医学教育に人生相談を

臨床とは、人生相談そのものである。全ての臨床医は、その事実を知っている。もし、「臨床とは、人生相談そのものである」という見解に真正面から反対する人がいるとしたら、その人は臨床医ではない。

なのに、医学部では人生相談の授業はない。何も、人生相談がとっても簡単で、わざわざ大学でなくても学べるからではない。逆である。

人生相談は、(狭義の)神経内科診療よりはるかに難しい。だから、人生相談を教育できる人材の確保がきわめて困難である。大学に神経内科の教授はいても、人生相談の教授がいないのはそのためである。

臨床とは、人生相談そのものなのに、人生相談を教えられる人がいないから、医学部では人生相談の授業ができない。これは医学部として、破廉恥極まる欠陥である。「臨床とは、人生相談である」という赤裸々な真実に触れること自体がタブーになっている理由は、そこにある。

かくして、その赤裸々な真実がタブーとされている培養器から、赤裸々な真実が津波のように押し寄せる現実世界にいきなり放り出された研修医達は、何も路頭でなくても、救急外来で、病室で、病棟の廊下で、研修医室で、職員食堂で、その他、病院内のありとあらゆるところで、恐懼し、逃げ惑い、押し流され、溺れる。

なぜ、こんな悲劇が世界中で日夜繰り広げられているのだろうか?医学部で人生相談の勉強ができないものだろうか?

そんなこと、できるわけがない とほざく連中は、霞が関で役人にでもなるがよかろう。自分の脳味噌を、できない理由を考えることにだけに使って一生を終わるがよかろう。

人生相談の達人が必要だ。人生相談講座の教授がいなければ と考えるから、医学部で、人生相談の教育なんかできっこないと思い込んでしまう。

人生相談の達人なんているわけない。人生相談講座の教授なんて必要ない。

誰もが教授になれる。誰もが学生になれる。それが人生相談の素晴らしいところだ。研究費も設備も何も要らない。教材は現実世界にいくらでも転がっている。また、新聞の人生相談欄なども、それに対する回答も含めて、格好の教材である。これだけ普遍的なものなのだから、もしかしたら、もう我々は、すでに医学部で知らぬ間に人生相談のon the job trainingを始めているのかもしれない。

たとえそうだとしても、医学教育における人生相談の教育・学習を明確に意識して効率化するために、改めて必要なものがある。それは、「臨床とは、人生相談そのものである」と、関係者が共通認識を持つことだ。そうすれば、今から、世界中、どこの医学部でも、効率的な人生相談の教育・学習ができる。

参考:
がん哲学外来は、がん患者に対象を限定した人生相談講座事例とも考えることができる。

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