、題名に対しても、例によってしょーもないツッコミを入れるような無駄な行為も厭わない。

「無駄に生きる」とは誰にも「定義」できない。「無駄に生きる」とは各人の思い込みに過ぎない。ましてや出版社が読者に対して無駄な生き方を定義できるわけがない。

「お前は無駄に生きているだろう」という恫喝は、本来は恫喝として成立しない。単なる「余計なお世話」に過ぎない。うっかりすると、「では、あなたの言う”無駄”の組み入れ基準を説明してください」などと、PMDAからの照会事項みたいな質問を喰らってしまう。

そもそも「生きる」ことのエンドポイントが明確にできない以上、無駄かどうかの判断ができるわけがない。だから、「お前は無駄に生きているだろう」というのは、単なる言いがかりに過ぎない。言いがかりでは販促として使えない。ただし、著者がこの題名を気に入らない理由がその点にあるどうかは知らない。

一見、完全無欠に思えたような題名でも、こんなふうに言いがかりをつける奴がいる。本の題名を考えるのは、つくづく難しいものだ。ひょっとすると、その本そのものを書くよりもずっと難しいのかもしれない。

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