”医者になったからには、総合的な臨床能力をつけたいが、専門医の道も捨てがたいので迷っている”とか、”家庭医になりたいが、ローテート先の専門医の先生から、「家庭医?何それ」と言われて落ち込んでいる” といった、若い人の素朴な悩みしばしば聞きます。
”人生は設計していくものだ”というドグマに惑わされるのは、若人の特権です。そういう人達には、「人生は設計できるものではない」(宋文洲の傍目八目 2007年4月12日)という言葉を贈ります。宋 文洲は、日本に留学中に天安門事件が起きて帰国を断念し、日本で就職したが、勤務先が倒産。92年ソフト販売会社のソフトブレーンを創業し、代表取締役社長に就任、99年2月代表取締役会長に。2000年12月に東証マザーズ上場、2005年6月に東証1部上場を果たしました。
一方、人生は設計できると信じて疑わない人には、宋 文洲の言葉は理解できないでしょう。 なお、社会的地位の高さと、その地位についている人の計画性や人格との相関関係が極めて希薄な事実は、「人生は設計できるものではない」という主張の傍証になっています。
私のこれまでの五十年間は、行き当たりばったりと、その場凌ぎの連続でした。何かを”計画”した覚えがないのです。もし、計画したことがあったとしても、それが思うとおりの結果をもたらした覚えはありません。成功という概念には、計画通りやってうまくいったというプロセスが含まれますから、そういう意味では、私の人生の中で、成功と呼べる出来事はありません。いい結果は、全て、たまたまそうなったことばかりです。逆に、悪い結果は、そもそも計画していないのですから、失敗とは呼びません。せいぜい”思惑違い”とでも呼びましょうか。
”人生をやり直すことができたら”とかいう質問を投げかけられることが私にもありますが、この質問は、何か計画して、その計画通り物事が運ぶという見込みを前提にしています。だから、私にとっては、この質問自体が無意味です。”もし、診療科を選び直すことができたら”という質問も、同様に無意味です。
整理しますと
○一部の特別な人間を除いて、人生の大事を計画するような大それたことはやらない、できない。せいぜい、”思惑をめぐらす”程度
○その思惑にたまたま合致する結果もあれば、思惑と正反対の結果もある。
○記銘力障害のない人は、事前の自分の頭の中が思惑程度だったことを記憶しており、「人生は設計できるものではない」と結論する
○一方、特異な形の記銘力障害=過去の出来事の読替 が得意な人は、たまたま生まれたいい結果については、”ああ、これは自分が綿密な計画を立てた結果だ”と解釈してしまう。一方、悪い結果については、”自分の計画が悪かった”と強い自責の念に駆られるか、あるいは、”自分が素晴らしい計画を立てたにもかかわらず失敗したのは、何か自分以外の原因(=他人)があるに違いない”と考える。
おまけで、最重要な人生設計と一般に信じられている事業に関する設問です。
ドイツの高名な精神科医であり同時に哲学者でもあったカール・ヤスパースは、独身・妻帯者のいずれだったでしょうか?→ヤスパースの「訂正不可能な誤った判断」 という言葉をグーグルで検索すると答えが出てきます。