戦略的神経問診学:総論1

なぜ、今、「問診学」なのか?

あなたは、なぜ、こんなところを読んでいるのだろうか?なぜ、MRIの読影術ではなく、問診学に興味を持つのだろうか?そもそも、問診学なんて初めて聞くけど、問診て、学問だったっけ?問診は、多くの人が持て囃す「最新医学」からは最も遠いところにあるように見える。学生時代から、「問診は職人芸だから、背中を見て盗め」とか、わけのわからないことを吹き込まれて、問診を勉強しようなんて気は起こらなかったはずじゃなかったのか?

問診学といっても、初耳の人がほとんどだろう。「問診のような曖昧模糊として掴み所のない作業が学問になるのか?」といった素朴な疑問から、「21世紀にもなってヒポクラテスの誓いでもあるまいに」と冷ややかな視線まで、様々な陰性反応が惹起される光景が目に浮かぶようである。では、私の方から一つお尋ねしたい。莫大な資金と労力と多くの天才の情熱を費やした前世紀までの人間生物学は、あなたにどんな成果をもたらしただろうか?ヒトゲノムの解読は人類の幸せに繋がったのだろうか?分子生物学は、どんな病気の治療薬を我々にもたらしてくれたのだろうか。分子生物学ばかり責めていても不公平だ。インターネットをはじめとするIT革命は、夢の医療を実現するはずではなかったのか?ネットの発達と時を同じくして医療崩壊が表面化したのは、単なる偶然だったのか?

流行の熱病は一時期は躁状態をもたらすが、その後には時間と労力を無駄にした空しさが襲ってくる。五十を越えた我が身に、そんなことを繰り返している余裕はない。馬齢を重ねた末に、徒手空拳で得たものだけが手許に残った。それさえも自己満足の壷に封印されたまま一生を終えるのか、それとも、批判的吟味の対象となりうる形で提出できるのか。やってみなけりゃわからない。

問診はあなたを、そして患者も救う戦略である

時に、訴えられるから検査をするとのたもう御仁がいる。私が一応専門とする神経内科でも、訴訟予防と称して、全ての頭痛患者に対し、スクリーニングと称してMRIを行う輩がいる。しかし、MRI信仰は医療訴訟の予防にはならない。それどころか、医療訴訟の根底にある人間不信からMRI信仰が生まれていることを忘れている非常に危険な行為である。

頭蓋内に器質性病変があるとは到底思えない状況でも患者がMRIを要求してくるのは、問診や診察を重んじる医師に対する不信感ゆえである。そのような不当な不信感を抱く患者に対して、医師は恐怖感を覚える。自分は適切な診療をしていても、このような患者は、悪い結果を全て医療者側の責任にするのではないかという恐怖感である。こうして、人間不信の応酬が生まれ、無差別にMRIを撮影しているだけである。しかし、たとえ10億円するMRIであっても、緑内障や、側頭動脈炎や髄膜炎を映し出してくれるわけではない。

人間不信の応酬を断ち切るのは、実は簡単である。目の前の患者に集中することである。あなたは神様ではないのだから、日本全体の医療不信を解消してくれとは誰もあなたに期待していない。あなたの目の前にいる患者は敵ではない。最も頼りになるあなたの味方である。その証拠に、あなたはいつも自分の患者に助けてもらっている。問診はどこが具合が悪いのか、患者に教えてもらう作業である。どこが悪いのか、治療してよくなったのか、教えてもらわなければ、あなたは商売ができない。診察も、同様である。患者の体に呼びかけて、どこが、どうして具合が悪いのか、非言語性のメッセージで患者に教えてもらう作業である。あなたを助けてくれるのは患者であって、高価な検査機器ではない。だから、「患者の話をよく聞け」は道徳ではない。あなたと患者の両方を守る基本戦略である。問診でのやりとりという、協同作業を通して、医師と患者は問題解決法を一緒に考えていく。
 

患者と医療者の共同作業を通して問題に対処していく仕事としての医療の根幹を成すのが問診だ。だから、問診の教育は医学教育の根幹を成す。問診を通して、共同作業に必要な共感が生まれる。問診を通して、医療者は患者から大切な情報を教えてもらう。問診を通して、患者は自分が問題解決チームの不可欠な一員であることを認識する。問診の失敗は、見落としや、医療者と患者の関係悪化につながるが、適切な問診によって診療が効率化し、安全性が高まる。だから、今こそ、問診教育に「最新医学」の看板をかけ、人材を育成していかねばならない。幸い、問診教育には高価な機械も高額な研究費も要らない。だからこそ、皮肉にも、今まで問診教育が放置されてきたのだが、それこそ、高額の研究費とは縁のないあなたも今日から参加できる素晴らしい仕事だ。
 

問診は職人芸か?

