医学教育への製薬企業の関与については、いろいろなところで議論になっているので、どんな流れになっていくのか、高見の見物と思っていたのですが、どうも身近なことになってきたので:
私の地方巡業では、これまで通り製薬企業の関与のある集まりはお断りしています。これは、私個人の特有な事情であり、他の方には当てはまりません。私の場合、製薬企業がスポンサーになっている集まりまでお引き受けしていますと、日程調整が極めて難しくなる結果、製薬企業のスポンサーなしで、これまで私を育ててくれた方々の御依頼を断らなくてはならない羽目に陥るからです。いつもはスポンサーがついている場合でも、私の場合だけ、ご無理を申し上げて、はずれてもらっている集まりもあります。
しかし、2007年7月に前職PMDAから知的障害児施設に異動して、製薬企業と直接の利害関係がなくなったと判断されたためか、製薬企業がスポンサーについた講演会に新たにお招きいただくケースが2007年10月以降だけでも4件ありました。そのいずれもが、これまで長らくスポンサーになってもらっているので、はずれてもらうのは困難とのことで、結局は取りやめになりました。
私の話へのご要望が多いと喜んでばかりいられません.この4件の破談は何を意味するのでしょうか?依頼されたのはいずれも極めて見識の高い先生方です。製薬企業に費用をたかるようなことは一切ありません。私の旅費を参加者の間で分担するとしても、1人当たり数千円です。実際、名古屋、岡山、高松などの定席では、学生主導で、一切のスポンサーなしでそうやって運営が行われています。だから決してお金の問題ではありません。
私が製薬企業の方の顔を見るのが嫌というわけでもありません。そもそも製薬会社は、PMDAの大切なお客様です。亀井道場には、しばしば某製薬企業の営業の方が、個人的に私の話に興味を持っておいでになります。もちろん営業活動などは一切なしです。私も、PMDA Director Medical Reviewerが亀井道場の師範代をやっているのは、PMDAのお役所らしからぬ太っ腹を示す事実になると考えて、むしろ歓迎していました。
となると、製薬企業の関与をはずせない理由は、”長いつき合いでいまさら顔を潰せない。宣伝ぐらいやらせてやってくれ”ってことでしょうか。でも、特定の製薬会社の”顔を立てる”意義って何でしょう?まるっきり学生だけでやっているところがある一方で、キャリアを積んだお医者さんが、特定の製薬会社の顔を立てなくてはならないのはなぜでしょうか?
製薬企業の方も、病院の講演会に投入する人と時間と金に見合ったアウトカムが得られているかどうか、厳しく査定しているとは思えません。太っ腹で、医学教育に協力しているという姿勢が大切ということなのでしょう。だから、止めてしまってもよさそうなものですが、そこは、講演会の後援そのものが営業成績として評価されるし、その経費も宣伝費として計上できるし、一旦止めてしまえば復活は容易でなく、他社との競争に負けることになるから、売り上げがどうあろうと止めるわけには決していかないのでしょう。
そんなふうに考えていると、勉強会を開催することが目的なのであって、その中身などどうでもいいのかな、だから破談になってしまうのかなと、がっかりしたりしますが、みなさん、別途、スポンサーがつかないで済む勉強会を企画してくださるとおっしゃってくれるので、救われています。
構造主義の四銃士の1人、ジャック・ラカンは精神分析が専門ですが、彼はどんな短いセッションでも、かならず満額の料金を請求したそうです。そうすることによって、財貨とサービスのやりとりという、治療者と被治療者の間の最も基本的なコミュニケーションを維持したというのです。製薬企業が医学教育に関与すると、教育者と学習者の間における財貨とサービスのやりとりが最初から奪われてしまいます。お弁当なんか出たりすれば、さらに、教育者と学習者の間のコミュニケーションが減弱し、講演会は絶好の休憩時間と化します。もう、こうなると、私がいくら新薬の悪口を言っても、耳に届かなくなるわけです。
典型的な問題は学会のランチョンセミナーの内容で明らかです。批判的吟味の立場から、聞くに堪えないような内容を得意そうに喋る演者。学会という公式の場で放送されれば、たとえ内容がスポンサーの宣伝ビラと同様であっても、演者の権威と学会の権威が相乗作用を示し、ランチョンセミナーの内容がまるで明日からの診療に生かせる金科玉条のような錯覚を抱かせ、大勢の医者から批判力を奪っています。ランチョンセミナーの内容を鵜呑みにする医者には、みのもんたを非難できる資格などありません。
コクランコロキウムはエビデンス構築のための国際的な集まりですが,そこには製薬会社の影も形もありません.我々は,薬の名前の入ったボールペンがなくなったら,文字が書けなくなるわけではありません.薬の名前の入った弁当箱がなければ,学会出張先で飢え死にするわけでもありません.同様に,我々は,製薬会社のスポンサーがつかなくても,学べるのです.いや、むしろ、学会のランチョンセミナーなど、なくしてしまった方が、医師の批判力はむしろ向上するでしょう。
ボールペンを拒否しても、弁当を食わなくても、製薬会社の活動を否定することにはなりません。むしろ、有効性が疑われる販促費が削減できて随分と助かるはずなのです。ボールペンや弁当やランチョンセミナーで医師をコントロールできるとの考えは妄想に過ぎません。余所の会社もやっているから、横並びで、ウチもと、ただひたすら横並びで、無駄金を使うのは止めましょう。
とまあ,ここまでが,私のスタンス.以下はより,一般的なお話
野村 英樹・錦織 宏・宮田 靖志 プロフェッショナリズムについて考えるフォーラム 白衣のポケットの中[7] 製薬会社提供の弁当,ボールペン,診療ガイドラインを受け入れるか?JIM 2007;17:714-719
これを読むと,みなさん、もやもやした気持ちで悩んでいるのがよくわかります。この、”悩む”というのが大切なことだと思います。こういう複雑なことで悩まなくなったら、思考停止によって自分も相手も極めて危険な状態に陥れることになります。
医師と製薬企業の関係についての私の結論はごく平凡な(しかし面白い)ものです。たとえ診断名が同じでも患者によって治療が異なるのと同じように、医師と製薬企業の関係は、、どの側面も一律の規則によって規定できるものではなく、時と人と場合によって異なる ということです。なんだ、そんなことかと言わないで下さい。”そんなこと”が難しくて、多くの人がもやもやしているのですから。
たとえ会社が同じでも、MRさんによっても、売り込む品目によっても、営業姿勢によっても、所属組織の内規や方針によっても、医師のその日の時間の余裕によっても、違ってきます。ハードエビデンスだけで診療内容が決まるのではないのと同じように。
医師と製薬企業の関係が面白いのは、その時々の状況において成り立つ関係に対して、どうしてそうなるのか、常に、自分に対しても、相手に対しても、外向けの第三者に対しても説明ができるように、一々考える緊張感があるところです。これも、診療方針の決定プロセスとの共通点かなと思っています。