”予約外で,健康診断書希望の患者さんが来ているんですが” 外来からの連絡だった.年度始めではよくあることだった.健康診断書は保険が効かないので,その料金は医療機関の言い値になるが,国立病院での作成料金は比較的安いので,よく依頼がある.それもついこの間までは1500円だったのが,何の予告も,誰への相談もなしに,3倍に値上げされた. なんてこった.
”今,病棟だけど,もうすぐ仕事が一区切りつくから,15分ほど待ってもらうように伝えて”
15分後,外来に行ってみると,一冊の机の上には分厚いカルテがあった.初診じゃないんだ.そんな人がなんでまた健康診断書をと思い,本人を呼び入れる前にカルテをめくった.
森下邦男.56歳.担当は精神科で,私は彼に会ったことがなかった.診断はアルコール依存と肝機能障害.一年以上通院を中止していた.
机の上に用意されていた書式は,外来看護婦から連絡を受けた通り,(病気の)診断書ではなく,健康診断書だった.つまり,彼は就労や就学に差し支えないという証明書が欲しいのだ.56歳だから,就学ではなく,就労のはず.しかし,一年以上通院を中止しているアルコール依存と肝機能障害には,おいそれと就労可能と診断書にはかけないことは,彼の方もよく心得ているはずだ.こりゃ,わけありだな.
私は彼に会うのは初めてだったが,彼は厚顔無恥な人間ではなく,むしろ気の弱い人だろうと想像した.アルコール依存症の多くは粗暴な人間ではない.よほどよんどころない事情で,切羽詰って来院したのだろう.前科の記録のある当院によく来てくれたと言うべきか.それにしても弱ったな,精神科の主治医に押し付けるか.
一年以上通院を中止していたことを理由に,面倒なことはごめんだと,精神科の主治医に御注進申し上げるのも可能だったが,まずは実際に会って,話を聞かなければ,学生か研修医並みの安易な逃避行動になってしまうと思い直して,彼を診察室に呼び入れた.
照れ笑いを浮かべながら入ってきた彼の姿は予想通りだった.無精ひげは伸び放題,服装もだらしがない.酒臭い.しかし態度はおだやかだった.
”森下さん,健康診断書ということですが,どちらに提出なさるのですか?”
”港湾局です”
”港で働くんですね.荷役ですか?”
”いえ,埋め立ての仕事です.土を運ぶんです”
”重労働でしょうけど,お金を稼ぐために働かなくちゃならないんですよね?”
”ええ,お金がなくなっちゃったもんですから”
”お酒は止められませんか?”
”ええ,つまらないなと思うと,どうしても飲んじゃいますね”
”ご家族は?”
”独身です”
”生活保護は?”
”受けていません”
面倒くさい役所の手続きなど,もとよりする気がないのか,それとも,税金を納めていないのに,税金から生活費を受ける気になれないという謙虚さからなのか.
彼が港で働いている最中に吐血したら,労働基準監督署は私を訴えるだろうか.しかし,彼は生きていくための金を必要としている.しかも,正当な労働によって生活資金を得ようとしているのだ.非現実的なリスクを心配して,彼の生活の糧を断つことの方が,彼にとってはもちろんのこと,私にとっても,より大きなリスクとなるだろう.
私は,就労可と記した診断書に署名捺印し彼に渡した.目的を達成しても,彼の表情は照れ笑いのままだった.4500円も投資したのだから,交渉の結末は,彼にとって当然だったのかもしれない.低所得者向けの市営住宅に住み,酒を飲み,金がなくなれば土方をやって酒代を稼ぐ.それが彼なりの生き方なのだ.今風の言い方をすれば,それが彼のQOL (Quality of Life 生活の質)ということになろうか.
診断書発行と引き換えに,通院を強く勧告することもできたかもしれないが,通院すれば何がしかの金もかかる.仕事も休まなくてはならない.その結果解雇されるかもしれない.結局困窮に追いやって彼の命を縮めることになる.
“死になさんな”と,喉まで出かかった言葉を飲み込んで,お大事にと,お決まりの言葉で彼を見送った.