恐怖のアパート探し:その2

フラット捜しの媒体としては,大学の住居斡旋部のリスト,新聞広告,不動産屋の3つがあるということは研究所の人が教えてくれた.ここから先は当然自分一人しか頼りにならない.初めから新聞広告の家主に直接交渉したり,不動産屋に出かける度胸はとてもなかったので,まず大学の住居斡旋部を尋ねることにした.自分は大学の職員だし外国から来た訳だからいろいろと世話をやいてくれるのではないかしらんと漠然とした期待を持って出かけてきたのだが、住居斡旋部なんてたいそうな名前がついていても何のことはない、ただフラットのリストを渡してくれるだけで、あとは自分で電話をかけて個人的に交渉しなければならない。なんだこれなら不動産屋の方が余程ましだ。

地名がわからない、土地勘が全くないことも大きな障害だ。これが東京ならどこどこは交通の便はいいが環境が悪いだの、買物には便利だの大体の検討がつく。浅草とか新宿とか聞けば大体どういうところか検討がつくというもんだ。でもいきなりヒルヘッドとかゴヴァンとか(両方ともグラスゴー住いの人間なら誰でも知っている有名な地名)聞いてもあなたわからないでしょう。しかしここはグラスゴーである。一体職場までどの位の時間がかかるのか。バスは乗換えなくてはならないのか、治安はいいのか悪いのか、買物の便はどうか等々。どれをとってもわからないことだらけ。

こわい.電話をするのが怖いのである.この恐怖感は外国生活をした人間ではないとわからないだろう。対人恐怖症というやつが、会話の障害で更に増幅され、それが更に電話という目に見えない相手との交渉で更に倍増するのである。ああ,英語で電話するなんて!.なんて恐ろしいことなんだろう.でも逃げられないのである。自分一人しか頼るものはない.意を決してボタンを押す.受話器の向うでベルがなる.留守であってくれ.矛盾した願い.しかし数回のベルののち相手は電話出てしまった.もう逃げられない.

”もしもし、ブレアーさんですか? ”
”はあ? ”
”ブレアーさんですか? ”
”そうです ”
”私はあなたが所有しているところのフラットを見学することを希望致します.大学のリスト、あの…大学の住居斡旋局のリストに掲載されていたところの物件を私は意味している。 ”
”何でしょうか ?”
”あなたのフラットが見たい ”
”それで? ”
”いつなるでありましょうか。つまり…フラットを私が見た、いや、訂正致します。見るであろう時です。あなたにとって便宜よきであろう時はいつでありますか? ”
”はあ? ”
”いつフラット見るか? ”
”今日…… ”
”なんておっしゃったのでありましょうか ”
”今日の6時 ”
”それはわたくしにとって都合がよい ”
”…… ”
”なんておしゃったのでございますでありますか ”
”公園通り…番 ”
”あなたは公園通り30番とおっしゃったのでありましょうか ”
”じ・ゅ・う・さ・ん・ば・ん ”
”はい13番ですね.承りました.もう一度確認させていただきとうございます。本日午後6時公園通り30、じゃなかった13番ですね ”
”……”
”なんておっしゃったのでありますか”
”一番上だ!”
”何がでしょうか?”
”フラットが!!”
”とおっしゃいますと…あのおっしゃる意味が判りかねますが”
”一階,二階,三階,その次で一番上”
”ああわかりました.階のことですね”
”そう”。(と電話の向うで苦笑している声が聞えてくる).
”ありがとうございました。ではのち程御会いしましょう。さようなら”
”さようなら”

ふーっ。2分間かそれ以下の時間だったろう。しかしウインブルドン決勝で5セット戦ったあとみたいにくたくたになった。相手は落語の与太郎と話をしているみたいな感じなんだろうなあ。相手も疲れるだろうがこっちも必死だ.でも必死でやってこの程度がようやくなのだ。情けない。こんなことでどうなるのだろうか。一件目の電話をしただけだというのに。

グラスゴー日記目次へ