症候学は神経学の基本をなすものであり,その第一歩は症状を正確にとらえることにある.この出発点は現症status praesensにあるのではなく,問診にあり,現病歴をいかに適確にとらえるかにある.(中略)形にはまった問診では肝腎な点をひき出し難く,問診こそは症候学の中でもっとも熟練を要するものであり,診断を左右する要点である.問診に必要な時間をかけない診察はたとえ外来診察でも粗診であり,誤診につながるおそれがある.なぜなら,問診の不足は現症を診ることによって代償することはできないし,また,問診から得られる情報によって診察手技の選択も変わるからである.(平山恵造 神経症候学 「はじめに」 より)

平山によれば,そしておそらく,神経学を学ぶ全ての学徒にとっても,「神経学の基本の第一歩の出発点」が問診であることは疑いない.さらに,その問診が,「もっとも熟練を要するものであり,診断を左右する要点」であることも疑いない.なんということだろう.出発点で勝負が決まっているというのだ.それも,出発点が一番難しいときてる.ということは,初めから永遠に先に進めないということか.

しかし,問診にまつわるこの二つの要件のうち,しばしば第二の要件が忘れられている。あるいは思い出したくない。たまに思い出すと、問診は職人芸だと決め付けて逃げてしまう。でも、なぜ、職人芸だと決めつけてしまうのだろうか?自分は腕のいい職人で、他人にはない才能があると自慢したいからだろうか?おそらく違うだろう.あなたはそんな高慢な人間ではないはずだ.

だとすると,自分の問診はとても職人芸の域には届かない拙いものだから,恥ずかしい.世の中には素晴らしい職人がいるのかもしれないが,自分はとてもなれそうもない.そう思うから,憧れるものの手の届かない職人芸としておきたいのだろう.そうすれば,職人芸は自分とは無縁のものとして,問診に精進せずに済む.

でも,待ってもらいたい.問診は,患者もあなたも救う立派な戦略だと申し上げた.ならば,問診を学ぶ必要があるだろう.職人芸として神棚に上げておく余裕どころか,今すぐにでも学び始めなくてはならない.

問診は職人芸ではない

問診が道徳ではなく、診療の基本戦略ならば、誰でもが使える道具として、教育場面で伝えていく必要がある。ところが、問診を秘事口伝や職人芸として扱うと、広く普及させられない。だから、「問診学」だというのだ。

あなたが、問診が職人芸であると主張するならば、あなたは、その仮説に対する下記の疑問に回答できるだろうか?

○問診が職人芸ならば職人だけに許される芸ではないのだろうか?職人芸ならば、しばしば外来で学生や看護師が担当しているのはなぜだろうか?
○問診が職人芸ならば、学生も看護師の問診は拙いはずである。職人の問診と学生や看護師の問診の違いはどこにあるだろうか?
○その違いを踏まえて、問診の素人を職人にまで育て上げられるはずではないのか?なのに、問診教育をしていますと看板を出している職人がいないのはなぜか?
○職人芸ならば、その職人さんは、自分の芸はどんなところが優れていると説明できるはずではないのか?
○説明できないまでも、かつて名工が素晴らしい家を建てたように、また囲碁や将棋の名人が勝負に勝てるように、自分の問診が生み出す素晴らしい結果を、問診の素人に対してもわかるように示せるはずではないのか?
 

もし、あなたが上記の問いに全て明確に答えられたならば、多分あなた自身が問診の職人なのだろうから、もうこんなところを読む必要はないのだろう。しかし、あやふやな答えしかできなかったのならば、私と一緒に問診学を学ぼう。そうすれば、日々の診療が一層効率的に、そして楽しくなる。

問診の職人は確かにいる。彼らは確かに先達のやり方を見よう見真似で学んできたのだろう。しかし、その過去の作業が、問診は職人芸、すなわち全て暗黙知であり、言語化したり形式知にすることは不可能であるとの結論を支持する根拠にはならない。

問診が職人芸であるとの自動思考は一体どこから来るのだろうか?あなたが、自分が問診の職人だと思っている場合と、自分は職人だと思っていない場合に分けて考えてみよう
○自分が問診の職人だと思っている人が、問診が職人芸であると主張することが、誰の利益になるだろうか?名人面して、羨望の眼差しで見てもらいたいのだろうか?こんな馬鹿げたことがあるだろうか?
○自分は問診の職人ではなく、問診が未熟だと思っている人が、問診が職人芸であると主張することが、誰の利益になるだろうか?問診を学ぼうとする意欲を消失させるだけで、誰の利益にもならないことは明白だ。こんな馬鹿げたことがあるだろうか。

わかっただろうか?問診が職人芸であると決めつけても、何の役にも立たない。だったら、こんなくだらない自動思考に囚われるのは止めよう。そして私と一緒に問診を学ぼう。

自尊心、あこがれ、

かつては、棟梁が長年の経験にかんなをかけ、釘やかすがいを打って家を建てていた。しかし、今では工場で正確に切り出された部材と金具と仕様書が棟梁に取って代わって、より強固な住宅を、より早く、より安く建てることができる。

