出張先でご一緒した、社会的にも責任のある職務(非医療職)に就いていらっしゃる、50代男性の方と、帰りの車中で、医療に関するお話しになりました。奥様が進行期の乳がん、ご自身も喘息持ちという話になり、「世の中って不公平ですけど、仕方ないんですよね。そう思いませんか?」
と同意を求められたので、いつものように、真正面からは答えずに、ところで、「不公平」って何?「不公平」かどうかって、誰かに承認してもらうことにどんな意味があるのか?という話にしました。他者との比較においてしか、自分の幸せを捉えられないと、一生幸せな気分になれません とまでは言いませんでしたが。
「不公平」って、いくらでも自由にデザインできます。健康状態ばかりでなく、年収、持ち家、肩書き、家族構成・・・「目に見える」項目の数々を縦横無尽に駆使して、自分の都合のいいように、いくらでも不幸な自分をデザインできます。
食事をして美味しいと感じる。花を見て美しいと感じる。休日の朝、紅茶をいただいてほっとする。どれもこれもそう感じるのは自分であって他人ではないのに。
「安心して絶望できる人生」の中の、境界型人格障害者の当事者研究の項に、「感情は他人にの中にはない。自分にある」と気づきの記載がありました。そこを読んだ時、こういう言語化も、自称健常人にはできないことだよなあと思いましたが、病という資源を得てもなお、幸せな気分の当事者意識に目覚めることは難しい、いや、難しいと言うより、時間をかけて目覚めていくのでしょうね。
「不幸への一番の近道は、他人を羨むことです」 マザーテレサがそう言ったことがあるかどうかは、私には知る術がありません。しかし、彼女なら、きっとその言葉に頷いてくれたと思うのです。