問診が職人芸だと断言するのは、自分がこんなに苦労してきたのだから、お前も同じように苦労しろと言い渡しているに過ぎない。そんないじめはあなたの本来の仕事ではない。問診に職人芸とラベルを貼ることによって、教育しよう、わかりやすく教えようとする試みが阻害される。今や、問診に職人芸とラベルを貼って、教育を怠っている場合ではない。自分は苦労しているので、同じような苦労を味わわせたくないと考えるのがあなたの仕事である。

ただし、今まであなたが受けていた教育やってきた学習すべてが職人芸であり、今までの教育ではだめだと否定しているわけではない。事例検討は大切な問診教育である。事例検討は暗黙知ではなく、言語化し、明示的に問診を学習できる。

問診に関係する知識、技術を全て暗黙知と断定してしまうから思考が停止してしまう。身動きが取れなくなる。実は問診に関係する知識、技術の中でも、暗黙知でない部分、言語化できる部分がある。そういう部分があるからこそ、問診に関する教育が可能となる。

他の多くの知恵について同じことが言える。暗黙知と形式知の境界線が初めから明確になっているわけではない。神の引いた境界線があるわけではない。経験に全面的に頼って言語化できない部分があらかじめ決まっているわけではない。では、その境界線がどこにあるのか?問診学のどこまでが言語化できるのか?

万人に共通する境界線はない。学生と、研修医と、三十年選手では全く違う。しかし共通の戦略はある。
問診によって、どのように診断リスクを低減していくか?
自分の経験をどうやって効率よくdeep smartsとしていくか?

だからあなたにも問診ができる

あなたは、学生時代に問診を取ったことがなかっただろうか?その作業は苦痛だったろうか?経験を積んだ医師が見落としていたにを学生が気づいたあるいは、看護師が丁寧にとってくれた病歴を頼りにしてはいないだろうか?問診が、名医の職人芸だとしたら、なぜ、学生や看護師が問診をした結果が実際の診療で役に立っているのだろうか?

あなたは次の病歴を読んで、どんな病気を疑うだろうか?

43歳の男性:昼間に眠そうに瞼が垂れているので無呼吸症候群を疑われ呼吸器内科開業医に紹介来院
3ヶ月前から瞼が何となく重く(閉じるまでいかない)睡眠不足かと思っていた。 まぶたをあげようと努力しているので同僚から人相が悪くなったといわれる。左 へ振り返ったときに一瞬ものが二重に見えることが時々あり、片目をつぶればはっ きり見える。同じ頃からからつばやものが飲み込みにくいと感じる事がありのど が狭くなった(少し体重が増えたので)と思った。1ヶ月前から食事(特に量の 多いとき)の後半になると顎が疲れてうまくかめなくなり時間がかかるようになっ た。(やすめばもどる)同時にこのころからシャンプーをしていると右手が重く なり支えないと頭まであがらなくなる。(休めば治る)

この病歴は,重症筋無力症以外に考えられない。病歴だけで事前確率は9割以上と考えられる。それほど特異度の高い訴えを掘り起こした、この素晴らしい問診は、どう見てもプロのやり口だった。こんなに素晴らしい病歴を,一体全体誰が取ったのか?開業医の先生に尋ねた。そうしたら,医学部5年の学生だというのだ。彼女は神経学の秘密訓練を受けていたわけではない。ごく普通の学生である。

私は驚く以上に感激して涙が浮かんできた。もし、その時、ディスプレーの前で最敬礼している私を目撃した人がいたら、こいつは頭がいかれてしまったと思っただろう。これが臨床だ。改めてそう教えてもらった。

だから問診は面白い.だって,医学生だって,ベテラン神経内科医顔負けの病歴が取れて,ずばり診断ができるのだから.これが面白くなかったら,医者の仕事そのものに向いていないってことになる.

問診の学び方:若い人に教えてもらう

でも,どうやって問診を勉強すればいいのだろうか?これも簡単だ.だって,あなたは毎日やっていることだから.正にon the job trainingである.余計な手間暇場所が要らない現場での問診.それが最良の勉強材料である.勉強のために必要な新たな仕掛けはただ一つ.他人,それもなるべく若い人に診察室に陪席してもらうことだ.医学生や研修医がいなければ,看護学生だっていい.

時間にせよ,スタッフにせよ,機器にせよ,限られた資源の中で,懸命に奮闘するあなたの姿を見て,感受性の高い若い人達は,それだけで感動してくれる.

では,そのお返しに,若い人はあなたに何をくれるのだろうか? 彼らは黙って座ってもらっているだけでいい.自分の診療が審査されている.そう考えれば,あなたは漫然と診療できなくなる.限られた時間内で効率よく病歴を取ろうとする.また,なぜ,その質問をしたのか,若い人に説明できるようにする.理由が説明できないような質問はしなくなる.

さらに外来診療が一区切り着いたら,お楽しみのクェスチョンタイムだ.一緒に食事をしながら,若い人が発する素朴な疑問を聞いてみよう.